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夏の弔い

「虫たちが鳴いてゐた。なきつづけるこほろぎは逝くなつのしるべして。」(立原道造、拾遺詩篇「夏の弔ひ」より)。 夜、秋の虫が鳴き始めた。暦は正直だ。お盆が過ぎ、地蔵盆の頃を迎えると夏の終焉を確かに覚える。今日は処暑、暑さが和らぐという意味だそうだ。 その通りに朝夕はひんやりした空気に包まれる。また見上げる空には秋の色合いが感じられるようになった。今朝も町内のラジオ体操が終わり、庵で仕事を開始。ふと耳にする蝉の音にツクツク法師が加わっていることに気づいた。晩夏、まさに「夏の弔い」の時節というべきか。 それでも昼間の残暑は未だ厳しい。ただ、この夏、外出の折に、目を楽しませてくれた百日紅(さるすべり)の花々の姿が、今日は何故だろうか・・・心なしか寂しげに映る。間違いなく、あの暑かった日々、また良き出来事のあった今年の夏も、終わりに近づいているのだろう。犬を連れて歩いた夕刻、林の中で鳴いていたひぐらしの声が郷愁をおびて聞こえてきた。足を止め、心しずめると、神さまの御臨在が感じられる。その「静かにささやく」(列王記上19:13)御声が、「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(詩編19:2-5)と伝えているように響いてくる・・・。そうだ!音なき音、声なき神の御言葉が、今日もこの世界のすみずみにまで満ち溢れているのだ。だから、どこまでも希望がある事を忘れまい。過ぎ行く季節に感謝し、今、さわやかな未来に向けて、また新たな一歩を踏みだそうではないか。


☆8月28日説教「祈りⅠ」要約:
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14:36)
ゲッセマネの祈りです。結果は「受難の回避」という主の当初の願い通りにはなりませんでした。しかし、それ以上に深い、父の御旨を知らされ、主は雄々しく十字架の道に向かって前進されたのです。自分の思い以上の御心、御旨が深く示される、ここに、祈りの深い意味があります。真剣な祈りによって、私たちも自分の思い込みではない、神さまの願いを知ることができるのです。私たちを徹底的に救い、益々の大いなる祝福に与らせようと神さまは今も働いておられます。その御心に応えべく祈り続けましょう。
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by aslan-simba | 2011-08-23 20:41 | Comments(0)

友なるイエス

炎暑、庵のなかでパソコンに向かう孤独な作業を続け、疲れを覚えると本棚から好きな詩人の詩集を取り出し、朗読する。今朝、手にしたのは、「必ずひとつひとつ十字架を背負ふてゐる」と自身の詩を評すキリスト者・八木重吉の詩集。その誠実な詩は深く心を打つ。彼は、こういう言葉も残していた。「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして私をあなたの友にしてください」と。大正時代、英語教員を務め、詩人としての才能を認められつつも病魔に襲われ、妻子を残し、二十九歳で夭逝した重吉。「祈りの詩人」といわれる彼に、そのような「友」への思いがあったとは・・・ふと、彼と同年代の哲学研究者の「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある」という言葉が脳裏を走る。孤独とは、根源的に人につきまとうものなのだろうか。さらに思いは、その人間の「孤独」を己の身に、徹底して受けとめた「神の人」の姿へと至る。ゲッセマネ、そして十字架での孤独を頂点に、御子は孤独な人の死を、最も無惨な形で引き受けられた。その主が、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われていることを覚えたい(ヨハネ15:15参照)。重吉も、この御言葉を真摯に信じていたはずだ。 「ゆきなれた路の なつかしくてたえられぬように わたしの祈りのみちをつくりたい」と彼は詠う。今、私たちも彼と同じ信仰の地平に立つ。重吉も歌ったであろう讃美歌が心の底に響く。「いつくしみ深き 友なるイエスは・・・世の友我らを捨て去るときも 祈りに応えて 労りたまわん」。

☆8月21日説教「心の故郷」要約:
「神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と」(詩編42:6、43:5)
詩人は、故郷エルサレムへと戻りたくとも戻れぬ運命にある。彼は血を吐くような思いをもって祈る。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」(6節)、と。この自らの内なる声と神さまの御声が重なる。「なぜうなだれるか(なぜ・・・絶望しているのか―新改訳5節参照)」は、神の問いかけだ。真剣に祈るときに、神は必ず語りかけてくださるのである。私たちは、これを知らねばならない。そして、その祈りと共に、実に神は共にいてくださるのである。私たちの神は、故郷のエルサレム神殿に鎮座するだけの方ではない。詩人のいる異郷の地においても、そこにおられ、詩人に希望を与え、力強く生かすのである。そして、今、神さまは、ここにもおられ。私たち一人一人に答えてくださるのである。感謝


☆今日は有難い一日でした。昼間は仕事(おもに町内会の仕事だったのですが・・・)も、はかどり、夕べには教会の方がお宅に、教会員有志をご招待くださいました。感謝にたえません。そこで初めて大文字さんも見ました。今年は(否、今年も)主にあって我が教会は、本当に恵まれています。8/16 牧師より
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by aslan-simba | 2011-08-16 23:01 | Comments(0)

生きよ

八月は鎮魂の月。真摯に憶えたい。捧げられる祈りの一切に、神は耳を傾けておられる。 今朝、エゼキエル書の御言葉が示された。「わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った」(16:6)、「わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(18:21)と、何ともすさまじい聖句が、耳元に響く。 この神の言葉を取り次いだエゼキエルが活躍したのは、古代イスラエルの最も辛く厳しい時代だった。神州不滅と信じた神の都エルサレムの陥落、神殿は焼き払われ、多くの人が殺され、家族は離散。そして、のこされた人々の大半も、バビロニアへと引き立てられたのだ。 エゼキエル自身も、エルサレムの祭司として、バビロニアへ連れ去られた。その捕囚の地で、同胞たちは疲れ果て、やがては気力を失い、ついには神を見失い、荒廃して行った。 その時、エゼキエルは「枯れた骨の復活」の幻(37章)を示されたのである。死が支配する荒涼とした世界、そこに神の息吹がかかると、復活が起こる。人間の思いにあっては、行き詰まりと絶望しか見えない現実が、神にあって大きく拓かれるのである。 翻って思わされる。「枯れた骨の復活」は、この日本にも起こっている。かつて敗戦を乗り越えた日本人たち・・・私たちの父たちや母たちは黙々と復興の道を歩み、我が国を世界に冠たるものとなしたのである。 今年は予期せぬ大震災、原発事故という大惨事を被ったが、しかし、過去にもまさる復活が、主に在って起こるだろう。被災された方々を見ても、それを確信する。 今、召された先人たちに思いを馳せつつ、祈り続けよう。私たちの前にどんなに辛い現実があろうも、必ずやそこに、大いなる奇跡が現れる事を心底信じて・・・だから希望を捨てず、「生きよ」!


☆8月14日説教「出会いと祝福」要約:
「『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福をしてくださるまでは離しません』」(創世記32:27)                               
祝福をに切に求めるヤコブの思いを、神さまは御心に留めて下さいました。そこに聖書の伝える神の姿があります。心から求める者に対する神の側の謙遜、へりくだりがあるのです。それこそが愛の神、恵みの神の御姿です。私たちの神は、どこまでも恵みの神であり、さらには十字架にかかられる神であることが、ここに、示されているのです。それはまさに、「悩みのときにわれを呼べ」と言われる神、「わたしの名によって求めよ」と言ってくださる神さまの姿なのです。この神との出会いと和解の中に、私たちは生かされている。有り難いことです。
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by aslan-simba | 2011-08-09 17:38 | Comments(0)

励ましの目

最近、本当に目が疲れやすくなった。パソコンを打ちながら実感する。パソコンの前に座っている時間が長いからか、それとも年齢のせいなのか。いずれにせよ、目は大切にせねば・・・それは「心の窓」でもあるからだ。 「脳で考えたことを一番早く伝える神経は、目に通じる神経」という。言葉を換えれば、心の思いは、すばやく目に表われるということだろう。まさに「目は口ほどに、ものを言う」である。 思えばこれまでの人生、自分は一体、どんな目をもって、ここまで歩んで来ただろうか。それは目の本質的問題といえよう。これまでに、いろいろな人の視線をあびながら、一喜一憂もして来た。優しい目、共感の眼差し、愛情のこもった目に元気づけられた経験もある。一方で、人を非難する目、軽蔑の目、冷たい目にたじろいだこともあった。ならば、主イエスは、どのような目をもって、今、私たちを見つめて下さっているのだろうか。 「突然、鶏が鳴いた。主は振り返ってペトロを見つめた」(ルカ22:60―61)。主を否認するペトロを見つめた主ご自身の目、それは裁きの眼差しでも、糾弾する血走った目でもなかった。「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈っている。立ち直った時には、兄弟たちを力づけてあげなさい」(ルカ22:32参照)と語りかける慈愛の眼差し、励ましの目だったのである。だから、その目に触れたペトロは、心底感動して「激しく泣いた」(ルカ22:62)のだった。 その同じ主の眼差しが、時にくずおれそうになる私たちにも、ここで注がれていることに気づきたい。また少しでも、主の眼差しにならうものでありたいと願う。


☆8月7日説教「キリストは今」要約:
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)
使徒パウロは、「自分は生きている。しかし生きる自分の主体は自分ではない。イエス・キリストが自分の中を生きているのだ」と語ります。このことは、主イエスを信じ、主に結ばれ、主のものとされているすべての人に共通することです。キリストは、ただ傍らにおられて、共にあるというだけではありません。主のものとされたその人の内に生きる・・・一つになって生きてくださるのです(キリストの内住)。ということは、キリストは私たち自身の苦痛をも、私たちに代わって引き受けてくださるのです。心より感謝する以外ありません。
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by aslan-simba | 2011-08-02 20:08 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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