新年の1月2日(日)10:30~桃山栄光教会の「創立記念感謝・新年礼拝」が行われます。当教会は一月の第一日曜日が創立記念日です。どうぞ、お越しください。きっと良いことがあると思います。
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by aslan-simba | 2010-12-30 12:14 | Comments(0)

年の瀬に

師走の季語「行く年、年の暮れ、煤払い、北風、山眠る、枯れ菊、玉子酒・・・」、あわただしさとわびしさとが伝わってくる。それが年の瀬の習いだろう。「師走とは、僧侶(師)が年末に忙しく走り回ることから生まれた言葉だ」と言われる(他にも説があるようだが)。 ある人が「師走坊主は、お盆のときの坊さんとは異なり、貧乏臭い落ちぶれた僧の姿が連想される」と述べ、そのイメージを種田山頭火と重ねて記していた。そういえば、山頭火にこんな句があった。「牛が大きくよこたはり 師走風ふく」、師走に寄せる山頭火の眼差しには、「貧乏くささ」だけではなく、「自由人」の「のどかさ」も感じられるのだが・・・。 ところで、先日、通りすがりの、あるお宅の塀の上を見上げると、植木屋さんが庭木を整えていた。高い空に青々とした松の木がすがすがしく、お正月が近いことを実感した。思えば、この年も本当に色々なことがあった。翻って、「師走坊主」ならぬ「師走牧師?」の私は、主の恵みと皆さま方のお支えの下、桃山栄光教会の十三年目の務めを終えようとしている。今、心静かに、この年の歩みと過ぐる歳月の日々を振り返りたい。 それを踏まえ、希望をもって新たな年へと歩み出したいと願う。「善き力に 我かこまれ 守り慰められて、世の悩み 共に分かち 新しい年を望もう。輝かせよ、主の灯火 我らの闇の中に。望みを主の手に委ね、来るべき時を待とう」(ボンヘッファー) 。主の年2011年が、皆さま方お一人おひとりにとって良き年でありますように!


☆12月26日の説教要約:
「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯火」(詩編119:105)
「光と闇が行き交い」、「闇が光を覆い」、「闇が私たちを脅かす」・・・これはヨハネ福音書が示す私たちの人生の現実です。ただ、ヨハネはこうも述べます。「光は今しばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」(12:15)と。ちなみに、ここで言われている「光」とは、主イエスご自身のことです。また「光あるうちに」とは、神さまが私たちを許してくださっている「今」という時のことなのです。今、光と共に歩ませて頂ける、感謝にたえません。
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by aslan-simba | 2010-12-25 08:55 | Comments(0)

クリスマスの祈り 

クリスマスの一日目に 君のために喜びを祈ろう。 あふれるばかりの喜びと 心を動かす笑い声を。 笑い声は病をいやし 喜びはたましいを高く舞あげる。

クリスマスの二日目に 君のために吐息を祈ろう。 心を晴らす深い吐息を。人は吐息をつくときに どうにもならない現実を うけいれるのだろう。

クリスマスの三日目に 君のために涙を祈ろう。 あふれる涙は目を澄みわたらせ きらめく星をうつしてくれる。 流した涙はたましいをきよめ いやしの道へと進ませる。

クリスマスの四日目に 君のために静けさを祈ろう。 平和をもたらす静けさを 争いも戦いも心のなかで芽生え 心のなかで芽をつまないと いけないものだから。

クリスマスの五日目に 君のために知恵を祈ろう。正しい決断へとみちびく知恵を。 知恵の声に従い 日々ことばとおこないで かしこくふるまえるように。

クリスマスの六日目に 君のために忍耐を祈ろう。 苦難にうちかつ忍耐を。 じっと耐えているうちに 困難はすぎさり、しんぼう強く待つときに成功はおとずれる。

クリスマスの七日目に 君のために勇気を祈ろう。 雄々しく進みゆく勇気を。 行く手に誘惑や危険が 待ちうけていても まっすぐに問題に立ち向かえるように。

クリスマスの八日目に 君のためにあわれみの心を祈ろう。 人の痛みを理解するあわれみの心を。 ほんとうに人を助けられるのは 人を理解したとき、ほんとうに人を理解できるのは おなじ痛みを経験したときだから。

クリスマスの九日目に 君のためにはたらく喜びを祈ろう。 夢を実現するために
すすんではたらく喜びを。 その夢が君のものでも 君の助けるだれかのものでも
かわりはない。

クリスマスの十日目に 君のために信仰を祈ろう。 ゆるがぬたしかな信仰を。 信仰は人としての生き方と 生きる目的をかたちづくり 人を神に近づける。

クリスマスの十一日目に 君のためにのぞみを祈ろう。 心にあふれる豊かなのぞみを。
のぞみは心のあり方をさだめ 進むべきめあてとなり 生きる理想をつくりだす。

クリスマスの十二日目に 君のために愛を祈ろう。 心の底から湧きでる愛を。 くらしのなかで行き交う人に いつも愛を あたえることができるように。
(The legend of Christmas prayer より。ブライアン・モーガン、書斎藤登志子訳)

私共も同じように皆様のことをお祈り申し上げております。
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by aslan-simba | 2010-12-16 21:04 | Comments(0)

☆With best wishes for Merry Christmas!

12月19日(日)午前10:30~ クリスマス礼拝 説教「神の贈りもの」
          午後12時頃~ クリスマス・パーティー
12月24日(金)午後 7:00~ キャンドル・サービス

いずれもお気軽にお越し下されば幸いです。今年のクリスマスは是非、桃山栄光教会で御一緒に!


☆19日の礼拝説教要約:
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(マタイ1:11)
東方からやって来た博士たちは、黄金、乳香、没薬という宝を捧げましたが、救い主に出会った後の人生は、さらなる祝福の中に置かれたはずです。キリストと共にある人生とは、心にキリストを受け容れて生きる歩みなのです。博士たちはしっかりとキリストを我が内に刻み、ベツレヘムの馬小屋を後にしました。私たちは、この礼拝を通して御言葉から、神さまの贈りものである主イエス・キリストを心に確かに宿すのです。神さまの贈りものをしっかりと戴きましょう。そして、希望のうちに、新たな未来に向けての一歩を踏み出そうではありませんか。クリスマスの祝福が、皆さま方の上に豊かにありますように。 メリー・クリスマス!

★24日のキャンドル・サービスは、ローソクの輝きを見つめながら、皆で讃美歌を歌い、星の導きについて思いを馳せる御言葉から聴き、説教を行いたいと願っています。
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by aslan-simba | 2010-12-13 14:50 | Comments(0)

今、待降節です

師走の風がひとしお身にしみる季節となった。何とはなしに気ぜわしい。紅葉した木々もさかんに葉を散らしている。 所用で一日走り回り、気づけば、とっぷりと日は暮れている。身をもって実感する日の短さ・・・それでも心は不思議に満たされ温かい。太陽が低く、寒くて暗いこの時期に、私たちは明るい希望のしるしを待っているからだ。待降節と訳されたラテン語「アドヴェントゥス」(英語などのアドヴェント)の原義は、「向かってくる」ということだ。「輝く明けの明星であるキリスト」(黙示録22:16)は、私たちのもとに確かに近づいておられる。 私たちはその「光」をひたすら待つのである。それはクリスマスの時を待つということと同時に、終末に来られるキリストを待つということとも重なる。この終末を、単に世界の破局的出来事として捉えてはならない。むしろ終末は、私たち自身にやがて起こる自らの最後に関わる事(すなわち、自らの死の問題)として、考えるべきだろう。そのとき私たちは、キリストの御姿を間近に、自らの目で仰ぎ見ることが許されるのである。従って、「待つ」ということは、この待降節に限定された行為ではない。それは今を生きることであり、生きる限り私たちは待つことをなすである。さらに、「待つ」ことは、「永遠の命」へと繋がって行く。 歳を重ねても、人生の晩年を迎えても、なお喜びと期待をもって「待つべきもの」、「待つべき方」が、私たちにはある。実に有り難いことではないか。「『然り、わたしはすぐ来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)。

・待降節とは、教会暦でクリスマスを準備する期間の事を言い、イエス・キリストのご降誕(つまりクリスマス)の四つ前の日曜日からクリスマス・イブまでの事を言います。この時期から教会暦の新たなサイクルが始まることになっています。 


☆12月12日の説教要約:
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカによる福音書1章45節)
受胎告知を受けたマリアは、主が来られることを身をもって待ち望む人となりました。主を待つこと、それは、打算でも計算でもありません。ただただ神さまの御言葉の真実に信頼する待望なのです。私たちも、マリアのように待つのでなければ、本当に神を待つことはできません。心の底からの希望をもって、神さまを徹底的に信頼して待ちましょう。「主が共にある」ゆえ、御言葉どおりにすべてが必ず成就されるのです。
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by aslan-simba | 2010-12-07 21:41 | Comments(0)

クリスマスの到来を待つ季節、教会暦では待降節、アドヴェントと言いますが、この時期に桃山栄光教会ではフルート・コンサートが開かれます。今年も12月5日(日)にもたれました。その折に音楽家にまつわる牧師の蘊蓄を披露するミニレクチャーも定番となったようです。ただし私は音楽に関しては全くの門外漢ですので単なる素人談義なのですが・・・。 今年は演奏者の伊澤さんから「ショパンとキリスト教」という御題を頂きました。普通、西洋のクラッシック音楽とキリスト教とは必ず結びつくものなのですが、ただショパンの音楽に関してはそのような関わりはあまりないようです。それだけに抹香臭くないといいましょうか。肩の凝らない曲が多いということでしょう。それも手伝ってか、ショパンのピアノ曲は、私たちは普段から案外よく耳にしますね。たとえば「ノクターン第2番」とか、「別れの曲」や「子犬のワルツ」など、学生のピアノ演奏会などがある場合、必ずといってよいほど演奏されますし、テレビドラマなどのバックミュージックでも耳にするようなことがあります。携帯の待ち受けにしている人もあるようですね。耳に優しく、抒情感溢れ、哀愁がこもっていて、気品がある作品で、しかも長くなく、短めで聴きやすい。ショパンのことを「ピアノの詩人」と言う人がいますが、本当にそうだろうと思います。そんなところに人気の秘密があるのでしょうか。身近なクラッシック音楽です。 このショパンという人、すごく熱い人だったのです。その恋のみならず祖国に対する愛国の情も・・・。彼は39歳という長くない人生を終え、その遺体は滞在地パリの墓地に葬られました。ただし、その心臓だけは、彼の遺言でワルシャワに持ちかえられ、その地にある聖十字架教会の柱に埋め込まれたのです。彼の熱いハートが愛する祖国ボーランドへ置かれることになった訳です。波乱万丈の生涯を精一杯に走り抜いたショパンの祖国愛、20分ほどお話をさせてもらいながら、いろいろと考えさせられました。
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by aslan-simba | 2010-12-06 13:28 | Comments(0)

星に導かれて

仕事に疲れを覚え、厚手の上着を着込み、外に出た。少し体を動かすと、夜の冷気も心地よい。上を向いて大きく深呼吸・・・そこに澄んだ夜空があった。今月中旬には「ふたご座流星群」も見られるとも聞く。星の美しい季節がここに巡って来た。星々の輝きを見つめていると、あの星は何座だったかと考えてしまう。 ふと、五十年前のクリスマスを思い出した。日曜学校の先生が、「三人の博士」の物語を通し、「砂漠を旅した博士さんたちは、ただただ星を目あてに進みました」と熱く語ってくれた。あの時、自分が、その博士さんの一人になったような思いをもって真剣にその話を耳にしたことが懐かしい。不思議な星に誘われて旅立つ・・・五十年後の今も、その星の呼びかけに耳をすましてみたいと願っている。 そういえば、昔のポリネシア島の人々は、自分が亡くなる前に夜空に一つの星を指さし、「死んだら、あの星に住む」と遺言を遺したという。彼らは輝く夜空の星と自分とのつながりを、自らの人生の旅路のなかで見出したのだろう。私たちもその「星」を知りたいものだ・・・否、すでに知っている。それはイエス・キリストという星。この星の光に委ね、導かれ、この世界、この人生の砂漠をもっと雄々しく歩みたい。また、この星こそが、いつか帰り行く「天の国」そのものではないだろうか。「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(ヨハネ黙示録22:16)。


☆12月5日の説教要約:
「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである・・・その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイによる福音書1章20,23節参照)
私たちは、神さまの御力によって生きるものでありたいと願います。聖霊による祈りのなかで、それが可能となります。聖霊なる神の息吹き、そこに自由があり、平安があります。力がわいてきます。またインマヌエルの事実を指し示します。「神、共にあって」歩める一週間でありますように・・・インマヌエルの主の益々の祝福、豊かならんことを。

★フルート・コンサート
5日(日)午後7時より伊澤隆志さんのフルート・コンサートがあります。どうぞお気軽にお越しください。牧師も「ショパンとキリスト教」についてのミニ・レクチャーを行う予定。
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by aslan-simba | 2010-12-01 21:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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