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永遠の生命へ

14年間連続で自殺者が三万人を上回ったと聞く。それにしても与えられた生を自らの手で断つことを思うと、本当に心痛む。 聖書は、神がこの命を下さったことを告げている。さらには、「永遠の生命」の約束をも示す。これを真摯に受けとめるなら、いつ、いかなる時代、どのような状況下にあろうとも、そこで「生きること」に、大きな意味があるということだ。逆境や不遇の日々にあっても、そうなのである。 かつてアウシュヴィッツを経験した精神病理学者フランクルが、このようなことを記していた。「ある若い女性が、或る日思いがけずも強制収容所へ送られた。そこで彼女は病気になり、日に日に衰弱していった。・・・近づいてくる死を彼女はよく意識していた。彼女の横たわっていた病舎の寝台から窓を通して、ちょうど花の咲いているカスタニエンの樹を見ることが出来た。・・・『この木は私の孤独における唯一の友です』と彼女は言った。花咲く樹は死に向かいつつある女性に向かって何を『言った』のであろうか。『樹は言ったのです―私はここにいる―私はここにいる―私は生命だ、永遠の生命だ』」と(『死と愛』より)。神は一本の木に自らを託し、この女性を励まされたのである。どのような時においても、どのような場所―よしんば、それが地獄のような場であっても―神は傍らにいて下さるのである。「だから、わたしは如何なる境遇にあろうとも、そのなかで足ることを学んだ」(フィリピ4:12私訳)。「わたしたちの一時の串難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもらしてくれる」(コリントⅡ4:17)と、信じることができる。命を与えるこの神さまを心から覚え、祈り、そして一切を委ねて、「永遠の生命」に向かって歩もうではないか。


☆1月29日説教「命の言」要約:
「この命は現れました。・・・わたしたちに現れた永遠の命を、わたしたちは見て、あなた方に証しし、伝えるのです」(ヨハネの手紙一 1:2)
聖書は偉大な「命の出現」を告げます。それは「暗闇と死の谷」にあるこの人間世界に「神さまの偉大な命」が現れたことを意味します。その命が、傷ついた私たちの心の深みに現れ、私たちを知り、私たちを引き寄せ、私たちと共にあって、私たちのために苦しみを担い、私たちの一切をご自身が負ってくださるのです。この現れた「命」とは、明らかに主イエス・キリストのことです。私たちの魂に深く「現れた」この主をしっかりと受け止め、信仰をもって歩みましょう。感謝
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by aslan-simba | 2012-01-26 07:53 | Comments(0)

笑うから幸せ

「笑顔は人を癒す」、日々の生活での実感である。ならば、私たちの「癒し主」である主イエス・キリストは、よくお笑いになったのだろうか・・・福音書にはイエスが「涙を流した」、「怒った」、「疲れた」などの記述はあるが、「笑った」とは記されない。だからであろうか、中世のキリスト教は、「笑い」というものを軽視していたようだ。 「キリスト教と笑い」をテーマに、中世イタリアの修道院を描いた小説がある(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』)。物語は、修道院内の図書館で「笑い」を評価する書物の閲覧を避けるため、連続殺人が起こされるというもの。犯人の老修道士は、キリストは笑わなかった、笑いは人を堕落に導く「悪の所業」だと固く信じていたのである。ある意味で、当時の「笑い」に対する理解の一端が垣間見える。 しかしながら、「あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)と人々を励まされた実際の主イエスは、本当はよく笑われた方ではないだろうか。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」(マルコ2:19)との御言葉などから、「呵々大笑」(かかたいしょう・禅語)され、喜びを周囲にもたらされる御姿をありありと示されるのである。ある牧師さんがこう言っていた。「イエス様はいつも当たり前のように笑顔をたえされなかったので、福音書記者はあえて『笑った』とは書かなかったのだ」と。 「笑う門には福来る」という。「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(アラン『幸福論』より)。共々に笑顔を忘れずに、主にある幸いのうちを輝かしい未来に向けて歩み続けよう。「そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう・・・『主はこの人々に大きな業を成し遂げられた』と」(詩編126:2)。


☆1月22日説教「ここから生きる」要約:
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ」(列王記上17:3)
預言者エリヤの闘いが、列王記上17,18章に描かれています。それは不屈の人生でした。その歩みで着目すべきは、彼がまずケリト川ほとりに身を隠し、神さまの養いを受けたことに発しているのです。恩寵の中に身を隠す生活こそが、積極的に使命に生きる人生の秘訣なのです。私たちにとってそれは、主日礼拝の生活です。自分自身を顧みても思います。神と共に歩んで来たのが、私たちの人生だった、と。そう思う時、静かな感動と確信に満たされます。ここから生きて行きましょう。
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by aslan-simba | 2012-01-17 21:34 | Comments(0)

冬の光

「冬がきたら 冬のことだけ思おう 冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう 冬がきたら 冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう」(坂村真民「冬がきたら」より)。 寒の時期、暗い朝が冷たければ冷たいほど、日中の陽の光は輝かしく、昼下がりには、それによるほのかな暖かさに触れる楽しみがある。「冬のたましい」が教えてくれるこの喜びを思いつつ、今日のスタートを切る。厳しい寒さの中にあっても、穏やかさをたたえた一日であることを心から願いながら。 もっとも、手にとった朝刊にはあいかわらず心重くさせられるニュースが多い。この日本のこと、世界のことも日毎、祈らずにはおられない。「神の摂理と人間の混乱」・・・  ふと創世記一章のはじめを思い起こした。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり・・・」(創世記1:2)。この創造前の混沌(カオス)の暗闇は、決して遠い昔の出来事でも、「おとぎ話」や「神話」でもなく、今の我々の世界の現実、あるいは人間一人一人が抱える事実を意味しているのではないだろうか。このような人間世界のもつ暗闇が簡単に片付くものではないことは分かる。しかし、カオスがカオスのままで終わるのでは決してない。そのなかに「光あれ」という神さまの御声が発せられ、一筋の世界が全宇宙を走ることを信じたい。聖書は、「その光」を「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」イエス・キリストとして示している(ヨハネ1:9)。そして「暗闇はこれに勝たなかった」、と!(1:5参照)。 この光の主であるキリストが共にあって、私たちはその光の下を行けるのである。厳冬の日々も恐れることなく、真実の「冬のいのち」に触れながら歩める幸いに感謝したい。


☆1月15日説教「キリストを着る」要約:
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ信徒への手紙3:27)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマの信徒への手紙13:14)。
神さまは私たちを、イエス・キリストに結ばれる者として新たに造りかえ、希望に生きる者にして下さいました。「キリストを着る」とは、そのキリストそのものを絶えずこの身にまとっている自覚の事です。使徒パウロは「この事実を真剣に受け止めなさい」とガラテヤの人々に、また私たち一人一人に対して勧告します。キリストは私たちを支え、私たちを包み、ご自身に似たものとしてくださっているのです。感謝と共に、キリストを着ている者として恐れずに歩みましょう。
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by aslan-simba | 2012-01-10 17:47 | Comments(0)

希望の歩み

人生を旅に喩えるなら、正月はひとつの峠になるだろう。しばし腰をおろし、これまでの歩みを顧み、新たな行く手をのぞみながら、靴のひもを結び直す時だ。人々がこぞって初詣へ出向くのは、その象徴的行為なのかもしれない。ともあれ私たちも、この年を雄々しく歩むために、希望を新たにしたい。 「希望は人生の旅路の糧」といわれる(フランスのことわざ)。希望のない人生はむなしい。いみじくもダンテの『神曲』の「地獄の門」には、「われをくぐる者は一切の希望を捨てよ」と記される。コヘレトの言葉には「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」(伝道9:4 新改訳)とある。つまり、希望をもつことが生かされることの証なのである。 希望について、あるラビはこう教える。「最悪の状態でも人間は希望を失ってはいけない、悪いことがよいことにつながることもある。それを信じなければならない」と。至言である。 聖書はこの希望の根源に神を置く、そして、その希望の根拠が神にある限り、「喜びと平安」がそこにあることを告げる(ローマ15:13)。さらには「希望するすべもなかった時にも、なおも希望を抱いて、信じる」ように導かれるという(ローマ4:18)。私たちがここで希望を新たにするのも、ひとえに神さまの御恵みなのである。むろん、それは信仰へとつながるだろう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)なのだから・・・。 正月の休みは終り、新たな年の日常がスタートした。共々に主に在って、さらなる希望の歩みを積み重ねよう。


☆1月8日説教「御言葉を聞く」要約:
「・・・わたしを憐れんで下さい、娘が悪霊に酷く苦しめられています」(マタイによる福音書15:22)
病気の娘を抱える異邦の女性が、一心に主に願い、遂にはその願いが聴かれという物語。彼女はひたすら「主よ、憐れみたまえ」=「キリエ・エレイソン」と叫び続けました。そして最後には、主イエスの前にひれ伏して願い、その祈りが聴きとどけられたのです。主イエスはこの女性に言います。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」(28節)・・・「あなたの信仰は立派だ」とは原語で、「あなたの信仰は偉大だ」という事です。その「偉大な信仰」とは、どこまでもあきらめずに主イエスに願い求める信仰、何と言われようとも、徹底的に主を信頼する信仰だったのです。
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by aslan-simba | 2012-01-05 10:01 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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