詩編23編に励まされ

「主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ 主はわれをみどりの野にふさせ いこいの汀にともないたもう 主はわが魂を活かし 御名のゆえもて、我を正しき道にみちびきたもう たといわれ死のかげの谷をあゆむとも わざわいをおそれじ なんじ我と共にいませばなり・・・」 心身に大きな疲れを覚えた時、私はまず詩23編を思い起こします。この牧歌的な詩は、古い時代から今に至るまで、聖書に触れる多くの人々に安らぎと力とを与え続けてきました。19世紀の英国の説教者スポルジョンが、これを「詩編の真珠」と称しているように、静かなきらめきの言葉に満ちています。 詩は「主は羊飼い」(新共同訳)と始まります。原語では「アドナイ ローイ」と二語で表現され、「主はわたしの羊飼い」という意味です(新共同訳は「わたしの」という部分が抜けています)。つまり、その主とは、この私を導き、この私のために心を砕かれ、命まで捨てられたお方(ヨハネ福音書10章参照)と重なるのです。その主と共に「今」の時を歩ませて頂く・・・ この文字通りに冷え冷えとした「今」。我が国の政治、経済や社会状況のみならず、身の回りを見渡しても、我が身を顧みてもそれが実感されます。その世の中と人生の荒涼とした荒野にあっても、ひたすら前を見つめ、「主」と共にあって祈りつつ、励まされつつ、雄々しく歩むことが許されている。感謝にたえません。


☆1月30日の説教要約:
「わたしは、そのとき主に祈り求めた。『わが主なる神よ、・・・』主はわたしに言われた。『もうよい。このことを二度と口にしてはならない・・・ヨシュアを任に就け、彼を励ましなさい・・・』」(申命記3:23-28参照)
神さまは私たちのすべての祈りを聞き、私たちのために最も相応しいことをなしてくださいます。それを忘れてはなりません。神は常に、私たち一人一人に真の祝福を与えようとされておられるのです。そこに十字架の苦難さえいとわずに、私たち自身の罪、咎、痛みを自らのものとして引き受け、負われる熱い御心があるのです。私たちは、自分の思い込みではなく、神さまの御旨をしっかりと聞き取り、委ねて行こうではありませんか。その時、私たちを御国へと導こうされておられる神さまの御心をはっきりと知るのです。

★本当に寒い日が続きますが、お変わりありませんか。皆さまがたのご健康を心よりお祈り申し上げております。
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by aslan-simba | 2011-01-28 21:25 | Comments(0)

梅の季節を待つ

「寒の内」、今年は本格的な冬が居座り、冷え切った日が続いている。暦に従えば、あと二週間は辛抱。その後、節分を境に春が立ち、梅の蕾もほころび始める時期が訪れる。ふと父親が梅の花が好きだったことを思い起こす。明日1月23日は父の祥月命日。奇しくも新島襄の召天記念日と同じ日である。何かのご縁だろうか。 新島の漢詩が口をつく。「真理似寒梅 敢侵風雪開(しんりはかんばいのごとし あえてふうせつをおかしてひらく)」、(寒梅の詞)。新島は「百花の魁(さきがけ)」である梅の花を心から愛した人だった(彼には「寒梅の詩」として歌われる晩年の作『庭上一寒梅・・・』もある)。 なお、「梅は寒苦を経て清香を発す」と言われるように、厳冬に耐えて、美しい花をつけ、良き香りを放つ。そこに梅の花の矜持が示されるのである。最初の日本人牧師で、キリスト教主義の大学設立に命を賭した新島襄の人生に、この梅の「忍耐」を憶える。また、一介の庶民に過ぎなかった父も、寒苦に耐えた人だったと思う。 禅語に「梅花開五福 (ばいかごふくをひらく)」とあった。五つの花弁の梅の花が、凛として開花するように、五福が開かれていくということである。五福とは、寿(じゅ)、富(ふ)、康寧(こうねい)、攸好徳(ゆうこうとく)、考終命(こうしゅうめい)・・・長寿、財産に恵まれ、無病息災で、徳を好み、天寿を全うするということだ。私たちの人生も、厳冬の苦しさ、十字架の苦しみにあっても、必ずや五福の時、復活の時が必ず来るのである。梅の花の姿にそれを感じたい。厳冬の今年は、本格的な春に先駆ける梅の季節、早春の到来、レント(受難節)の時も楽しみにしたい。


☆1月23日の説教要約:
あなたは、なぜ、僕(しもべ)を苦しめられるのですか」(民数記11:11)
モーセの祈りは凄まじいものです。それは神に対する訴えのようにも聞こえます。それを神さまは決して軽んじられませんでした。真剣に聴き、すぐに応えて下さったのです。神さまはいつも、心から祈るものを深く顧み、豊かな恵みを与えて下さいます。そのようにして苦難の中にあり、試練の中にある者を導かれるのです。そこに神さまの真実な働きがあると同時に、祈りの力があるのです。このことを、どうか心に刻みつけて下さい。「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。
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by aslan-simba | 2011-01-22 08:50 | Comments(0)

1月17日の記憶

1月17日が近づくと1995年のあの阪神大震災を思い起こす。当時、私は阪神間で牧師をしながら会社勤めを行っていた。もっとも、その1月末には会社を辞め、4月から京都のある教会の牧師として働くことが決まっていた。二足の草鞋の最後の日々に見舞われた震災。 あの日のことが、あたかも昨日のように、また、はるか遠い昔の日のことようにも脳裏に甦ってくる。しかし、その出来事を言葉では到底描写し尽くせない・・・そんな思いと、もどかしさとが私のなかにある。ただ、震災の記憶は、頭より五感の方が鮮明に憶えているようだ。あの時の臭いさえも甦る。 あれから16年、地震を含め様々な自然災害は変わらずに、この世界に突然襲いかかり、被害をもたらしてきた。今、ブラジルとオーストラリアの大洪水が報道されている。「一寸先は闇」なのか・・・ふと手元の坂村真民の詩が目を引いた。「鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ 怒濤の海を飛びゆく鳥のように 混沌の世を生きねばならぬ 鳥は本能的に 暗黒を突破すれば 光明の島に着くことを知っている そのように人も 一寸先は闇ではなく 光であることを知らねばならぬ・・・」。 犠牲になられた方々に、手を合わせつつ、遺された私たちはどこまでも希望を持ち続けよう。光明の島を目指し・・・。大丈夫。できる。主と共にあの時を乗り越えて来たのだから。神は語る。「お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:32)と。

☆1月16日の説教要約:
「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」(詩編93:1)
神は原初の混乱の嵐の中で、「光あれ」と言われ、光を有らしめました。その創造の初めの働きを、主イエスを通して、神は今日もなされています。あらゆる破壊、闇の力に勝たれる神が主イエスにあって共におられるのです。この主イエスが先に乗り込まれ、私たちが弟子たちとしてつき従っている場が、「沈まぬ舟」なのです。この舟のなかで私たちは、嵐が大凪になるのを経験する・・・不安や恐怖が、平安と信頼に変えられる経験をするのです。そして、主イエスの愛と力のうちに働く神の栄光を私たちは見る、確かに信仰の目をもって見させて頂くのです。
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by aslan-simba | 2011-01-15 20:13 | Comments(0)

因幡の白ウサギを思い

新たな年も一週間が過ぎ、生活は普段のペースに戻った。例年ならば、年賀状を書く際、意識したその年の「干支」の記憶は、今頃から薄れ始める。そして、年末に至る頃には、すっかりと忘れているのが毎年の常。ただ、今年は自分が「年男」ということもあり、まず忘れることはないだろう。今年の干支が「ウサギ」であることを・・・。 そう言えば、祖母が「裕は卯年の十二月だからウサギの中のウサギ」とよく言っていたのを思い出す。干支の性格を最も強くもつのが、十二月生まれということである。半世紀以上も前の話だが、妙に鮮明に憶えている・・・。ちなみに、祖母は「因幡の白兎」の唄もよく歌って聞かせてくれた。「大きなふくろを かたにかけ 大黒さまが 来かかると ここにいなばの 白うさぎ 皮をむかれて あかはだか・・・」、その後、大黒さまの言いつけを守り、ウサギは元の白ウサギに戻る。そして、こう結ばれる。「大黒さまは たれだろう おおくにぬしの みこととて 国をひらきて 世の人を たすけなされた 神さまよ(明治の尋常小学校唱歌)」。あの頃は何とも思わなかったが、祖母は私を、「神さま」に救われたウサギに譬えてくれていたのだ。何とも有難い気がする。 なお、ウサギと言えば、英国の田園風景の中に描かれたピーター・ラビットの絵本や、上の娘が幼稚園の時に家で世話したウサギの記憶なども脳裏に甦ってくる。また灰谷健次郎が「兎の眼」と称した善財童子像の澄んだ瞳を見に西大寺へ出かけたことも懐かしい。あれは三十年くらい前だったか・・・ ともあれ、今年はウサギにあやかり、主にあって大きな飛躍の年としよう。復活祭のイースター・バニーもお忘れなく!

☆追記:
寒い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。神さまのお守りを心よりお祈り申し上げます。さて上述の文章をつづり終えて、ふと思い出したのですが、以前、『キリストと大国主』という本を興味深く読んだことがあります。産経新聞に連載されたエッセイを集めたもので、すぐ読めました。キリストと大国主をはじめ広く古代日本と世界文明の文化、習俗、宗教の関わりないし共通点が描かれていました。著者は当時、日文研の先生だったと思います。



★1月9日の説教要約:
「わたしについて来なさい・・・二人はすぐに網を捨てて従った」(マタイによる福音書4:19-20参照)
主イエスは、御恵みと憐れみをもって、私たちの下に来てくださり、私たち一人一人の具体的な生活の中で、「私についてきなさい」と語りかけてくださっています。この主の導きに身を委ね、しっかりと歩んでまいりましょう。今は不安な時代です。私たちはそれぞれに明日が見えない「自分」、悩み多い現実にしゃがみこんでいる「私」であるかもしれません。しかし、大丈夫です。主が「わたしについて来なさい」と、今日も一人一人を導いて下さっているのです。その御声に従って、雄々しく歩み出そうではありませんか。道は必ず大きく拓けて行きます。
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by aslan-simba | 2011-01-07 20:52 | Comments(0)

年初の祈り

☆ Happy New Year, friends. May God bless you all in 2011!  寒い新年を迎えましたが、お変わりございませんか。心よりお祈り申し上げております。今年もどうぞよろしく。

☆お正月の風物詩に初詣は欠かせない。家のそばの神社もこの時期には賑わいを増す。家族そろって氏神さんに参拝し、家内安全、無病息災、商売繁盛を願い、絵馬を記す姿にはなごやかなものがある。日本の教会にもそんなムードがあったら・・・とも思う。 ただ、昨今のパワースポット・ブームが示すように、今、お参りに向かう人々の思いには、もひとつ切なる気持ちが込められているのかも知れない。問題解決を求め、必死で霊験あらたかな神社・仏閣をはしごする若者たちもいると聞く。時代の閉塞感、政治の貧困が、それに拍車をかける・・・何とも切ない。ともあれ、手を合わせ真摯に拝む人々の上に神の御加護を乞いたい。そして、祈りをもって新たな年の歩みを始めるすべての人々の上に、豊かな恵みがあるようにと心から祈念する。 ふと、「ヤベツの祈り」を思う。「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境(くにざかい)を広げ、あなたの手がわたしと共にあって、わたしを災いから免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた」(歴代誌上4:10 口語訳)。ヨシュア記の御言葉も心に響く。「わたしは・・・あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(1:5)。私たちと共にあり、祈りを聞き、どこまでも祝福をくださる神さま・・・この方への祈りの心をもっともっと伝えたい。

★1月2日の説教要約:一月の第一日曜日が桃山栄光教会の創立記念日です。
「・・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙12:1-3)
 信仰は私たちに、忍耐、勇気、希望を与えてくれます。それに支えられて、桃山栄光教会も、ここまで来ることがゆるされました。この新たな年も主イエス・キリストを見つめ、それぞれの人生のフィールドを懸命に走りましょう。道は大きく拓かれています。主イエスという伴走者があることを心に刻み、益々、前進しようではありませんか。
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by aslan-simba | 2011-01-01 01:12 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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