番組パーソナリティ

先日、部屋の整理をしていたら、地元FM局の番組の一つを収録したカセットテープが出て来た。テープのケースには、我が教会の始まった年の四月某日、月曜と記されている。パーソナリティ名は私である。それを見て、十数年前のことを思い起こす。 同FM局の月曜日、午後の二時間番組を私は不思議なご縁で、三カ月間担わせて頂いた。もっとも、本職のディレクター兼アナウンサ―の女性らに助けられてのものだった。 「宗教宣伝はNG」だったが、私は牧師という、そのままの自分で出演。コミュニティー放送局という気軽さで、番組企画にも意見を述べる機会もあり、自前の音楽テープを番組で流してもらったことなどもあった。また台本のないトークのために、自分なりに取材も行った。もちろん取材費は出なかったが。 降番後は暫くの間、同局の番組審議会委員を委嘱された。偶然かもしれないが、それは地元の有名神社の宮司さんの後任としてだった。出来たばかりの小さな教会の牧師が、地元宗教界の名士の後釜・・・感謝にたえなかった。 この番組に限らず、あの頃は、始まったばかりの教会のことを中心に据え、過去に縛られず前だけを向いて走ることを、心がけていたことを思い出す。神さまが良き明日を必ず下さることを真摯に信じつつ。その教会が、また自分が守られてなお今、ここに生かされて在る。ただただ有難い・・・。現在も、あの頃にもまさる希望と熱い祈りをもって、日々、走り続けている。これから先、どのような導き、どのような出会い、またどのような素晴らしい奇跡に私たちは与れるだろうか。考えただけでも、心ときめく思いがする。


☆7月3日説教「見失った羊」要約
「あなた方の中に百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」(ルカによる福音書15:4)。
主イエスは何を語ったのでしょうか。それは、神についてです。しかし「神様に心を向け、神様を信ぜよ」という仕方では、語られていません。少なくとも、それがここの主題ではないのです。逆に、「神様の方が、あなたに興味を持ち、心を向けている」とイエス様は言われている・・・そのあなたの救いのため、羊飼である神は、命を賭してあなたを探されているのです(ヨハネ10:11参照)。感謝
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by aslan-simba | 2011-06-28 18:33 | Comments(0)

梅雨の夕焼け

雨上がり、初夏の夕陽に草の露がきらめいている。色濃くなった木々の緑、そしてアジサイの花々の彩りを見つめていると、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった・・・」という主イエスの御言葉が耳元に響く。 小高い所から見た薄暮の空、濃い藍色の中を茜色が染める。山の端が、その光に照らされ、ほのかに輝き続けている。梅雨の晴れ間の夕焼けは、本当に美しい。太古の時代から、一つとして同一の姿の夕焼け空はないと思うが、昔の人たちが、そこに「極楽浄土」を思い浮かべた気持ちは十分に察せられる。その神秘的な情景が私たちに、向こう側に確かにある安らぎの世界の広がりを示しているからではないだろうか。 ふと詩編の言葉が脳裏を走った。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を贈る。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(詩編19:2-5)と。こちら側に住む私たちに、天から響いてくるメッセージだ。この詩人は、天空を仰ぎ、それをしっかりと受け止めつつ、神の世界へと思いを馳せるのである。そして「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」(16節)と結ぶ。 余談だが、子供の頃、遅くまで空き地で遊びほうけ、深紅の夕焼けを背にして家路を辿ったことを思い出した。家に着いた時は真っ暗だった。普段、あまり注意されたことのなかった母に、叱られた。あれも梅雨の頃だった。五十年も前の東京での話である。そんな母もそして父も、今は向こう側の世界の人となっている。


☆6月26日説教「慈しみ」要約:
「主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります」(詩編86:5)
この「慈しみ」という表現ですが、実は同じ原語の言葉が、旧約聖書の文脈によっては「恵み」「憐れみ」「愛」という日本語で訳し分けられているのです。「慈しみ」「恵み」「憐れみ」「愛」・・・すなわち、この言葉は神さまの本質、神さまの人格を言い表す言葉なのです。詩人はこの言葉を用いて、神さまが豊かな愛と憐れみを注いでくださる慈しみの神である事を固く、また深く信じ、耐え切れないほどの嘆きと苦難の中から、感謝と賛美を捧げ、神さまの顧みを心より祈り求めているのです。「慈しみに生きる者」(2節)として・・・私たちも同様に、主に在って、同じ慈しみに今、生かされて在るのです。感謝
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by aslan-simba | 2011-06-20 19:19 | Comments(0)

希望が未来をひらく

今、苦悩を抱え、呻吟し、うなだれる思いの中にある方に申し上げたいと思います。「必ず良き方向になる」ことを心から念じ、頭をあげましょう。その時、必ず道は開けて来ます。希望は、私たちの心に灯りをともしてくれる聖霊の働きです。だから、どんな時にも「希望をもつこと」を忘れないでおきましょう。「希望と自信なしには、何事も為し得ないNothing can be done without hope and confidence.」と語ったのは、ヘレン・ケラー女史でした。これをもって彼女は自らの三重苦を克服したのです。「希望と自信」は明日という未来を切り拓いて行くのです。 ある仏教者の方が、こんなことを言っていました。「今日という日は、御先祖たちが希望した未来・・・私たちの希望が未来をつくるのです」と。実に興味深い考え方だと思います。 聖書の中にも「希望」に関する言葉は多くあります。なかでも、すぐに思い起こすのは、使徒パウロの言葉です。「忍耐は練達を、練達は希望を生む・・・希望はわたしたちを欺くことがありません(ローマ5:4-5)」。耐えることが、困難が、私たちに希望に与えてくれるのです。十字架と復活の主イエス・キリストを知っている私たちであるなら、現実にくじける必要はありません。十字架の苦難あっての復活、そして聖霊の注ぎなのです。勇気を出しましょう。神さまに委ねる時、希望が本物になるのです。私たちのその希望があるところに「明日が」、「未来が」、そして「神の国」が訪れるのです。


☆6月19日説教「起きよ」要約:
「イエスは・・・子供の手を取って『タリタ、クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」(マルコによる福音書5:41)
圧倒的な出来事が起こりました。幼い娘が生き返ったのです。それほどの事なのに、主の言動があまりにも普通なのには驚かされます。主は仰々しく呪文を唱えたりはしませんでした。「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい」とだけ語りました。あたかも母親が子供を優しく呼び起こすように、愛情を込め、慈しみをもって命じられたのです。また少女に食べ物を与えるようにとも言われました。実に普通の態度、普通の言葉で・・・もっとも非凡なことが、平凡な日常生活の事柄のように起こったのです。これが奇跡なのです。私たち自身も、同様の奇跡に与って日々生かされているのです。感謝にたえません。
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by aslan-simba | 2011-06-14 21:57 | Comments(0)

みんなヒーロー

舞台はアメリカ、「人はみなヒーローだった」「覚えている?」「力持ちで恐れ知らず」とテロップが流れ、子供たちがスーパーマン、バットマン、ワンダーウーマンといった往年のアメリカンヒーローのコスチュームを着込み、なりきっている姿が映ります。 そして「あの時のマントはどこ?」「もう一度着る時がやって来た」と、今度は大人になった彼らがヒーローたちの衣裳をまといながら職場の仕事をする場面が映り、閉じられます。「ヒーローはみんなの中にいる」という言葉をもって・・・こんなコマーシャルをテレビでご覧になったことはありませんか。コカコーラの最近のCFですが、どこか郷愁を感じます。 張り合うつもりはありませんが、昭和30年代の初めには、私たちもヒーローでした。あの頃の私たちには手の込んだコスチュームはありませんでしたが、風呂敷のマントをはおり、駄菓子屋で買ったセルロイドの眼鏡をかけ、おもちゃのピストルを手にすれば立派に「月光仮面」であり、「少年ジェット」であり「ハリマオ」だったのです。ゴミ箱の上から飛び降りる時は、高い屋根から飛び降りたつもり、三輪車は白いオートバイや馬のつもり、そして、それらしく「ハッハッハ」と高笑いし、「正義の味方」になりきっていたことを懐かしく思い出します。 気づいてみれば、ヒーローだった日々は遠い昔、あれから半世紀以上が過ぎています。時代は変わり、街の風景も一変しました。でもヒーローの夢だけは大事に育み、身の回りの誰かに対しては、自分なりのヒーローであり続けたいものですね。You can be a hero!(コカコーラCFのBGM)。


☆6月12日説教「神の子」要約:
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです・・・この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証してくださいます」(ローマの信徒への手紙8:14-16参照)
ここに「神の子」「神の子とする」「神の子供」と繰り返されています。イエス・キリストを神の子という場合、原語では「ヒュイオス」と言いますが、そのキリストを神の子と語った同じヒュイオスの複数形「ヒュイオイ」を使って、パウロは実に大胆にも、私たち人間のことを「神の子である」と、書いているのです。すなわち、神の霊に導かれるときに私たちは「神の子」となれるのだというのです。ただただ有難く、感謝にたえません。

★6月12日(日)はキリスト教の三大祭りのペンテコステ(聖霊降臨祭)の日です。よろしければ、一度お越しになりませんか。当教会の礼拝は10:30~です。お待ち申しあげております。
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by aslan-simba | 2011-06-07 21:03 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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