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教会のカレンダー

今年も、はや師走・・・カレンダーは残り一枚。しかし教会のカレンダー(教会暦)の方は、すでに新しくなった。私たちは新年を先取りしているのである。どういうことか。 教会暦によれば、教会の一年の周期は、アドヴェント(待降節)最初の日曜日(今年は11月27日)から始まるからである。このアドヴェントという言葉は「到来」「到着」や「訪問者」「来客」を意味するラテン語が元になっている。つまり、それはクリスマス行事の準備と共に、救い主の新たな到来を待ち望むことでもある。私たちの罪や汚れをその身に負い、贖うために来られ、弟子たちの足を洗い、私たちを励まし、生かして下さる御方の来臨をあらためて祈り、待つ。 それに応えてキリストは、私たち一人一人の許に訪れて下さるのである。それがクリスマスだ。クリスマス物語の文脈にはないが、ルカ福音書19章に、徴税人ザアカイの客となった主イエスの物語が記されている。それはザアカイ自身のクリスマスだったといえよう。この時、主は、「罪深い男のところに行って宿をとった」(ルカ19:7)のである。クリスマスとはまさに、キリストが新たに私たちの内を訪れ、私たちの中に宿られることではないだろうか。 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示録3:20)。新たなアドヴェント―クリスマス、今年も感謝をこめて、わが心の内に主イエス・キリストをお迎えしたい。主の新たな近づきに思いを馳せつつ、勇気と希望をもって。そして、その祝福の中で祝えるお正月も楽しみだ。


☆12月4日の説教「待つべき方」要約:
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方をまたなければなりませんか」(マタイ11:3)。これは牢獄のバプテスマのヨハネが、主イエスに投げかけた問いです。それに対して主は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」と答えられます。現実の深刻さの中にも、すでに神の働きは始まっているということなのです。 私たちは救いの完成を待つ「中間時」に生きています。しかし、すでに主に愛され、神の栄光を見ています。それは現在の試練に耐える力、そして愛する力となります。私たちは確かな望みをもち、主の証人として生き続けるよう導かれいるのです。
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by aslan-simba | 2011-11-30 19:59 | Comments(0)

光を待つ

『光あれ』(創世記1:3)。聖書の第一頁の記述。天地創造のはじめ、神が「光あれ」と言われると、原始の混沌の闇を裂いて、光があらわれた。この物語が記されたのは紀元前6世紀のこと。ユダヤの国が近隣の大国に侵され、多くの人々が捕囚の憂き目にあった時代だった(バビロン捕囚)。亡国の嘆きと、絶望の苦しみに呻吟した異郷バビロンの地で、彼らは真剣な思いで神に問いつつ、悔い改め、心新たに神に依り頼んだ。そして彼らを囲む闇の中に、必ずや真実の光が輝くことを、救いが訪れることを信じ、世界の始まりを語ったのである。 「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。主イエスご降誕の頃のユダヤの人々も、歴史の深い闇を味わっていた。彼らは心底、メシアの到来を望んでいた・・・あれから二千年、この21世紀の世界も、変わらぬ闇に覆われている。日々の報道に接する度に、それを痛感させられる。もっとも、闇は歴史的状況だけではないと思う。私たち自身の抱える日毎の現実も、そうではないだろうか。 聖書を一貫するのは、そんな私たちを、またこの世界を救おうとされる神さまの変わらぬ熱い愛である。その愛の具体的なかたちとして、御子が誕生された。その御子の光を私たちの内にお迎えする時、私たちは内面から照らし出され、勇気と希望に生かされるのである。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者を照らし、我らを平和の道に導く」(ルカ1:79)。今年も益々の深い祈りと願いをもって、クリスマスを待とう!

・・・11月27日(日)より教会暦では、クリスマスの備えをするアドヴェント(待降節)に入ります。是非、お気軽に当教会の礼拝にお越し下さい。日曜日の午前10:30からです。

☆11月27日説教「喜びの手紙」要約:聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1:3~11
福音」はギリシア語で「ユーアンゲリオン」といいます。日本語に訳せば、「喜びの音信」「嬉しい知らせ」ということになるでしょう。その福音は、すべての人に向けられています。「喜んでいる人」にも、「悲しんでいる人」にも、「困難を抱え苦しむ人」にも、「絶望している人」にも・・・。この福音には大きな力があります。それは私たちに生きる喜びを与えます。感謝を与えます。希望を与えます・・・つまり、福音は私たちを幸せにする神さまの働きなのです。パウロが書いた「喜びの手紙」には、その福音に生かされている者の「喜び」が示されています。心して聴きパウロの思いを、我が思いとしようではありませんか。
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by aslan-simba | 2011-11-21 23:07 | Comments(0)

愛すべきシワ

晩秋のせいだろうか。外出の途上、年齢を重ねる事の意味を漠然と考えた。道すがら立ち寄った書店で手にしたのは『老いの歌』という岩波新書。そこに「・・・先例のない超高齢社会とは、裏を返せば、人類にとって未知の、広大な可能性ではないだろうか?」とあった。歳をとるのも、ある種の挑戦。人間的成長はいつまでも続くという事だろうか。ふと、「五十歳になると、誰でもその人格に相応しい顔になる(At fifty, everyone has the face he deserves.)」という言葉を思い出した。 家に戻り、鏡を見る。いつもの顔がそこにある。もう五十代も後半なのだが・・・ただシワが若干深くなったようだ。庵で、ボヴェーというスイスのクリスチャン医師の記した著書を探す。昔、ある教会の読書会で学んだ本だ。そこに、こうあった。「・・・私たちはシワを、自分に対する憐憫の情もって見ることも、感傷をもつこともしないようにしましょう。むしろ、私たちはシワの中にただ、成熟し、変化しつつあり、古いものが過ぎて行くという徴(しるし)を見ようではありませんか。・・・『見よ、私はすべてを新たにする』(黙示録21:5)」(ボヴェー著作集4)。ちなみに、この文章は「愛すべきシワについて」と題されていた。ただし、これからはこういった本や知識の類はなく、自分自身、現実の老いをこの身に刻んで行くのである。でも、心配していない。「シワとシワを合わせてしあわせ」(仏壇のCM)、つまり合掌し、祈りつつ、私たちは老いの日々も、神さまに委ねて歩めるからだ。ここに真の幸せがある。

☆11月20日説教「足るを知る」要約:
パウロは自分の身体に一つのトゲ(病気)を抱えていました。何の病気か分かりませんが、時に人々につまずきさえも与えるような、身体上の欠陥でした。しかし、彼は言います。「キリストの力がわたしの内に宿るようにむしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(コリント二12:9)と。パウロは、その病気に対して不平を言いません。逆に自ら足れりとしているのです。病気だけではありません。経済面を含む、生きる上でのあらゆる境遇も、彼を卑屈にしたり、あるいは逆に高慢にしたりしなかったのです。そして、それらすべてのおかげで、自らが強められるとさえ言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリビ二4:13)。私たちもパウロと同じ地平にあります。
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by aslan-simba | 2011-11-17 16:58 | Comments(0)

尽きない望み

「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ・・・」(ローマ4:18)。信仰の父アブラハムについてパウロが記したもの。好きな聖句の一つである。アブラハムには今は夜でも、やがて朝が来るはずだという確信があった。その望みを支えるのが神への信頼、つまり信仰だったのである。私たちも今、同じ神への信仰に与っている。それをもって私たちは、現在の自分が抱える問題の中にも、将来の幸いへと繋がる深い意味を見出すことができるのである。 信仰は、日々の生活の中で、自分を背後で支えて下さる大きな力を指し示す。そして、その力の源泉である神さまが共にいて下さる。だから「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。神さまが下さった信仰の人生、そこに尽きない望みがある!

☆11月13日の礼拝説教は崔弘徳牧師が担当下さいます。是非、お越し下さい。
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by aslan-simba | 2011-11-10 07:21 | Comments(0)

野の草花

「ほんとうのことなら 多くの言葉はいらない 野の草が風にゆれるように 小さなしぐさにも輝きがある」(星野富弘「しおん」)。 私が野の草花に興味を抱くようになったのは、宇治に住み、犬を飼うようになってからだ。もっとも、言うほどに植物には詳しくない。犬と歩く四季折々の散歩道、季節の花を見つけては、妻にその名を確認している。また、名もない雑草にも、美しい花があることも知った。そういった野の草花は、与えられた時に精一杯に命を輝かせ、太陽に向かって生きようとしている。そのけなげな姿に重ね、主イエスの御言葉が心に響く。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6章)。 あらためて思う。現在ここに、尊い生命を頂いている。有難い。どんなことがあっても、神共に在って生かされている幸いを覚えたい。そして今を懸命に歩む時、御国がまた一歩近づくことを覚えたいものだ。 秋の深まりの中、しばらくすれば、野の草花はその地上での輝きを失って行く事になる。しかし、生ける「神の言葉はとこしえに立つ」ことを知る者には、それが「永遠の命」の約束の下、新たな始まりであることも知る。御国の希望に生かされ、感謝。


☆11月6日聖徒の日説教「神共に」要約
「・・・神は、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に、導き出してくださいます・・・このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(テサロニケ一4:14、17参照)。
「キリストと共に在る」ということは、人の生き方を変えますが、それだけでなく、その人の死のありようをも変えるのです。キリストに結ばれてこの世の生涯を終えた人は、永遠の命に生きると御言葉は告げているのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである・・・然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(ヨハネ黙示録14:13)。
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by aslan-simba | 2011-11-03 18:11 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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