旅立ちの季節

もうすぐ春四月、新たな年度。学校も教会も、そして私たちの人生の新たな季節も、そこに始まります。この時期、私は決まって、創世記のアブラハム物語を思い起こします。 彼は父親から譲り受けた安定した生活を捨てて、新たな人生の歩みを決断・・・それは「主」からの呼びかけに従ったからです。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい・・・』」(12:1)と・・・かなりの無謀な冒険を強いられたようにも思えます。しかし、神さまを信じ、約束の土地を思い描き、家族を引き連れて出発しました。 ちなみに、アブラハムがこの旅立ちをしたとき75歳だったと聖書は記します。彼の死も175歳と言われていますから、その辺りから推測すると、人生半ばにさしかかる頃の出来事でしょうか。いずれにせよ、そこそこの年齢での門出だったと思います。 そして、そのようにどこまでも主にゆだねての旅立ちでしたが、その旅の生涯の日々は必ずしもほめられることばかりではなく、逆に失敗、挫折とやぶれの多いものでした。最後にアブラハムが得ることができたのは、一人の息子と、妻を葬った小さな墓所だけ・・・それでも神さまの祝福を受け、「満ち足りて」生涯を閉じることができたのです(25:8参照)。「信仰の父アブラハム」の人生は私たちに信仰の意味を示しています。それは今は見えなくとも確かに拓かれる未来への希望です。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)。ここに御国を望み、新たな一歩を共々に踏み出したいと願います。


☆4月1日(棕櫚の主日)の説教要約:
「シモン・・・わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22:31) 
くず折れかけた人を執り成し、もう一度立ち上がるように励ます主の眼差しがここにある。このペトロを見つめる視線は、今の私たちをも勇気づけ、包んで下さるのである。

★受難週(聖週)聖句-マルコ福音書より
日曜(棕櫚の主日) エルサレム入城11:1―10、 月曜 宮きよめ11:15-19、 火曜 神殿説教11:20―13:2、 水曜 オリーブ山説教13:3-37、 木曜(洗足木曜日) 最後の晩餐14:12-72(ヨハネ13:1―11)、金曜(受難日) 十字架の出来事15:1―47、土曜(聖土曜日) 16:1

◎桃山栄光教会の4月4日(水)午後2:30~4:00の「祈り・学ぶ会」は、マルコ福音書15: 33-41を中心にキリストの十字架について心に刻みます。共々に御言葉を味わいませんか。どうぞお気軽にお立ち寄りください。
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by aslan-simba | 2012-03-28 14:24 | Comments(0)

時を知り、新たな一歩を

寒さは和らぎ、春の足音が聞こえ始めた年度変わりのレントの時期・・・それは同時に、卒業の時であり、入学を迎える時であり、あるいは新たな仕事を始める時だろう。人によっては長年携わった職を辞め、他の道への挑戦を始める時かもしれない。しかしこの時に至っても、なお先が見通せず、困難な問題の中にふさぎこんでいる人もあるだろう・・・。いずれにせよ、私たちは「時」というものを、どのように捉えているだろうか。 旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道者の書)は、「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある」(3:1)と記し、そして、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる」(3:11)と述べている。つまり、すべての時が神の御手の内にあることを、まず銘記したい。 新約聖書のパウロの手紙は、「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既にきています。今や信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(ローマ13:11)と語る。ここで言われる「時」(原語でカイロス)とは、主イエスの十字架と復活による「救い」への「転換点・変わり目・曲がり角」を示す。言葉を換えれば、「闇から光」への転換点、「夜から朝」への変わり目、「絶望から希望」への曲がり角が、レントとイースターを通して、私たちに確かに与えられるのである。だから、今の人生がどのような状況にあろうとも、そこに止まるのでも逃避するのでもなく、「眠りから覚め」、御手にゆだねて立ち上りたい。 人生のこの節目の時、安らかな思いをもって、未来への新たな一歩を軽やかに踏み出そう。カイロス(時)を知り、まったき「救いの近づき」をこの身に覚える者として。明るい日差しの中を・・・


☆3月25日説教「主の杯」要約:
「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコによる福音書10:38)
信仰者の人生とは、主イエスの差し出される「人生の杯」を飲むことではないだろうか。それは、十字架の苦難をくぐり抜け、復活の勝利へと至る「祝福の杯」なのである。主はその杯を私たちに向かって高く上げ、私たちをまったき救いの道へと導いて下さる。主は「わたしを苦しめる者を前にしても・・・わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩23:5)。のである。その杯を存分に味わいながら、このレントの日々を雄々しく歩もう。主の大いなる恵みと憐れみとを豊かに受けながら。
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by aslan-simba | 2012-03-20 09:09 | Comments(0)

東大寺のお水取りが終わった。春寒しだいにゆるむ今日この頃、三月も半分が過ぎようとしている。いよいよ年度末、何かと気忙しい日々が続く。ただ私は例年とは趣(おもむき)の異なる、ある種の充足感をもってこの時期を過ごしている。 実はこの年度、個人的にさまざまな経験をさせて頂いた。そのひとつは何といっても、まさかの町内会長拝命だった。さらに用が増えることに多少の躊躇はあったが、決まったからにはしっかりやらねばと前向きに取り組んだ。おかげで時間の有効活用に心砕きつつ、毎日を歩んでこられた。「日日是好日(にちにちこれこうにち)」という言葉をかみ締めながら・・・。 ちなみに、この「日日是好日」とは唐時代の禅語で、その意味するところ、「時は過ぎやすく、決して同じ一日はないことの反省をもって、この一日というかけがえのない即今(そくこん・いま、ただいま)を享受すること」なのである(『岩波仏教辞典』参照)。要は「与えられた一日を悔いなく過ごすこと」、英語でいえばSieze the Day(その日を掴め)ということにでもなろうか。 全力投球させて頂いたおかげで、町内のことにも明るくなり、また市の行政も少しばかり興味が持てるようになった。もっとも、偉そうなことは言えない。町内会長が何とか無事に務まったのは、多くの方々のお支えとご協力があればこそ、感謝もってそのことに気づかされた。 あとしばらくしたら、お役御免となるが、「日日是好日」の精神はこれからも大切に、新たな年度も歩んで行きたい。言うまでもなく、その一日一日の根底に、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(コリントの信徒への手紙二6:2)という神さまの憐れみがあることを銘記して。


☆3月18日説教「悲しむ勝者」要約:
「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」(サムエル記 下 19:1)
父ダビデに刃を向けた息子アブサロムの反乱。それはアブサロムの死によって終わった。知らせを聞いたダビデは「息子に代わって自分が死ねばよかった」と嘆く。ダビデはそこまで息子を愛していたのである。しかし人間はどんなに愛する相手であっても、その人の身代わりにはなれない。その人の救いは神さまにより頼む以外には他にないである。だから、私たちは愛する者のために祈り、ゆだねるのである。そんな私たちに、このような御言葉が与えられている。「主を待ち望め。雄々しくあれ。心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)と。
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by aslan-simba | 2012-03-14 09:03 | Comments(0)

一年後

桃の節句も過ぎ、少しずづ春めいてきた。やわらかな雨上がりに明るい陽光がさし込む。今日、近所でウグイスの初音を耳にするが、しかし未だレントの只中。もうすぐ3月11日を迎える。 未曾有の大震災、大津波、そして原発事故から一年。政治・行政のもたつきで、復興は今なお進んでいない。今週、ある雑誌の表紙に震災被害者の埋葬のため、ようやく復旧できた墓地へと雪の中を歩く遺族の後姿が写し出され、「一年後、日本の終わっていない復興」と題されていた(Time , March12, 2012 )。あらためて、被災者ご遺族および行方不明者の発見を待つ家族、親族の方々の心情に思いを馳せる。遺体のないままで葬儀をされたケースも多いと聞く。一万六千人近くもの死者、三千人を超える行方不明者。数だけでは表現しきれないほどの「生」と「死」を巡る悲愴で荘厳なドラマが、そこに展開されたことだろう。ある被災者が「あの時以来、自分の中の時計は止まってしまった」と語っていた。重い言葉だ。 また、この震災に関わり、放射能問題が大きくクローズアップされるようになった。だが、それをもって被災地ガレキ処理の拒否や風評被害の問題が起こるのは、本当に残念である。「がんばろうニッポン」「がんばろう東北」「未来への絆」といったスローガンを、魂の伴わないお題目にしてしまってはならない。 今回の震災で、互いを思いやる日本人の美徳が、世界中から称賛を受けたのは記憶に新しいところだ。私たちは誇りをもってこの尊い精神伝統を伝えて行くべきではないか。犠牲となられ、礎となられた多くの方々を覚え、心に刻み、祈りつつ・・・。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」(イザヤ書40:1)。


☆3月11日説教「ゆだねる信仰」要約:
「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思わることをわたしに対してなさるように」(サムエル下15:26)
罪多きダビデでしたが、ここに彼の「ゆだねる信仰」に基づく生き方があります。神に委ね、自らできる事の最善を尽くすのです。私たちはどうでしょうか。自らの身を振り返ると、委ねきれていないのが現実かも知れません。心底、主イエスが共にいて下さることを覚えましょう。そうすれば、おのずと委ねる方向へと導かれます。主イエスが共にあって、神に委ねた人生が失望に終わるはずがありません。また委ねている時にこそ、今なすべき最善を尽くせるはずです。
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by aslan-simba | 2012-03-06 17:49 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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