残された希望

身の回りの問題、この国、この世界の社会や政治のありよう、また災害の問題などを憶える時、心重くなる。ギリシア神話のパンドラの話をふと思い起こす。 パンドラは最高神ゼウスによって造られた最初の人間の女性だった。彼女はゼウスに命を与えられ、他の神々からも、さまざまな良き賜物を受け、人間世界に行き、エピメティウスの妻となった。夫エピメティウスは一つの壺をもっていた。彼は妻パンドラに、それを絶対に開けるなと命じる。しかしパンドラは持ち前の好奇心から夫の命令を破り、ある日、その壺のふたを開けてしまった。すると中から、疫病や悲しみ、犯罪や欠乏の種が飛び出し、人間世界に満ちたのだ。しかし、その壺の底にたったひとつ残ったものがある。それは「希望」だった。 私たちには、まだ希望が残されているのである。これをもって、今、抱える問題の中にも未来へと繋がる深い意味を見出せるはずだ。日々の生活の中に意味を見いだせず、溜息ばかりついていても、状況は動かない。 聖書は語る。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体にあらわれるために」(コリントⅠ4:8―10)、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3―4)と。私たちの希望を支えるのは信仰であり、祈りである。十字架の栄光と復活の輝きに満つる希望に生きる。感謝にたえない。そして、勇気をもって新たな一歩を踏み出そう。雄々しく未来を見据え、神共にいまして・・・


☆10月2日説教「命の水の川」要約:
「天使はまた、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」(ヨハネの黙示録22:1―2)。 
黙示録には、天の御国の姿が生き生きと描かれています。私たちは礼拝を通して、ここに「見せて」頂けるのです。その御国の真ん中には「命の水の川」が流れています。その川から命の水を汲みましょう。この水は「全ての生き物」を生き返らせます(エゼキエル47:9)。その川の両岸にある「命の木」は常に実をつけ、私たちを祝福へと招いてくれています・・・私たちの信仰は、この世を超え、天に繋がっているのです。 感謝
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by aslan-simba | 2011-09-28 20:53 | Comments(0)

本日の教会の「学ぶ会」は台風の接近のため、お休みにさせて頂きます。現在、京都南部には「暴風警報」が出ております。神さまのお守りを心よりお祈り申し上げております。
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by aslan-simba | 2011-09-21 06:34 | Comments(0)

野の花のように

「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか・・・」(マタイ6:28―30)。  教会の帰りに、彼岸花を見た。厳しい残暑の中にも、確かに秋が巡ってきていることを感じる。この暑さも、あと僅かだろう。 家へ戻り、新聞で「萩まつり」の記事を目にする。「暑さの影響で開花が遅れているが、一部で薄紫色の花が咲き始め・・・」(京都新聞9月18日付)とある。今年も、秋の七草のひとつ、萩の花の時期も始まったようだ。ふと、芭蕉の弟子・曽良の句をそらんじてみた。「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原」と。芭蕉に別れを告げた曽良が、自らの行く手に、露が光り、しなる萩の花々を見たのだろう。これからは一人旅になるが、新たな季節の中で懸命に咲くあの花々ように、最後まで頑張ろうと詠んだのだと思う。 野に咲く花・・・それは、朝に咲き、夕方にはしぼんで行く。時に、人に踏まれることもあるだろう。けれども、与えられた時候、与えられたその場において、太陽の光、大地の養分を真摯に受け、精一杯に咲き続けるのである。そのようにたくましく、しかし可憐に咲く季節の花に、自らの人生を重ねてみると、そこから見えてくるものがあるはずだ・・・。自分の人生の歩みにも、そんな余裕と感性がもてればと願う。こんな詩があった。「眼前のことで手いっぱいのときも 花を忘れまい 大空を忘れまい おおいなるものましますことを 忘れまい」。天の神さまに感謝。


☆9月25日説教「日毎の糧」要約:
「わたしたちに必要な糧を今日あたえてください」(マタイ6:11)「わたしが命のパンである、わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。
主イエスが私たちに、日毎の食べ物のために祈れと命じられています。それは私たちが食べ物で困ることがないようにと、徹底的に配慮下さるがゆえにです。主は、私たちの日々の生活をどこまでも守り、真剣に支えて下さるお方なのです。この週、食事の度に、今日、聴いた主の御言葉を思い起こしてください。名実共に「命のパン」に与って日々を生きることができるのです。主の約束を心から感謝しましょう。
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by aslan-simba | 2011-09-19 20:43 | Comments(0)

動物たちに平安あれ

ご近所の大きなピレネー犬・・・道でその犬と我が家の亡くなった犬とは、よくじゃれ合った。その後も出会う度に、私一人なのに、大きな体をゆすり飛びついてきた。私を死んだ我が犬と間違えているのだろう、と思いつつも嬉しかった。ただ、それが度重なり、飼い主の方が困惑していたので、以後、できる限り、その犬に会わないよう心がけた。 先日、そのお宅の前を通りかかった際、犬の気配がしなかったので、庭にいたご主人に声をかけてみると、「あの犬は、つい先日亡くなりました。子供が死んだように悲しい。犬のことを人間より下等という人がいるけれど、犬の方がよほど上等だと思う。最後まで黙々と、病気の痛みに耐えたのです」とのことだった。思えば、私自身も犬から学ばされたこと、励まされたことが幾度もあった。英語の諺で「犬は人間の最良の友」(A dog is man’s best friend.)というが至言である。 ところで、十月第一主日を「動物祝福の日」(Blessing of Animals)とする教会が欧米に多いと聞く。自然と動物を愛した聖フランシスコの命日(10月4日)にちなんだ記念日だ(日本の教会では、ほとんど話題にならないが・・・)。そこで祝福される動物の大半がペットの犬との事。なるほどと思う。 先日の日曜日の朝早く、愛犬を天に送られた方が教会におられる。主ご自身からの祝福を心からお祈りしたい。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ・・・わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない・・・」(イザヤ65:25)。神の都には動物たちも沢山いる・・・私共に関わる亡くなった動物たちも平安のうちに。


☆9月18日説教「老いの祝福」要約:
「力は若者の栄光、白髪は老人の尊厳」(箴言20:29)「・・・御腕の業を、力強い御業を来るべき世代に語り伝えさせてください」(詩編71:18) 
若者には力がみなぎり、輝きに溢れている。一方、老人には白髪というだけで、威厳があると聖書は語ります。老人は多くの経験を積み、知恵や知識を身につけて行きます。それが「白髪」に象徴され、美しいのです。老人の経験は、失敗や悲しみも含め、若者に財産として引き渡すことができます。信仰生活においても、どこまでも恵みを語り継いで行くことが出来るのです。行くべき神の国を望み見ながら・・・
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by aslan-simba | 2011-09-14 18:23 | Comments(0)

自然と共に

今回の大型台風が、紀伊半島を中心に甚大な被害がもたらした。亡くなった方も百人をこえると聞き、心痛む。 3.11の大震災に始まって、今年は本当に理不尽な自然災害に見舞われ続けている。日本ばかりではない。報道によると、米国では過去最悪の規模の山火事が起こっており、先月末のハリケーンの傷跡は今なお生々しいという。 戦後、復興資材として猛烈に木が切られた折に、著名な仏教学者が「こんなに木を切ると、人間が狂うぞ」と、自然破壊に対する注意を喚起したが、今、自然が21世紀の人間たちに対しても同じように「狂うぞ」と警告を発しているのだろうか。あるいは牙をむいて逆襲しているのか・・・ いずれにせよ、人間は自然を離れて生きることはできない。空気や水、そして太陽の光・・・本来、日本人は自然を愛し、そこから豊かな恵みを享受してきた。時に、恐ろしい顔を見せる自然と対峙しつつも、共に生きてきたのである。 今、空気の爽やかな季節が巡ってきた。あくまでも澄み渡った空。夜半には白い月が輝き、草むらの虫の音が響き渡る。この優しい自然の姿に安堵する。 かつての旧約の詩人の記した言葉を心に刻みつつ、共々に自然の恵みを願い、また災害からの回復を心より祈りたいものだ。「主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126篇)。天地を創造され、自然を司る神さまのご恩寵を真摯に憶えて・・・感謝。


☆9月11日説教「ヒゼキヤの祈り」要約:
「見よ、わたしはあなたの寿命を十五年伸ばし・・・あなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く」(イザヤ書38:4、列王記下[第二]20:1―11参照)
ヒゼキヤ王は死にかかっていました。神さまは預言者イザヤを通して、彼の死が定まったことを告げます。その時ヒゼキヤ王は顔を壁に向け、主の御前に誠実に歩んで来たことを訴え、「生かしてください」と涙ながらに祈りました。神さまはその「涙の祈り」を受け容れ、彼の寿命を十五年伸ばして下さったのです。さらにエルサレムを、敵アッシリヤの手から守ることも、約束されました。どこまでも信じ、あきらめずに祈るところに不可能なことはありません。神さまは、私たちの祈りの一言一言を真剣に聴いておられるのです。本気で祈り続けようではありませんか。

★先日の台風の折、当教会の十字架が落ちた模様。事故にならなくてよかったです。拾って教会の玄関においてくださった方おられました。本当に有難うございました。
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by aslan-simba | 2011-09-07 21:30 | Comments(0)

今と未来を生きる

午前中、窓からのぞく日差しは相変わらず強い。しかし、今日は心地よい秋風が肌を通り過ぎて行く(今までならば、耐えられない時間帯だったが・・・)。また外を走る車が少ない。蝉の音も妙に遠くに聞こえ、つい先日まで響き渡っていた子供たちの声もない。夏休みが終わったのを実感する。それにしても静かな街、この庵にも、先日までとは違う不思議な時間が流れ始めた。ふと、過去にこれとまったく同じ時間を経験したことがあったような気がした。それがいつだったのか・・・懐かしいような、またもどかしいような思いにとらわれる。 そんな風に実際に体験したか定かでないことを、既に体験したように記憶することを「デジャヴュ(既視感)」と言うそうだ。これが起こる原因は、脳内の処理に関わるいくつかの仮説があるとの事だか、定説はないと聞く。 もしかしたら、前世があって、その体験を思い起こしているのだろうか・・・などと空想する。英国のある宗教哲学者が「人は生まれ変わり(過去生)を繰り返しながら、『魂』を成長させ、ついに神のもとへと到る」と記していた。また、「永遠(永劫)回帰」という言葉もある。これは「人間は同一の人生を繰り返す」ということだ。それぞれに興味深い思想ではあるが、「この私」にとっては、「この世」の生は一度きりである。だから大切なのは今であり、未来なのである。過去を顧み、それを踏まえ、今と未来を生きる。そのような時間が私たちの前に開かれており、さらに、それが、やがて「永遠の命」へと結ぶのである。この「永遠の命」を覚える信仰(ヨハネ17:3)の道を、私たちはここに歩ませて頂いている。喜ぼうではないか。


☆9月4日説教「祈りⅡ」要約:
「主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」(歴代誌上29:10―11参照)
私たちは、神の国から、大いなる光を頂いています。それは、山や坂や谷の多い困難なこの人生の歩みの上に、大きく輝いているのです。その光の下には、大いなる励まし、慰め、そして導きがあります。そのことに気づき、これからも、神さまを信じて、歩んで行こうではありませんか。そして、祈り続けるものでありましょう。そこに、必ずや新たな希望が生まれるのです。この新たな週の歩みの上に、さらなる祝福をお祈り申し上げます。
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by aslan-simba | 2011-09-01 17:10 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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