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祝福の雨

夜半の激しい雨音に目が覚めた。我が庵(書斎)の屋根が気にかかる。何年か前には、雨漏りで大切な本を濡らしてしまった。その後、妻が屋根の補修をしてくれたのだが、それでも心配で・・・。起き上がり、書斎へ向かう。大丈夫だった。 迎えた朝も雨、今年は例年より早く梅雨に入った。今日は湿度も高くなりそうだ。正直言って、この時期の雨の日は苦手である。なんとはなしに頭が重い、それに伴い気分も沈みがちになる。他の人はどうなのだろうか・・・。気分を紛らわすために雨の詩を諳(そら)んじる。「都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる。心の底ににじみいる この侘しさは何ならむ。大地に屋根に降りしきる 雨のひびきのしめやかさ。 うらさびわたる心には おお 雨の音 雨の歌・・・」(ヴェルレエヌ詩集、鈴木信太郎訳)。中学校の国語の授業で暗唱させられた詩である。 それを口ずさみがら、ふと思いは過去へと徐々に遡って行く。特に懐かしい心象風景は、サラリーマンになりたての頃、夕刻、仕事を一段落させ、職場の窓から雨に濡れた新緑の銀杏並木を見下ろしたこと。御堂筋、帰宅を急ぐ傘の群れ、これからサービス残業に取り掛かる自分が妙に誇らしかった・・・。 あれから今の時に至るまでの数十年、本当に色々なことがあった。仕事も変わった。人生の季節における雨の日にも幾度か出合った。それでも守られ、支えられて、今こうして在る。感謝にたえない。聖書の御言葉はこう告げる。「わたしは・・・季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる」(エゼキエル34:26)と。 庵の窓からそぼ降る雨を見つめつつ思う。私たちは共々に、それぞれの人生において主の祝福に与っている。鬱陶しい人生の雨も、本当は恵みの雨、祝福の雨なのだ、と。


☆6月5日の説教「信仰の救い」要約:
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マルコ福音書5:34)
信仰とは、主の恵み、主の愛にどんな時にも、捉えられ、それによって、自由にされることです。もちろん、試練を受けない信仰生活はありませんが、主の愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は何一つないはずです。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えさせ、私たちを生かしてくださるからです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主の御言葉を受けて、家路につける私たちは幸いです。私たちも聖書が記録する癒された女性と共に、あらゆる障害や問題を越えて、平安と希望のうちに新たな週の人生の一歩を、ここから乗り出して行きましょう。
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by aslan-simba | 2011-05-31 22:22 | Comments(0)

星野富弘さんの詩

「何のために生きているのだろう 何を喜びとしたらよいのだろう  その時 私の横に あなたが一枝の花を 置いてくれた 力を抜いて重みのままに咲いている 美しい花だった」(『ジャフメイト』6月号より)。木々や花々は言葉を話しませんが、そのメッセージを星野富弘さんは詩で表現してくれます。 「木は自分で動き回る事が出来ない。神さまに与えられたその場所で精一杯に枝を張り、許された高さまで一生懸命伸びようとしている。そんな木を私は友達のように思っている」。 木や花の姿を描くことによって、今の自分を受け容れ、どこまでも希望を見ている星野さんの姿に私は励まされます。 翻って思うのですが、人は誰でも「ああなればいいな、こうなればいいな」と期待を抱いて生きています。しかし、思うようにならない現実に失望したり、期待を裏切られるような経験もするのです。ただ、希望とは、そのような期待を超える力なのです。どうにもならないような現実をそのまま抱え、立ち上がって、歩み出すものこそが希望・・・ありのままの今の自分が、その自分の足で、決して焦らず、決して力まずに・・・一歩を踏み出して行く力なのです。 私たちにはそれを持つことができる! そのような希望の人生の歩みが、私たちの前に大きく開かれているのを、あらためて心に留めましょう。星野さんの作品はそんなことも教えてくれます。「いつか草が 風に揺れるのを見て 弱さを思った 今日 草が風に揺れるのを見て 強さを知った」。感謝


☆5月29日説教「我が牧者」要約:
「主は羊飼い・・・」(詩編23:1新共同訳)
原文では「主はわたしの羊飼い」となっています。ここに「わたしの」という言葉を補って下さい。つまり「主」は、「私」という羊を導いてくださる「羊飼い」なのです。また羊飼いである主は、「私のために」、御自身の命さえも惜しまれません(ヨハネ10:11参照)。 主は、私を、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりへと導き、私の魂をリフレッシュしてくださいます。さらに、私の人生が間違った方向に行ってしまわないよう、私を正してくださいます。 その主が、私と共にありいつも導いて下さっているのです。だから、「死の陰の谷を行くときも災いを恐れない」で雄々しく、この人生を歩み続けようではありませんか。感謝
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by aslan-simba | 2011-05-23 19:01 | Comments(0)

彩雲

先日、新聞に、被災地のある避難所から「見上げた空に、被災者を勇気づけるように七色の彩雲があらわれた」という美しいカラー写真を伴う記事が載った(京都新聞5/13朝刊)。それを見ながら、こみ上げるものを感じた。 彩雲は、古い時代から吉兆と言われて来た。平安仏教の世界では、阿弥陀如来や菩薩たちが彩雲に乗って西方極楽浄土から来る姿が来迎図に描かれている。一方、聖書はこの彩雲を「神が雲のなかに置いた虹」として捉えてきた(創世記9:13参照)。 太古の昔、大洪水が過ぎて方舟から降りたノアの家族に神が、この虹の雲をもって希望の約束をお与えになったことを創世記は告げる。自分たちと動物たちだけが残された世界、見渡す限りの荒涼とした光景、ノアとその家族の面々は大きな不安と孤独感にさいなまれただろう。しかし、神さまは空に美しい彩雲を示し、語られたのである。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、世々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く」「・・・水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してしない」(創世記9:12-15)と。今回の震災で一瞬にして命を奪われ、犠牲になられた人々、家畜、動物たちの事を思うと胸が張り裂けそうになる。しかし、彼らは確かに救いのなかに置かれているのである。 ノアとその家族は、この神の約束から、立ち上がる勇気と力とを得、新たな世界の歴史を築き上げて行った。今、同じ約束に、被災者の方々のみならず、私たち一人一人もこの日本の地で与っている・・・それを思うと、深い感慨に満たされる。耳を澄ませば、「恐れるな」「安んじて行け」との御声が心に響いてくるのである。


☆5月22日説教「主の焼き印」要約:
「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤ信徒への手紙6:17)
聖書が示す使徒パウロの生きざまを、私たち自身のありようと関連させましょう。そこに、私たちの人生における苦しみの意味が見えてまいります。パウロが自身の苦しみの跡を「イエスの焼印」と言い切ったのは、彼が主の苦しみと繋がり、主と苦しみを共にしたからなのです。同じことが私たちの苦しみにおいてもあり得ます。否、あるべきです。私たちも苦しむ時には、主の苦しみに繋がる必要がある。私たちは様々な事柄が原因で苦しみますが、しかし、それらは根底において、「主イエスのため」になる仕方で、苦しむ必要があるのです。その時に、苦しみに大切な意味が与えられます。苦しみが神さまの大いなる恵みに変えられるのです。
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by aslan-simba | 2011-05-17 20:31 | Comments(0)

黙想・・・詩編46

ここ二三日降り続いた雨で、木々の緑がひときわ色濃くなった。初夏・・・日中は明るく汗ばむほどである。
しかし、この光の季節の到来とは裏腹に、今なお重い現実と不安がこの国に、私たち一人一人の日々の生活の中に存在する。ただ、負けてはならない。現在がいかに厳しくとも、確かな「助け」がすぐそこに来ているからである。

「神はわれらの避け所、また力なり、なやめる時のいと近き助けなり。さればたとい地はかわり、山は海のもなかに移るとも、我らは恐れじ」(詩篇46:1-2 文語訳)

何と力強い言葉だろうか。大きな励ましがある。この「避けどころ」とは、原語では「庇護者」や「要塞」をも意味する。すなわち「神」が、私たちの庇護者なのである。よって、いかなる困難や災害にも私たちは鉄壁の要塞に守られているのである。このことをしっかりと心に刻んでおこう。 かつて宗教改革者マルティン・ルターはこの詩をもとに、「神はわがやぐら・・・わが命も わがたからも とらばとりね 神のくには なお我にあり」(ルター作。讃美歌267)と歌い上げた。私たちの人生のさまざまな試練は、神が必ずよきものと変えて下さる。だから、心の底からこの事を信じ、恐れることなく前に進もうではないか。 なお詩46編は次の言葉でとじられる。「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」(詩編46:12 新共同訳)と。感謝


☆5月15日説教「命のパン」要約:
主イエス・キリストは人として、この世に来てくださった。それは私たち一人一人と連帯し、共に歩んで下さるためでした。さらに、主イエスは私たちの罪の責任を十字架で取られました。つまり、私たちの死ぬべき運命を、ご自身のものとして引き受けて下さったのです。その上で、死に打ち勝ち、三日目に甦り、この復活の命の交わりへと、私たちを召されるのです。主イエスが、「わたしは命のパンである」(ヨハネ福音書6:48)と言うのは、この復活を、私たちが本気で受け容れるようにという招きです。この御言葉を心に刻み、主イエス・キリストと交わり、その命と力と愛に触れる時に、私たちは、何者にも断ち切られることのない、「永遠の命」のうちを生きることが可能になるのです。感謝
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by aslan-simba | 2011-05-13 13:56 | Comments(0)

新たな季節へ

今朝、近所を歩いていると突然、一羽のツバメが元気に目の前を横切って行った。初夏の訪れが間近なことを思う。手帳の暦を確認すれば、昨日が八十八夜。直に立夏を迎えることになる。今年は寒い日が続いたせいだろうか、それに復活祭が遅かったことも手伝って、随分と短い春だったように感じられる。 あらためて残り少ない春を楽しもうと、雑木林のところまで来て、目を高くあげてみた。自生の藤が薄紫の花を揺らしている。美しい。新緑の木々の息づかいも、林のなかにこだましているようだ。そして、夏ウグイスの見事な歌声も耳に入ってくる。新たな季節が、ここに巡って来ている。「山滴る」季節が・・・。 自然は不思議なものだ。ここしばらくはその脅威ばかりに思いが行き、身近な優しい自然を忘れていた。今、私たちを包み込んでくれる、この安らぎの中に、自然をつくられた「天地の創造者」の慰めの御声を感じ取る(イザヤ書40:1参照)。 帰路、満開のコデマリに気づいた。枝を垂れて、白い小さな花が手鞠のようにまるく咲き誇っている。以前、住んでいた小さな家の庭でコデマリを育てたことが懐かしい。 気がつけば、あれからもう十年の月日が流れている。ここまで、ただただ、ひたすら祈りながら歩んで来た。これからも同じように、私たちと、この国の未来のために祈り続けたい。どこまでも希望をもって、新たな季節、新たな時代に思いを馳せ、復活の主と共に在って・・・感謝。


☆5月8日説教「わが主、わが神」要約:
「・・・目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について」(ヨハネの手紙一1:1)、「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神』と言った」(ヨハネによる福音書20:28)
復活の主・・・目で見て、手で触れるようなリアルな御姿をヨハネは伝えます。しかし、この御体に触れさえすれば、そこに信仰が生まれるのではありません。主の復活が、私たちの生きる人生の意味にしっかり結びついて、はじめて復活信仰に変えられるのです。ここで問われるのは、私たちが本気で、主イエスを「わが主、わが神」と呼ぶことができるか、なのです。私たちも、トマスに合わせて、復活の主に「わが主、わが神よ」と、心から答えたいと願います。「わが主、わが神」・・・感謝。
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by aslan-simba | 2011-05-03 21:06 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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