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探春

春、イースター(復活祭)はまだ先(今年は4月24日)だが、寒さもゆるみ、梅の花もほころび始めている。パソコンで何気なく「春の詩」を検索してみた。 見ていると、こんな内容の詩を見つけた。「春はどこに来ているのかと一日中、山野をたずねて歩いたが、見つけることは出来ない。藜(あかざ)の杖を頼りに、遠くまで行ってみたが無理だった。あきらめて家に戻ると、庭先に梅の花が咲いていた。その枝を手にとってみる。すると、その蕾が大きくふくらみ、開花しかかっているのに気づかされる。探し求めていた春は、すでにここに来ていたのだ・・・」。 宋の時代の戴益(たいえき)という人の「探春」(春を探す)という歌。案外、有名な詩らしい。春を求め、それを外に探していたが、実は、我がうちにこそ春があったのだという。古今東西、人の思いは変わらないようだ。メーテルリンクの「青い鳥」の話をほうふつさせられた。また、主イエスのこんな御言葉も深く甦って来る。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ福音書17:20-21口語訳)・・・と。私たちのもとには既に「春」、「幸せ」、「神の国」があることを本気で気づきたい。そして、それを踏まえ、明日は教会までゆっくりと歩きながら、今ある「春」を確認したいと思う。「復活の春」の足音も感じながら・・・

*「探春」の読み下し文は次の通りです。
「尽日(じんじつ)春を尋ねて春を見ず 杖藜(じょうれい)踏破(とうは)す幾重の雲 帰来(きらい)試みに梅梢(ばいしょう)を把(と)って看(み)れば 春は枝頭(しとう)に在って已(すで)に十分」。別のヴァージョンもありますが、意味内容はほぼ同じようです。 なぜか子どもの頃から漢文には興味がありました。詩と言えば漢詩に思いが至ります。ただし、現在の「中国」の政権は嫌いです。


☆2月27日の説教要約:
「イエスは・・・シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた・・・」(ルカによる福音書5:3―6)
何らの収穫も得ることができず、徒労の中にあったシモン・ペトロに、主は言われた。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。「沖へ」とは「深きところへ」という意味である。つまり、「あと一歩踏み出してみよ」ということだ。この御言葉に信頼し、生きるところに人生の大きな収穫と神の守りがあることを憶えたい。主は言われる。「恐れることはない」(10)と。

三寒四温の候、皆様の健康をお祈り申し上げております。
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by aslan-simba | 2011-02-23 16:21 | Comments(0)

生きよう

政治の貧困、経済不況、そして複雑化する社会のきしみが、私たちの日常に暗い影を落としている。その影響もあり、ここ十数年間連続で、年間自殺者の人数は三万を超えるという。何とも重い事実である。 先日、新聞の投稿を読んで自殺を思い止まった人の話を知り、心温まる思いがした。その投稿にはこう記されていた。「・・・本当に死んで問題は解決するのでしょうか。いいえ、残された者に二重、三重の苦しみを残すことをわかって下さい。死ぬ勇気を持つ前に、生きる勇気を出して下さい。・・・」(「自殺を考えているあなたに」朝日1月8日付)。私も切に願う。<いのち>をないがしろにしてはならない。どんなに耐えがたいことがあっても、どんなに辛いことがあっても、生きる勇気と希望を捨てないでほしい・・・と。 このいのちは自分だけのものではない。それが連綿としたつながりの中に置かれて今あることも銘記したい。つまり、いのちは本来、神さまに由来するものなのである。それゆえ、私たち一人一人のいのちは尊いのである。このいのちを得て、ここに存在する。神さまの息を宿す生命の重み(創世記2章参照)をもう一度、心に刻み、決して粗末にしてはならないのである。さらに、畏れ多いことに、この<いのち>の源である神さまが、今日も共に歩んで下っていることも思い起こそう。共々に、心からの感謝をもって、祈りつつ、前を向いて生き続けようではないか。


☆2月20日説教要約:
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで自分を頼りにすることなく死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(コリント信徒への手紙Ⅱ1:9)
「死の宣告を受ける」、そこまで行ったときに、自分にとって何が本当の頼りであるのか分かってくる。本当の頼りが分かる。そして他のものは色あせ、問題にもならなくなります。そこで頼れるものこそが人生の真の頼りなのです。独り子を十字架へと惜しまず、死の中にあるものを真実のいのちへと、復活へと導いてくださる神さま、究極的には、この方以外に頼りとするものはありません。私たちはこの神さまを本当に頼りとすることができる。私たちにはできるのです。感謝

★大分の麦焼酎「二階堂」の2010年度CMを見て、こんな文章を綴ってみました。コンテンツは伝えきれていませんが・・・
こんなテレビCMに心動かされた。 静かな音楽が流れ、場面は夕焼け空にたそがれるある海峡。そこを行く小さな連絡船が映し出される。その船に乗って下校する制服姿の女子高生。 また雨の日には傘を携え、船の帰りを待つ母親と小さな二人の娘の後ろ姿がある。晴れた日には自転車を押しながら降りて来る郵便配達夫、大きな荷物を抱えた行商のおばさん・・・日常生活の大切な足としてこの連絡船が示される。ここに描かれる光景はかつての昭和の日々だろう。たまらなく懐かしい。そして、自分自身もその風景のなかにあったような感覚にとらわれる。 シーンは続く。進学のためか、就職のためか、故郷を離れる学生帽姿の少年がその船にだまって座っている。船中には海を見つめながら泣いている人の姿もある。流れるこのナレーションは現在は中年となったこの少年の言葉なのだろう。「今でも、空に憧れた日々を思い出す。 教科書も 地図も とうに失ってしまった。僕の一日が、僕の一生が、 からっぽでありませんように」。最後に連絡船で嫁いで行く花嫁、深々と頭を下げながら見送る人々が映し出され、字幕が付される。「続きのない夢は、また僕をひとりにする」と。 わずか三十秒ほどのCMの世界、そこに日常があり、別れがあり、熱い祈り、そして日本人の心の世界があった。

*既視憾を覚えるようなCM、いいですね。誰が作ったのでしょうか。なおこのCMは「一志相伝」(ABC)月曜午後8:54-9:00、「ココロの旅」(関西)火曜日午後9:54-10:00で見ることができるようです。
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by aslan-simba | 2011-02-16 09:45 | Comments(0)

冬来春不遠

今朝はみぞれまじりの空模様。立春が過ぎ、温かい日がしばらく続いたが、ここ二三日は寒さがぶり返している。すんなりと「スプリング・ハズ・カム」とはなりそうにない。それでも、行きつ、戻りつしながらも、自然は着実に新たな季節へと胎動している。外に出て、視線を上げてみよう。梅のつぼみがふくらみ、ネコヤナギの芽も銀色に輝いているのが分かるはずだ。 近づく春、希望の季節の気配、それは私たちの人生にも言えるだろう。「冬来りなば、春遠からじ」・・・今は厳冬の思いのなかにあっても、しばらくすれば暖かな春の風が吹き始め、辛い現実は溶かされて行くのである。星野富弘さんの詩にもこうあった。 「幸せという 花があるとすれば その花の つぼみのようなものだろうか 辛いという 字がある もう少しで 幸せに なれそうな字である」。・・・本当にそうだ。あと一歩で必ず幸せになれるんだ。だから、どこまでも希望を捨てずに歩み続けようではないか。「この希望は失望に終わることがありません・・・神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5参照 新改訳)。

*「冬来りなば、春遠からじ」・・・ことわざだと思っていたのですが、英国のロマン派詩人シェリーの詩の一節の邦訳(上田敏による)とのこと。原語は“If Winter comes, can Spring be far behind?”(冬が来たなら、春は遥か遠いことがあろうか)です。


☆2月13日の説教要約:
「ああ主よ われふかき淵より 汝をよべり・・・イスラエルよ 主によりて望をいだけ そは主にあはれみあり  またゆたかなる救贖あり」(詩130篇文語訳)
詩人は深い絶望の淵から主に呼ばわり、立ち上がる勇気と希望を頂きました。私たちも主に呼び求めましょう。 神さまは私たちを主にあって希望をもって歩む人間としてお造りになっておられるのです。今日を、そして明日を導かれる神さまの慰めを今ここに頂こうではありませんか。そして、感謝と喜びとを忘れずに、人生の日々を前進させましょう。この新たな週の歩みの上に豊かな祝福がありますように。
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by aslan-simba | 2011-02-12 10:09 | Comments(0)

新たな年もひと月が過ぎた。今年はどんな年となって行くのだろうか。先日、ある政治学者の講演を聞く機会があった。その内容を一言でいえば、「昨年の日本はアナス・ホリビリス(ラテン語で『悲惨な年』)。今年も現状をみる限り期待はできない」ということだった。個人にとっても厳しく、「希望の年(アナス・エスぺランサ)」の到来は先ということだ。そんな話を伺いながら、ふと「サンドイッチの年」というフランス映画を思い出した。 戦後間もないパリが舞台の物語。主人公は戦禍で家族を失った15歳の少年。彼は骨董屋に住み込む。店主は偏屈な老人だったが、身よりない少年を大切にする。ある時、少年はふとしたことから、同年齢の親しい友人を得る。上流家庭の子どもだった。孤独な二人は意気投合し、親友になるのだが、ある出来事を契機に少年は相手の両親によって交遊を禁じられる。心打ちとけ語り合える友を失い、愕然とする少年。彼を思いやる骨董屋の老店主は、静かに語る。「人生には『サンドイッチの年』がある。それは人生で最も中味の濃い時期、噛めば噛むほどに味わい深い年のことだ。今の辛さを、じっくりと噛みしめなさい。その後に必ず良き将来が訪れる」と。 私たちも人生の「サンドイッチの年」を噛みしめる心を持ちたい。そして、その人生の年の彼方に大いなる「希望の年」があることをしっかりと銘記したい・・・「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む・・・希望はわたしたちを欺くことはありません」(ローマの信徒への手紙5章参照)。


☆2月6日の説教要約:
「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり アーメン」(『主の祈り』より)
私たちの人生・・・今なお、山や坂の多い困難なものです。まさにつたない歩みを繰り返す日々・・・しかし、そこにも大いなる励まし、慰め、そして何にも代えがたい希望があることを忘れてはなりません。「神が共にある」、だから、どこまでも導きを信じて歩んで行こうではありませんか。大願成就をこの身に頂けることを確信して!
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by aslan-simba | 2011-02-04 08:08 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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