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生き返る

暑い夏は終わったが、この国の内憂外患は続く。ふと気づいたのだが、今年は明治が終わってから百年、戦後、連合国から独立して六十年の節目の年にあたる。あの西欧列強の圧力にあっても、屈することなく近代化を果たした明治の人々、また戦後の焼け跡から立ち上った先人たちをあらためて覚える。 今朝、聴いたのもエゼキエル書の「復興の福音」。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。・・・見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹きこむ。するとお前たちは生き返る」(37:4―5)。エゼキエルという名には「神が強くする」という意味がある。その名に相応しい預言の言葉が、この書に込められている。もっとも、彼が生きたのは、古代イスラエル史の中でも極めて悲惨な時代だった。紀元前6世紀、イスラエルは大国バビロニアの軍事力の餌食になり、神の都エルサレムは破壊され、国そのものが焦土と化し、多くの民が、バビロニアへと捕虜として連れ去られた(バビロン捕囚)。 エゼキエルはそのバビロニアの地で、「枯れた骨の谷」の幻を見たのである。谷間に転がる無数の枯れた骨、それは苦悩と諦め中で死んで行くイスラエルの人々の姿のようだった。しかし、彼は次に、突然、神の息吹が吹き、枯れた骨が繋がり、その上に筋と肉が付き、生き返って歩き始める姿を示される。四面楚歌の中で、絶望しかないと思われるところで、私たちに開かれる神の世界があることを、この書は告げているのである。「新しい心と新しい霊を造りだせ。・・・どうしてお前たちは死んで良いだろうか。・・・お前たちは立ち帰って、生きよ」(18:31―32)とエゼキエルは主の言葉を預言する。 今、私たちは生きよう。御国を心に刻み。そして、地上のこの国の上にも、この先、六十年、百年・・・と神さまの豊かなお守りがある事を信じて・・・。


☆9月30日説教「地の塩、世の光」要約:
「あなたがたは地の塩である・・・あなたがたは世の光である」(マタイによる福音書5:13、14)
これは「地の塩、世の光になりなさい」という勧めの言葉でも、命令でもありません。主イエスが権威をもって語られた宣言なのです。「あなたがたは地の塩、世の光である」と。 私たちの日常は、およそその宣言には相応しくないものかもしれません。しかし、そこに私たちが存在し、生きていることに意味があると、主は言われるのです。なぜなら私たちを「塩」「光」として下さったのは神様だからです。大切なことは、信仰によって生きることです。信仰の味をもって、また信仰による光を輝かせて生きることです。
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by aslan-simba | 2012-09-28 08:10 | Comments(0)

途方に暮れても失望せず

私たちの人生の歩みの途上には、周囲を見渡しても、将来を見通しても、何らの光も見出せないような時がある。そこに立ち尽くし、絶望と困惑・・・ そういった状況に陥った方から時折相談を受ける。その際に、精神医学者フランクルのこんな言葉を紹介することがある。「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはないのだ」。フランクル自身、ユダヤ人として、強制収容所の生死の境の中で、不条理とも言えるような「人生からの問い」、「神からの問い」と冷静に向き合い、生き抜いてきた。その彼の言葉には、希望に生きる重みが示されているからだ。 また、詩編を読み、祈ることも勧める。詩編は、そのものが祈りである。祈れない時には、この書を読むことが祈りとなる。今、手元に開いている詩116編では、詩人がこう祈っている。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(116:4)と。神さまはその祈りに応え、救いの御手をさし伸べて下さるのである。人生の悩み、病気、争いの困難な現実に直面する詩人を、神さまが思いもよらないほどの深い憐れみをもって包み込まれ、大きな救いへ導いて下さった事がここに告白される。神の救いは、人間の祈りをはるかに超える豊さをもって、この身に実現されるのである。「私は主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 私に耳を傾けて下さる 生涯、私は主を呼ぼう」(116:2)。私たちの絶望と困惑を打ち破る信仰の言葉がここにある。だから、私たちは信じてこう語ることができよう。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8―9)。そうだ!あなたを救う神さまが、あなたに絶望することは絶対ないのである。


☆9月23日説教「思い悩むな」要約:
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイによる福音書6:33)
「主の祈り」は「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(6:5)と祈るよう示されます。そのように祈り求めて生きることこそが、「神の国と神の義を求める」ことなのです。さらに主イエスは言われます。「神の国と神の義」を求めるならば、もはや私たち自身の未来について、明日について、思い悩む必要はないのである、と。なぜなら「天の父」は、その御心の実現を求める「子どもたち」のすべての必要を満たされるからなのです。感謝
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by aslan-simba | 2012-09-20 09:28 | Comments(0)

白髪は輝く冠

九月の第三月曜日は敬老の日、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」である。戦後に兵庫県で始まった「としよりの日」が、その発祥だそうだが、この日のそもそものルーツは、聖徳太子による四天王寺(大阪)の悲田院(ひでんいん) 設立の日(9月15日)にちなむとも言われる。この悲田院とは、仏教の教えに基づき、身寄りのない高齢者や病人を介護する救護施設だったと聞く。 聖書の伝統も、高齢者に敬意を寄せてきた。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ19:32)とある。他にも老人に関する記述は数多い。たとえば、こんな預言の御言葉もある。「主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。 万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には再び、老爺、老婆が座するようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いざわめく・・・」(ゼカリヤ書8:4―5)と。これは紀元前六世紀、捕囚から戻って来た預言者ゼカリヤが見たヴィジョンだが、時空を隔てて21世紀の、我が国の高齢者への近未来預言と読み取れないだろうか・・・そうであれば本当に有難い。それは、現在のような内憂外患の状況になく、高齢者が幼子たちと共に、「笑いざわめき」ながら、安心してこの国に住めることを意味するからだ。そこに大いなる希望がある・・・よしんば、その通りの状況にならなくとも、どこまでも希望はある。神さまは、私たちが尊厳をもって地上の生涯を主に在って全うすることを望まれているからである。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言16:31)。


☆9月16日説教「戦い」要約:
<説教要約>
「民は皆、鬨(とき)の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい」(ヨシュア記6:5)
私たちが人生において、新たな一歩を踏み出すような時、しばしば直面するのが、前途を阻む壁である。ヨシュア率いるイスラエルの民も、その壁と対峙せねばならなかった。約束の地への進入を阻む、高くそびえ立ったエリコの城壁、そこから引き返すわけには行かない。しかし神の導きの下、事態は坦々と進んだ。神が先頭に立ち、その壁を打ち崩して下さったのである。神が共にある時、必ずや道は拓ける事が示される。奇跡は起こる。
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by aslan-simba | 2012-09-13 11:08 | Comments(0)

義の栄冠へ

初秋の風が旧約の御言葉を響かせる。「肉なるものは皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの・・・草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ」(イザヤ40:6-7)。春に萌え出で、夏に輝いた草木の自然は、直にその色を変え、やがて枯れ果てて行く。人の一生も同様である。このように草花にたとえ、人間の限界と滅びを見つめたのは聖書だけではない。古来、日本人も、人生を自然と対比させ、その歩みのなかに栄枯盛衰、諸行無常を見つめて来た。明治のキリスト者で、日本人の美徳を世界に伝えた新渡戸稲造は、その精神性を桜に喩え「わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しおらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる準備ができている」(『武士道』邦訳より)と述べた。そこに「死を受容する潔さ」がある、と。 使徒パウロの殉教直前の心境を映す言葉と重なる思いがする。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(テモテ二4:6-8)。苦難の人生、その戦いを終え、今、世を去る時を待つ。それは、彼にとって、栄光の体へとよみがえる待望の時でもあった。彼は続けて言う。「正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けて下さいます」と。 私たちも、信仰によって御国を望む時には、はかなさは朽ちない命の希望となり、限界と滅びは永遠へのステップ、苦難の場は待望の場へと変えられるのである。今、御国を思う新たな季節に入ることを許された。「義の栄冠」に向け、爽やかな一歩を、また踏み出したい。


☆9月9日説教「幸い」要約:
「ただ神により頼む人々は幸いだ。天の国はその人たちのものだから」(マタイによる福音書5:3 共同訳)
御言葉を自分自身への語りかけとして聞き、自らの足りなさ、乏しさ、貧しさを覚える人に主は言われる。「幸いである」と。 乏しい者、貧しい者は求めざる得ない。求めなくては生きて行けない。だから神に求め、神に依りすがる。「主よ、憐れんでください」と。そのような私たちに「自らの貧しさに嘆かざるを得ない人よ、あなたがたは幸いだ。天の国から遠いと思っている人々よ、あなたがたは幸いだ。天の国はむしろあなたがたのものなのだ」と主は言われる。
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by aslan-simba | 2012-09-06 07:23 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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