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朝・・・創造を覚えて

あさかぜしずかにふきて 小鳥もめさむるとき きよけき朝より清く うかぶは神のおもい・・・」(讃美歌30)。 夏の朝は早い。夜が明け染めると同時に、一日が始まる。鳥のさえずりが響き渡り、木々の葉に露が光る。朝の光を喜ぶ生きとし生けるものの鼓動を感じる。ここにまた新たな命を与えられたことも実感する。 今朝は、創世記冒頭の天地創造物語から聞く。神は天地万物を造られ、最後に人を造られたとされている。つまり、人間が生きて行くために必要なものを、神はまず準備された上で、人を造られたのである。一切の創造の業を終えられ、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)という。この創造主がキリストにあって、今日も私たちを見守り、共にあって支え、導いて下さるのだ。感謝なことに、私たちはこの神さまを知っている。否、この神さまに知られているのである、何という恵みだろうか。 ところで今月初め、「神の粒子、発見」というニュースが世界中を巡った。ジュネーブにある研究機関が「ヒッグス粒子」を見出したと発表したのである。ヒッグス粒子は、「万物に質量を与えた粒子」「宇宙の創世記を解明する粒子」との由。研究者たちが長年探索し続けてきたものという。その方面には明るくないが、「物理学における真理探究の成果が、最高点に到達しつつある」ということなのだろう。真摯な努力に敬意を表したい。分野は違っても、人が真理探究に取り組むとき、最終的には必ずや神の偉大さを知ることになると信じる。一方、私たちは信仰者として、神の真理の探究を続けよう。「神さま、今日も生かされ、感謝します。この時代の中、与えられた使命を誠実に担えますように」と、祈りが込み上げてくる。外では早くも蝉時雨が始まった・・・今日も暑くなりそうである。


☆7月29日説教「虹の約束」要約:
「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(創世記9:16)
神は、ノアの箱舟の出来事を通して、私たちに大いなる約束を下さいました。それによると、この世界は、神によって立てられた「永遠の契約」の対象ということなのです。すなわち、生きとし生けるものは、神さまの愛の眼差しのもとにある存在と、されているのです。それゆえに神は一切衆生のために、壮大な救いの計画を立てられ、ご自身のひとり子を、この世界に遣わし、十字架につけることさえ、厭われなかったのです。
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by aslan-simba | 2012-07-26 14:42 | Comments(0)

今日という日

夕暮れ、山の端に真っ赤な夕陽が沈んで行く。暑かった日が終わろうとしている。皆さまにとって、今日は、どのような一日だっただろうか。 七月も後半、2012年という年も200日ほどが過ぎた。思えば、私たちの人生の歩みは、「今日」という一日を繰り返しながら、日々を積み重ねているのである。そこには喜びの日や楽しい日だけではなく、悲しみの日や困難な日もある。しかし、神さまは、その一日一日を恵みの御手をもって導いて下さる。それゆえ信仰とは、「今日」の事柄である。「今」という時を、私たちは真摯に覚えるべきなのである。使徒パウロは言う。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント二6:2)。 浄土真宗の蓮如も同じことを語ったそうだ。「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う」と。つまり「信仰は、明日の事ではなく、今のことだ」というのである。ちなみに蓮如が生きたのは、15世紀の戦乱の世、多くの人々が明日に不安を抱きながら生き、そして死んで行った時代。 21世紀を生きる私たちも、ある意味では、先の見通せない不安な時代にある。だから、「今」をしっかりと捉えるべきではないだろうか。 現実の困難さを口実に、心を頑なにしてはならない。信仰を明日のことへと延期すべきではない。先延ばしをしても、明日が訪れるという保証はないからだ。どうか今日、今、祈りつつ御言葉に聞いて欲しい。聖霊の働きによって、そこに必ずや必要な示しが与えられると、私は信じる。そして、希望をもって共に立ち上がろう。明日も神さまは、御前におのが日を数える御恵みを必ずや下さることを信じて・・・主が共にある時、そこに必ず良い日が巡り来るはずだ。明日も皆さま方の上に、益々のお守りがありますように。


☆7月22日説教「カインとアベル」要約:
創世記四章には、アダムとエバの子ども、カインとアベルの兄弟の物語が記されています。兄カインは「土を耕す者」、弟アベルは「羊を飼う者」でした。この二人の献げ物に対して、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4―5節)のです。そこで、カインは怒り狂い、ついには弟アベルを殺してしまったのです。新約のヘブライ書は記します。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」(11:4)・・・と。この意味を、ご一緒に考えたいと思います。
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by aslan-simba | 2012-07-20 18:18 | Comments(0)

聖霊

「聖書が聖霊を生かすのではない 聖霊が聖書を生かすのだ 聖書に解きがたきところあらば まず聖霊にきかん 聖書のみに依る信仰はあやうし! われ今にしてこれをしる、おそきかな」(八木重吉)。信仰の詩人の言葉に、今さらながら、はっとする。御言葉を我が身に成らす聖霊の力。 聖霊は「三位一体の第三位格の神」、「父なる神と子なるイエスの永遠の愛」、「父なる神へ執り成す力」等々と理解されるが、ただ言葉にしてしまうと、どこかもどかしい。本来、聖霊は頭で理解するのではなく、信仰をもって経験するものだからだ。私たちが信じ、祈れるのは、そもそも聖霊のおかげなのである。 この「聖なる霊」(詩51:13、マタイ1:18)を、聖書は単に「霊」とだけ記すことが多い。原語は、旧約のヘブル語も新約のギリシア語も共に「風」ないし「息」を意味する言葉である。従って、それは私たちが与った「神の息」(創世記2:7参照)と言い得よう。 以前、ある方が、この「息なる霊」は、「日本語では『気』に相当する」と記していた。「気」という言葉は、「やる気」「気まま」「気遣い」など、心の状態を示す。ちなみに、気を病むのは「病気」、気が元に戻るのが「元気」だ。よって、「気は人間の身体にあって、身体に生気を与え、心身を調和させる活力的な原理」というのである。どうだろうか。 私は、聖霊を「神さまの霊」「キリストの霊」、すなわち「わが内に住む神」として捉える。それこそ「気力が失せる」ような時は、聖霊の出番である。現状の困難や悲しみ、苦しみ、問題を、聖霊は共に担って、励まし、克服させて下さる。さらに救いの完成に向け、私たちに御国を示されるのである。真摯に聖霊の助けを願いつつ聖書を読むならば、御言葉が生きて、体に染み入るはずだ。その時、益々の生きる勇気と希望と喜びとが私たちの内に溢れ来るのである。


☆7月15日説教「心に灯りを」要約:
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5:16)
使徒パウロが「喜び・祈り・感謝」を勧めるのには根拠がある。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」、つまり、それが神さまの「御心」だからである。 「常に喜べ。絶えず祈れ。凡てのこと感謝せよ」。今が、どんなに辛くとも、私たちが喜びをもって、その中を生きることを望まれる神さまは、必ずや、その場を喜べる場として下さるのである。それをしっかりと銘記し、この週もここに、絶えざる祈りと感謝の信仰生活をスタートしようではないか。
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by aslan-simba | 2012-07-12 10:07 | Comments(0)

信仰と祈り

「ゆきなれた路の なつかしくて耐えられぬように わたしの祈りのみちをつくりたい」。八木重吉の詩。妻子を残し、29歳という若さで夭逝した詩人の信仰を支えたのは、祈りだった。信仰者は祈りに生きるのである。<信仰>とは、すなわち<祈り>。祈りは、信仰生活の呼吸のようなものと言えよう。祈りをもって、私たちは神と語り合えるのである。従って、祈ることを許され、祈れるということは、私たちにとって計りがたいほどの大いなる恵みであり、大いなる特権ではないだろうか。 主イエス・キリストも、公生涯の歩みのなかで、本当によく祈られた。新約聖書には、主が朝早く起き、一人で寂しい所へ出向き、祈られた記事が記されている。また、忙しい一日を終えた夕べにも祈られた。十二弟子を選ぶ際には、徹夜で祈られている。受難を前にしても熱い祈りが捧げられた。十字架の上においても、私たちを執り成すための祈りをなして下さったのである。私たちは、この主イエスに従い、今を歩む者である。ならば、もっと祈ってよいはずである。とくに苦しみの時、悲しみの時、困難を抱えた時には、神さまに思いのたけを訴えようではないか。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6―7)。 そして、その祈りに加え、「あなたの御心が行われますように」と願いたい。神が私たちの思い以上の最善を、この身になして下さることを心から信じて・・・「あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください」(詩119:68)。


☆7月8日説教「信なき信」要約:
「イエスは言われた。『できればというのか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助け下さい』」(マルコによる福音書9:23―24)
ひとりの父親が、汚れた霊に取りつかれた我が子を「救って欲しい」と、主イエスに懇願する。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と・・・彼はここで、一切を委ねて、主にすがりついたのである。実に見事な「信仰」ではないだろうか。主イエスはすぐに、癒しの御手を差し伸べられた。このように、主イエスを心底受け容れる時には、自分と家族の上に、大いなる救いが必ず訪れるのである。
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by aslan-simba | 2012-07-05 21:01 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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