体露金風

秋も終わりに近づく寂しい時節、ある修行僧が、師である雲門禅師に、こう尋ねた。「木々は生気を無くし、この枯葉が落ちつくした光景をどうお思いになりますか」。禅師は答える。「見渡す限りのすべてに、清々しい秋風が吹いているではないか」と。禅の専門書の中に出てくる問答である。原文ではこのように記されている。「樹凋み(しぼみ) 葉落つるとき如何(いかに) 答えて曰く 体露金風(たいろきんぷう)」(『碧巌録』第27則)。ちなみに、「体露」とは「すべてがそのままに現れ出ている」ことであり、「金風」とは「秋の風」の意味だという。また、「樹凋み 葉落つるとき」には、人間の老いが喩えられているとのこと。 意訳すれば、修行僧「雲門和尚さまは、大分お年を召され、お弱りのようです。現在のご心境は」。 雲門禅師「私は、今の秋風に煩悩や妄想をすべて吹き払われ、本当にすっきりした思いです」。 年を重ねることで、余分なものが削ぎ落とされ、この身に現れ出でた生身の「真実」・・・それを悟る感謝の思いが、ここに表現されているのではないだろうか。「体露金風」・・・たとえようもない爽やかなものを感じる。また、あらためて気づかされる。年老いることは、身軽になって行くことである、と。さらに、私たちは、もっともっと深く気づきたい。聖霊という輝かしい希望の金風が、今、私たちのもとに、吹き始めようとなさっていることを・・・。


☆11月28日の説教要約:
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8:32)
アブラハムが、愛する息子を奪われると知った時の心の苦しみ・・・それは神御自身の苦しみでもあったでしょう。アブラハムは神のために呻きながらも、その子を捧げようとしました。神さまはそれを押し止められます。 一方、神御自身は私たちの救いのために御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の死を遂げさせたのです。自らの独り子を犠牲にしてまで、私たちを救われる神の愛、実に凄まじいものであります。
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by aslan-simba | 2010-11-23 14:42 | Comments(0)

しばらく前、宗教メディアのある新聞にこんなことが記されていた。「・・・サタンの策略の巧みさ、その攻撃の執拗さも思わされる。キリスト教界のリーダーたちがそういった攻撃に晒されていることを覚え、とりなしの祈りを積んでいきたい・・・」。「サタン」などと真面目に言われると、正直、少し引くところがある。ただし気持ちは分かる・・・キリスト教界内で起こったある種の陰謀事件に対する編集者のコメントである。ことの詳細はともあれ、人を引きずり降ろそうとする策略や、神をも恐れぬおぞましい「悪」(やはり「サタン」・・・)が、そこに存在する。 それにしても、人間というものは迷いやすさ、崩れやすさ、傷つきやすさは、人間が人間である限り、幾つになってもつきまとうものなのかも知れない。本来、信仰とは、そうした人間が、困難な状況の中にあっても、神を見つめて行く心の目であり、神の愛とその御力の確かさに従って自分を律して行くものではないか。あらためて心したい。 ただし、イエス・キリストの公生涯が「荒野の誘惑」(共観福音書を参照)を経て、始まっていることも覚えたい。私たちの信仰も現実の「誘惑」の中で試され、「嵐」によって鍛えられてこそ、揺らぎのないものとなって行くのである。時に人は、失敗するかも知れない。イエスの弟子達が失敗を重ねているのは周知の通り。そこで悔い改めて、二度と同じ過ちをしないことが肝要である。日毎の祈りの研鑽を重ねつつ、いつの日か天上の主の御前に立てる本物の信仰へと、この人生の場で磨かれているのである。共々に、「蛇のごとく賢く、鳩のように素直」(マタイ伝10:16参照)に、主に在って、歩み続けたいものだ。

☆11月21日の説教:
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(申命記10:12-13)。
私たちは、どのようなときにも主を信頼して歩むようにと命じられています。言葉を換えれば、徹底的に「神にゆだねて生きよ」ということです。恐れずに真摯に神にその人生の道をゆだねることが大切です。そのような私たちに、神さまは必ず幸いを下さると約束されています。これを心にしっかり刻み、神さまと共に、新たな週の出発をしましょう。
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by aslan-simba | 2010-11-16 14:52 | Comments(0)

幽玄に心を

澄み渡った碧空(へきくう)の下、ゆっくりと宇治の道を行く。辺りの自然が美しい。野山も見事に色づき、季節はその大団円を迎えようとしている。暦の上ではすでに冬が立った。今年もあと一月半ほど・・・一年(ひととせ)の巡りの早さを、今さらながら実感させられる。 立ち止まり、あでやかな紅(くれない)や黄金色の葉をつけた木々を仰ぎ見る。思えば、春に萌え出でたその若葉は、夏には濃い緑となり、静かな木陰を与えてくれた。そして、その最後の時にもっとも美しく輝き、私たちの目を楽しませてくれているのである。ふと、室町後期の戦乱の世を生きた僧・心敬(しんけい)の文章を思い起こす。「心もち肝要にて候。常に飛花落葉を見ても草木の露をながめても、此世の夢まぼろしの心を思ひとり、ふるまひをやさしくして、幽玄に心をとめよ」と。「幽玄に心をとめよ」とは、「つややか」で「安らかな」、「情緒豊かな」「慈愛の心」に生きよということだろう。どんなに殺伐とした時代環境にあっても、季節の自然から学び、その生ある限り、人としての優しい心を忘れずに矜持を保って生きよということではないか。 今の私たちも並大抵ではない時代を生きている。その思いはこの一年間、とくに強まってきた。この国の不透明感と閉塞感にさいなまれながら・・・ならば一層のこと「幽玄に心をとめ」たいものだ。イザヤ書の御言葉と共に。「草は枯れ、花はしぼむ 然(しか)ど我らの神の言葉は永遠(とこしえ)に立たん」・・・


☆11月21日説教要約:
<説教要約>
「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使うものゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った・・・それゆえわたしは降って行き、彼らを救い出す」(出エジプト記3:7-8参照)。
私たちの苦しみを知り、祈りを聞かれる神がおられます。その神は、私たちのもとに降って来て、私たちを助け、救って下さるのです。旧約聖書は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とその神を言います。私たちはそれが「主イエス・キリストの示す神」だと知っています。この生ける神は御言葉を語り、こう約束されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。新たな週へ安んじて旅立ちましょう。
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by aslan-simba | 2010-11-12 21:03 | Comments(0)

三無の杖

高齢者が心しなければならないこと、「無理をしない、無駄をしない、無精をしない」。これを「三無の杖言葉」(松原泰道)と言い、禅の精神にも通じるらしい。自分を振り返って思う。あい変らず無駄をしている。無精であるとも思う。だからと言って安心できない。昔ほど無理がきかなくなって来た。そろそろ初老の域に入って来たのかも知れない。主観的には、まだまだ若者のつもりなのだが・・・。 晩秋という季節、色んなことを考えさせられるが、今日はふと老いることの意味、さらには老いの希望について思い巡らしていた。神はこの自分を今の世に生かして下さっている。それでもいつかはこの場を去らねばならない。それが御心であり、私たちの人生の定めだ。体力の衰えや記憶力の減退も神の摂理。だから、ありのままの現実をそのままに受け容れて行くことが肝要だろう。よく言われることだが・・・ ただ、感謝すべきことは、私たちには、その年齢でしか味わうことのできないものを、深く味わえるようになってきたことと思う。それは、ここまでの歩みと経験の賜物だろう。 よく年老いると、まるくなる人と頑固になる人があると言われる。私は後者のタイプになるかも知れない。それでも、願わくば信仰によって、できる限り心の容積を広げて行きたい。こんな言葉を思い起こす。「若きはうるわし、老いたるは なおうるわし」(ホイットマン)。感謝


追記:尖閣の流出ビデオを見て、あらためてそのひどさに憤りを覚えます。あのように船をぶつけて来るというのは、おそらく向こうの国家意志に従ってということなのでしょう(本当に漁船かどうかも分かりません)。ともあれ、そのビデオを国民に知らしめまいと、必死だった現政権の「大本営」さながらの情報統制ぶりには、はたはたあきれ果てます。誰のための政治なのでしょう。国民の知る権利を野党時代、声高に言っていたのをはどこの誰でしょうか。さらに、流出ビデオには収録されていませんが、その「漁民」たちが、海保の人を銛で突こうとしたこともあったと聞きます。真相を知るためにも、ビデオのマザーテープの全面公開を求めたく願います。



☆11月7日の説教要約:
「死は勝利にのみ込まれた。死よおまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(コリント信徒への手紙一15:54-55)
神さまの勝利が死を呑み込むのです。死は私たち人間すべてを呑み干してしまう恐るべき力ですが、その死も、神さまを呑み込むことはできません。逆に、神さまの勝利の力に呑み込まれてしまうのです。「死は生の限界であるが、神は死の限界である(カール・バルト)」。神さまは死に対して勝利し、私たちを死の闇の手から奪い返し、神さまのものとして導いてくださるのです。感謝
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by aslan-simba | 2010-11-06 07:18 | Comments(0)

11月4日(木)午後10:45-12:15「熊本バンド―明治の若きサムライたち」於:同志社大学・京田辺校地 
知真館(TC)2号館101番教室で、Doshisha Sprit Week 2010 Autumnの一環として桃山栄光教会牧師で同志社大学神学部嘱託講師・若林裕の講演会が行われます。学生たちと一緒に、明治の熊本の青年たちの物語を学びませんか。問い合わせ先:同志社大学キリスト教文化センター。お時間のある方は是非いらしてください。教室でお会いしましょう(分かりにくければ、門の守衛室でお聞きください)。講演終了後に是非、お声をかけて下さい。
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by aslan-simba | 2010-11-03 21:46 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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