七月の蝉

七月度の町内会ラジオ体操は、とどこおりなく終了。庵へ戻り、仕事を再開した。気づけば「シャー・シャー・シャー」と降り注ぐ蝉時雨。気温の上昇と共に、彼らは鳴き出すのだろうか。なお、例年ならば梅雨明け宣言と同時に耳にする蝉の初音なのだが、今年はなかなか聞けず、天候に異変でもあるのかと多少気がかりだった。今朝は、そんなこちらの心配をよそに、大合唱である。 たまたま先週、あるアメリカ人の先生が雑談で、「日本に来て初めて‘蝉'という昆虫の存在とその単語‘cicada’を知った」と語っていた。アメリカでは蝉のいない地域が多く、夏の風情などという感覚は全くない由。ともあれ、今年も無事に、蝉の音が響く「日本の夏」となった。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」。 昼間、外出の折にも、蝉の声に誘われて、神社の脇の木々に覆われた緑道を通ってみた。そこで蝉のぬけがらを発見。「蝉たちも、元気に巣立ったのだなあ」と、ここまでは良かったが、足下に、蝉の死骸が転がっていたのである。まだ本格的な夏は始まったばかりなのに・・・つくづく命のはかなさを思わされる。長い地中での生活を終え、やっと地上に出て、小さな体で懸命に鳴いた数日、それが生涯のフィナーレーなのか。「生者必滅、会者定離」を思い、辛い。ただし、神さまはこんな蝉のことも大切に御心をかけて下さっている。聖書に「蝉」は登場しないが、彼らも被造物であることに相違ないからだ。「被造物は虚無に服していますが・・・同時に希望も持っています」(ローマ8:20参照)とある。 夕方、犬を連れた散歩の折には、晩夏ではないのに、ヒグラシの静かな鳴き声が響き渡った「カナ、カナ、カナ」と。 蝉を思ったこの一日、「今をひたすら精一杯に生き、どこまでも希望をもち続けよ」という御声を聞いたように思った。


☆7月31日説教「喜びの時」要約:
「イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネによる福音書2:11)
「栄光をあらわされた」というのは、同じヨハネ福音書の17:1の「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光をあらわすようになるために、子に栄光を与えてください」というイエスさまの祈りから、その意味が掴めます。すなわち、十字架の苦難から始まる主の復活への道の事なのです。「水をぶどう酒にした」奇跡は、その主イエスの「復活の栄光による救い」の予表です。弟子たちは、「ぶどう酒のしるし(奇跡)」の中に「主こそが、まことの命の基盤である」と信じたのです・・・この主イエスの内に救いを信じるとき、人生の喜びは確かなものとなります。それは永遠の命の喜びの始まりなのです。
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by aslan-simba | 2011-07-25 20:45 | Comments(0)

朝焼けの希望

今朝、目を見張るような朝焼けを見た。犬の散歩で玄関を出た時だった。見上げた空全体に、美しい紅色と金色の雲が散りばめられている。その神々しさに圧倒され、息をのんだ。そして、しばらくはその場を動けなかった。 辺りは静まり返っている。人の気配が感じられない。天を見つめがら、ひとり(否、犬と共に)天地を創造された神の御手の業を讃嘆した。ふと、出エジプトの「雲」について記した聖句が脳裏を走る。「主は彼らに先立って進み、、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(出エジプト記16:21)。苦役と悲しみの地エジプトから離れ、新たな旅立ちをした古代イスラエルの人々の道行き。それは一筋縄の話ではなかった。後ろからは戦車に乗ったエジプトの追手が迫り来る。前には、到底渡ることのできないような大海、さらに、その向こうは何もないような荒れ野。彼らの疲労は極限に達し、不平不満の一切を指導者モーセにぶつける始末だった。そんな彼らの歩みを励まし、「主は雲の柱、火の柱をもって導かれた」のである。それは神さまが、モーセを支えつつ、人々の後ろを守り、進む前方の道を確実に拓かれたことを意味する。 「朝焼けはその日の荒天、夕焼けは翌日の好天」と言われる。この見事なまでの朝焼けは、私たちの未来に、なおも行くべき荒れ野があることを物語っているのかもしれない。しかし、恐れる必要はない。そこに主の確かな守りが必ずある。だから「安んじて歩み続けよ!」と示される。どこまでも主を信頼して進もう。その時、海は割れ、道は拓かれ、荒れ野に花が咲くことを夢見て・・・。

★上述の文章を記したのは、昨日18日(月)です。なお、現在、台風が近づいております。お気をつけくださいますように。そのため、明日20日(水)の当教会の「学ぶ会」はお休みとします。ご了承ください。神さまのお守りを心よりお祈り申し上げております。7月19日(火)牧師より。

★なでしこJAPAN、おめでとうございます!日本が元気になります。もちろん、桃山栄光教会もがんばります。


☆7月24日説教「真の礼拝」要約:
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」
(ヨハネによる福音書4:24)
「真の礼拝」とは、神さまの御力に帯び、聖霊に充たされた礼拝です。そこでは己の富も誉れも関係ありません。また、この世の悲惨さもない・・・もちろん、それは自分たちの問題から目をそらし、死や不幸、罪や恥などの現実に触れないことではありません。主イエスとサマリアの女の出会いが示すように・・・それを踏まえて、主の赦しと導きが確かにされる礼拝なのです。言葉を換えれば、「真の礼拝」は、神さまが、私たち一人一人が抱えている苦悩や困難を、真っ向から真剣に受け止めていることを知らされる礼拝なのです。そう!主は、どこまでも共におられ、私たちに生きる力を下さるのです。感謝
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by aslan-simba | 2011-07-19 07:08 | Comments(0)

本を整理しながら・・・

祇園まつりのシーズン。ひときわ暑い時期、今年の暑さはまた格別だ。宇治に住んで以来、節電体制(つまりエア・コンなし)の我が庵(書斎)は特に厳しい。それも修行と心得つつも、庵内の書類と本の山々には我ながらたじろぐ。本だけでも減らし、風通しを良くすべく、年中行事の「断捨離」を決意。ドサッと本を集め、古本屋へ・・・と思いつつ、まずは本棚から。普段、あまり見ない文庫本の棚に手をつける。しかし、そこで懐かしい本と出合ってしまった。 内村鑑三の『後世への最大遺物』(岩波文庫)。ページは経時変化し茶色くなり、背表紙は陽に焼けている。この本を買い求めたのは大阪の紀伊国屋書店。三十年以上も前、生き生きとした力ある信仰の確信が欲しかった時だった。 中にいくつか棒線が引かれていた。「最大の遺物とは何であるか。・・・勇ましい高尚なる生涯であると思います。・・・この世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである」と。本当にそうだ。今さらながら、この明治の信仰者の言葉に深く共感。私たちの今を見れば、それが本当に分かる。主にある希望に、こうして支えられ、感謝と希望の日々がここに実現しているではないか。さらに内村はここで外国の知者のみならず、二宮金次郎の誠実な人生を高く評価する。 そして、彼はこう書いていた。「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河・・・」。この世界と日本を愛する祈り・・・明治27年(1894年)夏の講演記録が、今、新たにに甦ってくる。この小さな本は置いておこう。


☆7月17日説教「憧れの詩」要約:
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」(詩編84:2-3 新共同訳)。
私たちは、地上の人生の最後を終れば、主イエスとまみえる時を迎えます。それを思い、それにあこがれて今を生きているのです。この思いがしっかりと根付けば、「死の陰の谷」も恐るにたりません。そこにさえも、喜びと感謝とが湧き上がるはずです。なぜなら、生けるキリスト様が共にいて下さるからです。いつか、直接に、御顔を仰ぐことのできる御方が、今、霊にあって共にいてくださる・・・だからこそ、私たちにあるのは、ただただ感謝であり、喜びなのです。
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by aslan-simba | 2011-07-12 21:22 | Comments(0)

シーシュポスの神話

「四苦八苦」、「一難去って、また一難」・・・日々の歩みは、決してた易いものではない。そのような生きる上の困難を、フランスの実存作家アルベール・カミュは、『シーシュポスの神話』(新潮文庫)に託して描く。 物語には、自分の力を誇示し神々を侮蔑したため、罰を受けたシーシュポスという男が登場する。彼は、大きく重い岩を山のふもとから山上まで運び上げる事を、命ぜられるのである。汗をかきかき苦心惨憺して、やっと運び上げると、その岩は無情にもまた、再び転げ落ちて行ってしまう。「シーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へと、ころがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下の方の世界から、再び岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれは再び平原へと降りて行く」。人生とは、このような空しいまでの徒労の繰り返しなのだと、カミュは考えた。「人生は不条理である」・・・確かにそれは否定できないかもしれない。 けれども、そのような不条理の状況の中にあってさえも、真摯に祈り続ける時に、主イエスの御言葉が、必ずや私たちの心の内に響き渡るはずだ。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。だから負けてはならない。諦めてはならない。立ち上がらねばならないのである。 使徒パウロは力強く、こう述べる。「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント二4:8-9)。そう!私たちは決して負けない。決して諦めない。そして、必ずや、立ち上がれるのである。


☆7月10日説教「沈まぬ舟」要約:
「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄いものたちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお??りになると、すっかり凪になった」(マタイによる福音書5:26)
主イエス・キリストは、私たちの抱いている不安を、迷いを、そして恐怖を、御言葉をもって叱って下さいます。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」「なぜ怖がるのか」と・・・それは「怖がらなくてよい」ということです。「イエスさまが共におられる!」だから、「怖がらなくてよい」、「あなたは守られている」ということなのです。主に在って、堂々と眉を上げて歩もうではありませんか。主は言われます。「あなたは、赦され、受け容れられている。だから起き上がって歩け、安らかに行け」、「恐れるな、私が共にある」・・・と。感謝にたえません。
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by aslan-simba | 2011-07-04 16:07 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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