御手にある

「門松は冥土の旅の一里塚 ありがたくもあり ありがたくもなし」(一休宗純)、皮肉屋の一休さんらしい言葉だ。おそらくは「年頭にあたり老いと死とを意識せよ」とのメッセージが込められているのだろう。 いずれにせよ新たな年が巡り、またひとつ歳をとる。ただし老いることを、私たちが皮相に捉える必要はまったくない。主に在って、大いなる希望があるからだ。英国の詩人ブラウニングは詠う。「共に歳を重ねよ! 最善の時はこれから来る 人生の終わりのために人生の始まりはつくられた 我らの時は御手のうちに在り・・・(Grow old along with me ! The best is yet to be, The last of life,  for which the first was made :Our times are in His hand)」(「ラビ・ベンエズラ」より)と。これは信仰告白と述べてよい。「御手のうちにあり」とは、神さまの御手にあることだ。つまり、私たちの人生は、このちっぽけな自分たちの手にあるのではなく、一切が神さまの慈愛の下にあるのだ。確かに老いれば、心身は共に衰える。しかし、そんな私たちを御手もって霊的に益々成長させて下さり、御国へと導かれるのである。 その力強い神さまの御手を具体的に述べれば、それはイエス・キリストの御手のことである。私たちのために十字架で釘づけにされたあの御手を広げ、主イエスは言われる。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪う事はできない」(ヨハネ10:28)と。何とも有難いことではないか。私たちのすべての生涯の時が、その御手の中にあるのだ。だから新たな年の歩みを徹底的に委ねようではないか。最善の時の到来を待ち望みながら「我が時のすべて汝の御手にあり」(詩31:15)「神の為し給ふところは皆その時に適ひて美しかり」(伝道3:11)と心に記して。

☆1月1日礼拝「キリストの言葉」要約:
「キリストの言をして豊に汝らの衷(うち)に住ましめ、凡ての知慧(ちえ)によりて、詩と讃美と霊の歌とをもて、互に教へ互に訓戒し、恩恵に感じて心のうちに神を讃美せよ」(コロサイ3:16文語訳)。
主の御言葉が心の内に豊かに宿る時、私たちは「キリストの平和」に充たされます。たとえ死の陰の谷を歩むとも、恐れず雄々しく歩む勇気が頂けるのです。この先、何があろうとも、私たちは永遠の主であるイエス・キリストの御前を、喜びをもって歩ませて頂けます。この新たな年、この教会と共に私たち一人一人が主の御言葉によって力強く生かされ、益々成長できますように。
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by aslan-simba | 2011-12-28 15:56 | Comments(0)

木には希望がある

寒気の厳しい道を行く。葉を落とした木々のたたずまいが目にとまる。さまざまな事があったここまでの歩み・・・あの緑一色に輝いた若々しい日々はとうに過ぎ、まばゆいほどに美しい紅や黄金色のきらめきを見せた季節もすでに終わっている。しかし、なお毅然と立ち続ける凛としたその木々の姿に、神々しさを覚え、思わず立ち止まった。ふと「木には希望がある」(ヨブ記14:7)という聖句が脳裏を走る。そこで、その木々に語りかけてみた・・・「『希望』という言葉を示してくれてありがとう」と。木々はしっかりとした言葉で、「どういたしまして。互いに希望をもって頑張ろう」と答えてくれた・・・ように思えた。(動植物と自由に話すことのできたアッシジの聖フランチェスコの気持ちが分かるような気がする)。ともあれ、その木たちが抱く希望、それは再生への希望、すなわち静かに「復活の春」を待つ希望である。 「わたしたちは知っているのです・・・忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません」(ローマ5:4-5)。希望は単なる願望ではない。やがて新芽が枝に萌え出でるように、復活の主に在って必ず具体的な形をなすのである。私たちも確かな「復活の希望」をもって新たな年へと踏み出したい。「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝も いつも神は われらと共にいます」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)・・・
皆さまの上に、希望と平安に満ちあふれた新春が訪れますよう心よりお祈り申し上げております。


☆1月1日(日)10:30~創立記念元旦礼拝を行います。是非、お立ち寄り下さい。祈りをもってお正月を迎えましょう。
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by aslan-simba | 2011-12-26 08:22 | Comments(0)

2011年度クリスマス

2011年度のクリスマスをここに迎えることが許されました。主イエス・キリストの恵みと平安が、皆さま方の上に豊かにありますようお祈り申し上げます。 今年一年の歩みをふりかえり、また新たな年へと向かうおうとするにあたって、「神の恵みによって今日の恵みがある」(コリント一15:10)という御言葉が与えられました。思えば、自分という存在の一番の深みに、神さまの御恵みが絶えずあり、それゆえに困難な時代にあってもこのように生かされていることを思います。自らの根底にインマヌエルの事実があること、ただただ有難いことです。私たちは、これに気づかされるとき、本当に生きる勇気がわき上がってまいります。 共々にこの御恵みの下にとどまり、これからも互いに憶え、祈り合いつつ、思いを一つにして神さまの指し示した道を辿り続ける私たちでありたいと願います。 インマヌエルの主をここに新たに迎え、その導きの光に照らされながら、どこまでも希望と喜びと心からの感謝をもって進んでまいりましょう。Merry Christmas!
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by aslan-simba | 2011-12-21 21:01 | Comments(0)

12月24日(土) 午後7:00~キャンドル礼拝 説教「クリスマスの光」
12月25日(日) 午前10:30~クリスマス礼拝 説教「クリスマスの出来事」
                    洗礼式、聖餐式を行います。
           午後12:00~クリスマス祝会

☆本当に小さな教会ですが、お気軽にお越しください。歓迎致します。ご一緒にクリスマスの喜びに与りましょう。
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by aslan-simba | 2011-12-18 21:56 | Comments(0)

キリストの支え

急に寒くなった。晩秋も最後の時―暦の上では随分前から冬になっているのだが―見事な黄金色に染まった銀杏の木、また美しい紅葉の木々も、じきにそのすべての葉を落とすだろう。木々を見上げながらふと切なさを覚える。 良寛の二つの辞世が脳裏をよぎった。「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」、「自分には形見に残すものは何もないが、この美しい自然は自分の死後も変わるまい」という歌。そして、もう一つが「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」―これは、もみじの葉に自分の人生の歩みをなぞったものだろう。同様に、他の多くの先人たちも四季の自然をめでながら、それに重ねて自分たちの生涯―その栄枯盛衰や諸行無常―を見た。人生の晩秋の最後は、落ち葉のように散り果てて行くものとして・・・。 聖書もこう記す。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ・・・」(イザヤ40:6新改訳)と。しかし、そんなはかない私たちに対し、御言葉はこうも告げる。「エルシュンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、栄光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に・・・」(申命記33:26―27)。エルシュンとはイスラエルのこと。すなわち、神さまが私たちを助けるために天から降り、私たちを滅びから救い出し、永遠の御国へと導いて下さるという事だ。クリスマスの出来事はその成就を告げるのである。今、散りゆく私たちを受け止めてくれる温かいキリストの掌がある。支えてくれる強い御腕がある。だから委ね、安んじて生きようではないか。


☆12月18日説教「神を待つ」要約:
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』。そこで、天使は去って行った」(ルカによる福音書1:38)
マリアは本当にアドヴェントの人だと思わされます。私たちが神を待ち望むときにも、彼女のようにどこまでも御言葉を信じ、それを心底、受け容れ、従いつつ待つ・・・そのときクリスマスの奇跡は私たちの身に必ず起こります。
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by aslan-simba | 2011-12-14 20:45 | Comments(0)

インマヌエル、アーメン

「神、共におられる」・・・これは旧約聖書を貫く中心的なメッセージの一つと述べてよい。聖書の伝える信仰者たち―創世記のヨセフ、出エジプトのモーセ、詩編のダビデ、預言者イザヤ・・・―は皆、この御言葉を支えに、危機から立ち上がって来たのである。翻って私たちも人生の困難に瀕する時は、この御言葉を聞くべきだ。 新約聖書のクリスマスの出来事も突き詰めれば、その一点に絞られるだろう。ヨハネ福音書はこの事実を「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と記す。ここの「宿る」とは「住み込む」とか「滞在する」と訳すべき言葉で、一時的ではなく、まさにキリストがこの我々の中に、共に生きる者として入って来て下さったという事なのである。マタイはイザヤの預言を引用し、その「インマヌエル」こそが主の御名だと教える(1:23)。ちなみに「インマ」が「共に」、「ヌ」が「我々」、「エル」が「神」の意味だ。マリアの突然の受胎にたじろぐヨセフは、天使からこの御名を示され、マリアを妻として迎え入れたのである。インマヌエル、「共にある主」の御名、その力・・・ 戦前、神学者で牧師であった橋本鑑(かがみ)は、人々の信仰が、実際の生活の中に「受肉」していない事を嘆き、身をもって福音に生きる大切さを教え、実践した。橋本牧師は称名念仏ならぬ「福音的称名」を提唱し、朝夕、木魚を叩きながら「インマヌエル・アーメン」と唱え続けたという。御名にすがって生きる大切さが示される。「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」(箴言18:10)のである。御名は私たちの力の源泉となる。私たちは今日も主の御名を呼びつつ、祈り歩めるのである。「インマヌエル・アーメン」感謝


☆12月11日「聖霊によりて」説教要約:
聖書は私たちに、神に深く動かされる境地を教えます。それは神さまの霊=聖霊に動かされる事です。聖霊による祈りのなかで、神に動かされるとき、そこには自由があり、平安があります。希望があります。大きな力が湧き上がってきます。ささいなことに一喜一憂するのではなく、私たちは神さまに心から委ねて歩んでまいりましょう。アドヴェントの時、皆様方のご健康をお祈り申し上げます。
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by aslan-simba | 2011-12-07 19:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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