でんでんむしの悲しみ

どんよりとした梅雨の朝、鮮やかなアジサイの花が美しい。今朝は、カタツムリとも出合う。その姿をみつめながら、『でんでんむしの悲しみ』という童話を思い起こす。 ある日、でんでんむしが、自分の殻に悲しみがいっぱい詰まっていることに気付いた。彼は、「これでは、もう生きては行けない」と、友だち達を訪ね、この悲しみを訴える。すると、どの友だちも異口同音に、自分の殻にも悲しみが詰まっている、と答えるのである。友だちのそのような話を繰り返し聞き、最後に、彼は悟る。「悲しみは、誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえて行かねばならない」と。そして、彼は、もう嘆くのを、やめたのである。作者は、あの『ごん狐』を書いた新見南吉、大正から、昭和のはじめを生きたこの人の作品に励まされた人は多いと思う。『でんでんむしの悲しみ』も、私たちに大切なメッセージを伝えている。 辛さ、悲しみを背負って生きているのは、自分ひとりだけではない。誰もがそれに耐えて生きているのだ。だから、悲しみに押し潰されず、立ち上がって行こう、と。 主イエスは、「悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる」(マタイ5:4)と言われた。私たちが悲しみに沈む時、その傍らに主がおられ、慰めの御手を差し出されていることに気づきたい。また旧約には「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ36:15口語訳)とある。私たちが常に抱える悲しみにも、苦しみにも意味がある。それは主に在って、必ず救いの喜びに変えられるという希望である。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)。


☆7月1日説教「働く御力」要約:
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて・・・あなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・・。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ4:16―21)
神さまは御力をもって、私たちの願い、祈りを必ず実現してくださいます。私たちは幾度か、そのことを経験してまいりました。これから先も、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべて」を叶え、さらなる大きな祝福を下さるのです。心から感謝し、祈り続けましょう。
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by aslan-simba | 2012-06-28 21:21 | Comments(0)

生命の樹

梅雨、うっそうとした木々に覆われる、近所の御陵の道は、私にとっての「哲学の道」、「信仰の道」である。 犬を連れ、祈りつつ歩く夕べの散策の折に、ふと御言葉を示されることがある。今日、聞いたのは、「わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむ」(イザヤ書65:22口語訳)だった。 「木の命」、古来、樹木は生命力の象徴として、語られてきた。さまざまな宗教や神話において、「生命の樹」というシンボルが登場するという。仏教の菩提樹や娑羅双樹、あるいは、神々の依代(よりしろ)とされる、神社のご神木なども、それと関係するのだろう。 創世記によれば、エデンの楽園の中央には「知恵の樹(善悪の知識の樹)」と「生命の樹」が植えられていた(2:9)。最初の人間アダムとエバは、神との約束に反し、その「知恵の樹」の果実を食べた。そんな彼らを、神は楽園から追放した。そして、「生命の樹」に、人間が近づけないようにされたのである(3:24)。それは、生命の樹の実を食べ、人が「永遠に生きるおそれがある」(3:23)からだ、と創世記は語っている。 ヨハネ黙示録は、この「生命の樹」が天上にあり、復活のキリストを信じ、迫害のなかにあっても、信仰の道を守り通す者には、この木の果実にあずかれる、と述べている(22:1-5)。何とも有難い話ではないか。 さらに、黙示録はキリストを、「ダビデのひごばえ」と表現している。「ひこばえ」とは、「伐った草木の根株から出た若芽」のことである。「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない」(ヨブ14:7)・・・。木々を見上げ、主にある新たな命、永遠の生命に与ることを待望しつつ、希望の人生を歩める御恵みに、感謝したい。


☆6月24日説教「求めよ」要約:
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイによる福音書7:7)
「求めなさい」と教えて下さった主イエス。ご自身も「御心が天になる如く、地にもなるように」と、ひたすら父に求め、自らを十字架に献げられた。今、私たちが、神さまのことを「天の父」と、安んじて呼ぶことができるのは、それは、ひとえに主が、私たちの罪を贖って下さったおかげである。つまり、イエス・キリストが御自分の命を賭して、私たちが親しく神さまに、祈り求めることができるような関係性を、切り拓いて下さったのである。感謝。
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by aslan-simba | 2012-06-21 09:09 | Comments(0)

梅雨とウグイス

「今年は梅雨の季節も、感謝と讃美のうちに過ごしたい」と、先週、このブログに記した。今、ここにその季節を迎え、普段より早起きし、早め早めに物事に取り組むべく心がけている。 そんな一日が一段落、雨上がりの夕方に犬と散歩。宇治御陵の道を行けば、夕暮れの厚い雨雲のあい間から、ほのかな光がもれる。「天は神の栄光を物語、大空は御手の業を示す」(詩編19:2)の御言葉を思い起こす。あたりを見渡せば、雨に打たれた木々の木立は、色濃さを一段と増している。梅雨の花々も美しい。 ふいにウグイスの鳴き声が耳をかすめた。「ホーホケキョ」・・・見事な声である。六月のウグイスは、夏鶯(なつうぐいす)、老鶯(ろうおう、おいうぐいす)というそうだ。早春に「ケキョ、ケキョ」と幼い鳴き声で、春の到来を告げた若いウグイスが、今や壮年期、中高年期に達している。「尋常に鴬老いる小藪哉(こやぶかな)」(正岡子規)・・・ちなみにウグイスは、老年期に至る盛夏あっても、鳴いてくれる。さて今日は、どのあたりで鳴いているのか。藪の中を見つめて目を凝らすが、目立たない小鳥だけになかなか見つけられない。 それにしても、よいところだ。この辺りには、今なお、このようにひなびた自然の香りが漂っているのである。こういった環境も手伝ってか、ここでの散策の折りには、よく子どもの頃の記憶も甦える。幼いころを過ごした、あの木造の家や、昭和三十年代に目にした光景が脳裏にフラッシュバックする。もう半世紀も前のこと。一緒に遊んだ友だちは、どうしているだろうか・・・。そして思えば、もうすぐ母の命日。 またウグイスが鳴いてくれた。明日も良い一日になりますように。


☆6月17日説教「恐れるな」要約:
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ書43:5)
かつて、神さまは捕囚の民に、そう語りかけられ、神と共に歩む新たな一歩へと彼らを導かれました。今、同じ御言葉が、主イエスを信じる私たちにも、与えられております。私共の贖いのため、十字架につかれた主イエス・キリストは、復活され、こう語られました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と。そうです。私たちは、この主と共に歩ませて頂いているのです。主を信じて、どこまでも従って行けるのです。御国へと至るまで・・・
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by aslan-simba | 2012-06-14 14:37 | Comments(0)

麦秋から梅雨へ

今は麦の取り入れの季節、「麦秋」(ばくしゅう)と言われる。麦収穫の「秋」として、このように名付けられたそうだ。味わい深いネーミングである。初夏にある「秋」、畑は実った麦の穂で黄金色に覆われ、田植えの終わった田んぼの緑と、美しいコントラストをつくり出す。吹く風も、どことなく夏めくこの時期、景色は一段と明るさを増している。 けれども、麦の秋は短く、また、すぐに梅雨を迎えなければならないのである。それを思うと、何となく「うっとうしい」気分に陥るのだが・・・。ちなみに、私たちは普通、晴れの日を、「良い天気」と言い、雨天については、「天気が悪い」と表現する。確かに、雨の日は外出しづらいものだ。また突発的なゲリラ雷雨や暴力的・破壊的な集中豪雨は、私たちの生活を脅かす。しかし言うまでもなく、適度の雨は絶対に必要だ。それがなければ、我々は、動物は、自然は、生命を維持できないのである。19世紀の英国の評論家、ジョン・ラスキンが、このような名言を残している。「日光は快く、雨は爽やかで、風は気を引き締め、雪は活気づける。つまり悪い天気というものはなく、さまざまな種類のよい天気があるだけなのだ」。これを一言で言い表せば、禅語の「日日是好日(にちにちこれこうにち)」ということになるだろう。 思えば、この世界を、自然を造られたのは、神さまである。聖書は告げる。「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え、山々に草を芽生えさせられる」(詩147:8)と。神さまの「ご計画」の下に、雨も降るのである。ならば、降る雨にも、主の御心を覚え、雨を降らす神さまの御業を心にとめようではないか。今年は梅雨の季節も、感謝と讃美のうちに過ごせれば、と願う次第だ。


☆6月10日説教「新生」要約:
「はっきり言っておく。人は、新たに[上から]生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3:3)。
註:「新たに」と訳出される原語には、「上から」という、もう一つの意味があります。
主イエスが重要な事として、ニコデモに言われたのは、「人は新たに、上から生まれなければならない」ということでした。「上から」とは、「神から」あるいは「神によって」生まれるということです。感謝なことに、私たちは、上からの聖霊によって、新しく生まれさせて頂いているのです。このことを銘記しましょう。
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by aslan-simba | 2012-06-07 09:16 | Comments(0)

感謝、喜び、祈り

「闇が深さを増してきました」と始まる、作家・五木寛之氏のエッセイを、一気呵成に読んだ。内容は、厳しい時代状況の中を、人はどう生きて行くべきか、を問うたもの。五木氏は「期待感」を捨て、事実を真正面から受け止める「覚悟」を勧める。そして、「この先が、『地獄』であっても、極楽であっても・・・生きるこの大変さと儚(はかな)さを胸に、この日一日一日を感謝して生きて行くしかない」(『人間の覚悟』)と結ぶ。 エッセイの趣旨には共感できないところもあったが、重い現実を淡々と見据えつつ、生き方としての「感謝」が最後に示されたのは、興味深かった。 ところで、「感謝」と言えば、私の脳裏を常に横切るのが、使徒パウロの言葉だ。「常に喜べ。絶えず祈れ。凡てのことに感謝せよ」(Ⅰテサロニケ5:16~18)と。このように、「感謝」には、絶えず「喜び」と「祈り」が付随するはずだ。「喜びの手紙」・フィリピ書では、「・・・神に感謝し・・・いつも喜びをもって祈っています」(1:4)と述べる。パウロがこのフィリピ書を記したのは、死を待つ牢獄という、客観的に述べて、感謝と喜びには、ほど遠い場所だった。それでもなお心底感謝し、喜び、そこで祈ることができた。それは「主が共に」いて下さったからだ。すなわち、辛く厳しい、先の見えない状況、呻吟せざる得ないような場にも、生きて働かれる主の御手が及び、私たちを恵みと祝福で包み、導かれるのだ。だから、いかに暗い時代でも、いかなる困難な状況にあっても、私たちは、喜びと希望を抱き、祈りつつ歩めるのである。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4:4)、この御言葉を真摯に心刻むとき、御国の門は開かれる。感謝


☆6月3日説教「真理の霊」要旨:
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる・・・この方は、真理の霊である・・・」(ヨハネ14:16―17)
聖霊は「真理の霊」として、私たちに真理を悟らせ、私たちを導く。その真理とは、イエス・キリストのことである。そして聖霊は、私たちを父なる神に喜ぶ者へと変えて下さり、私たちの内にいてくださって、弁護者となり、助け主となり、慰め主となってくださるのである。私たちは、聖霊によって、大きな力を得るのである(使徒1:8参照)。主は、そのことをこう言われている。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:12)と。
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by aslan-simba | 2012-06-01 18:41 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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