五季-晩秋を迎えて

たそがれ時が早くなった。十月も残すところあとわずか。茜色の夕空を見上げながら季節の深まりを思うこの頃・・・晩秋を迎えた。以前は苦手だったこの季節、この地に住むようになってから不思議と好きになった。それと重なるように、「日本の和」についても興味を覚えるようになってきた。ひとつには年齢を重ねたせいだろうか。ともあれ、この季節の「空気」は魅惑的だ。 晩秋を「秋でもなく冬でもなく京のみに存在する季節」「京には四季のみならず五季が存在する」と、あるお茶の先生が記していた。初冬へと至るまでのこの季節の「光の移ろい」が、人の心の変化をももたらすというのである(千宗守・京都新聞参照)。確かにそうだ。それが私たちに諸行無常,諸法無我の現実に心を向けさせるのだろう。とりわけ生きとし生ける者の「生死のうつろい」が心にかかるのである。おそらくは、そのような思いが古来、我が国の文化、芸術、宗教といったものを磨く原動力の一つとなってきたのだと思う。「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には宗教も美術も歴史も、文学も潜在している(There is nothing in the world as all-encompassing as Japanese nature. Religion, art, history and literature are latent within it)」、白洲正子のこの言葉は、晩秋を憶えてのものではないか。 いみじくも欧米伝来のキリスト教にとっても、11月は「死者を憶える月」。この季節への思いは、日本人、京を知る人のみならず、洋の東西の心ある人々に共通するようだ。


☆10月31日の説教要約:
「憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします」(詩57:2)
「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」(詩91:2)
 私たちはこの世の激しい嵐のなかを生きています。それでも、全能者を隠れ家とする確かな平安を与えられているのです。信仰の人生とは有難いものです。ですからどんなときにも、あわてず、ひるまずに笑顔と希望とを忘れずに歩んで行けるのです。恐れることはありません。私たちはすでに輝かしい勝利の人生のうちを歩ませ頂いているのですから。(ローマ8:37参照)。
[PR]
by aslan-simba | 2010-10-25 19:54 | Comments(0)

親鸞さんの古里

休みの日の昼下がり、妻と日野の辺りまで行ってみた。日野は京都と宇治の境にあり、現在の京都市伏見区日野。その地名通り、平安時代の貴族、日野氏の里で、鎌倉時代の浄土真宗祖師「親鸞聖人生誕の地」として有名である。 私は親鸞に興味もあり、京都に住んだ頃から、いつかはその地を訪れたいと思っていた。ただ、実際に出向くのは今回が初めて。「灯台もと暗し」とでも言おうか。たまたま先日、あるテレビ番組でこの地が紹介された。それを見て思い立った次第。 道のりは我が家から歩いて、およそ四十分ほど。思った以上に近かった。道々、開発途上の住宅地を目にしながら歩く。目ざす日野は、のどかな山里の中にある懐かしい町といった趣き。小学生の時に引っ越した埼玉の町を思い出し、昭和の時代にタイムスリップしたような気持になった。 まずは日野誕生院を訪れた。西本願寺の末寺のようだが、寺院というよりは平安貴族の館のような回廊造り。昭和6年に建てられたという。境内にある童子の親鸞像が何かを語りかけてくれた。次は法界寺を訪れる。思ったより手狭の境内だった。受付でベルを鳴らし来客を告げ、拝観料を払うと堂守の女性が阿弥陀堂を開けてくれた。薄暗い堂内に平等院の阿弥陀仏を小型にしたような定朝作の国宝・阿弥陀仏が鎮座していた。目を凝らして、その穏やかな丸い御顔を見つめながら、しばしの時を過ごす。 外に出ると、午後の日差しが温かった。晴れ渡った空、静かな秋の日。


☆10月24日の説教要約:
「主よ、敵からわたしを助けて下さい。御もとにわたしは隠れます」(詩編143:9)
「御もとに隠れる」、この「隠れる」とされている言葉、「逃れる」とも訳し得る原語です。四方八方から私たちに危機が襲いかかって来ても、決して終わりにはならない。一方に「逃れ道」がある。「必ずある」ということなのです。私たちはその逃れ道を、「隠れ所」を目指して、一気に走って行けるのです。感謝にたえません。ならば、その隠れ所はどこか・・・それはキリストの十字架の下です。主の十字架以外に私たちの本当の逃れの場はありません。そこに身を休めるとき、十字架の上から主は、私たちに赦しと救いの御言葉を下さります。それによって私たちは新たな希望と復活の命に与れるのです。 「我、隠れんとして、汝に走り行く」(文語訳)。
[PR]
by aslan-simba | 2010-10-18 19:40 | Comments(0)

十月・秋の歌

十月、神無月、食欲の秋。空の雲さえ縁日の綿菓子のように見えてくるから不思議だ。 そしてスポーツの秋。外出の帰途にウォーキングも兼ね、一つ手前の駅で降りてみた。京都郊外のこの街は、おだやかな日差しの下に、今、季節が輝きを増しはじめている。その光のなか、足を早めて歩くと体が温くなるのを感じる。それが何とも心地よい。過ぎ去ったあの炎暑の夏が、遠い昔の事のように思えてくる。 しばらく行くと、足元にオレンジ色の花の絨毯が・・・。少し前まで甘い香りを漂わせていたキンモクセイの花の最後を見つめる。ふと昔、聞いたメロディーを思い出した。静かで寂しい抒情的なピアノの調べが心の中を流れる。就職が決まった学生最後の年の秋に、何故かよく聞いたあの曲。そうだ、チャイコフスキーの「十月・秋の歌」(「四季」より)だ。普段はクラッシック音楽になじみのない私の心にも甦る名曲・・・さすがは芸術の秋といえよう。 さらに秋の音楽の記憶は遡る。こんな童謡が口をついた。「静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は ああ母さんとただ二人 栗のみ煮てます いろりばた・・・」。昭和三十年代、母がよく歌って聞かせてくれた曲のひとつである。あの頃の東京の小さな街の秋の団欒を思い出す。ちなみに、この歌が最初に公開されたのが終戦の年の十二月、以後ラジオの「復員だより」の曲として流されたという。苦労された先人たちを憶え・・・戦後の日本の歩みも見つめ直したい。 ともあれ、五感で季節を存分に感じながら歩けた日に感謝。

追記:テレビの国会中継を見て、ただただあきれました。その任を担うに相応しくない人々による政権があいかわらず続いています。誰のため、どこの国のための政治なのでしょうか?


☆10月17日説教要約:
「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8:39参照)。
神さまはキリストの十字架において最大のことを私たち一人一人のために、なして下さいました。それは御子を死に渡され、罪や死や悪の力から私たちを救い取って下さったということです。この出来事を感謝をもって憶え、使徒パウロは、神が私たちの「味方」になってくださったと言います。さらに私たちに必要な「すべてのもの」を神は必ずお与えくださると彼は述べます。 私たちは十字架のおかげで、現在の救いに与っています。それだけではありません。未来の希望も頂いているのです。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(37)。感謝にたえません。
[PR]
by aslan-simba | 2010-10-14 20:30 | Comments(0)

守られて・・・秋、十月

十月の声を聞き、やっと秋らしくなってきた。街ゆく人々に、半袖姿はみかけなくなった。新たな季節の装いの時である。玄関先に置いた鉢植えのコスモスが、さわやかな季節の風に揺れている。見上げれば、やわらかな日差しに、イワシ雲が美しい。 今日は犬を連れて少しだけ遠出をし、山の方へ行ってみた。犬が二匹いた去年まではそれが当たり前のコースだったのだが・・・一匹が亡くなった後、残された犬(シンバ)は遠出が苦手になった。そのシンバが今日は元気に歩いてくれた。外出が大好きで明るくひょうきんものだった亡くなった犬(アスラン)の魂が共にあるように感じ、不思議に心休まる思いがした。神出鬼没のアスラン・・・。 先週の日曜日、教会に行く道すがら亡くなった伯母の元にも、アスランが尻尾を振りながらやって来て、天国へと導いたように思う。生前、犬が苦手だった伯母が多少尻込みしている様子が目に浮んだ。 そんなたわいない空想にふけった日も終わり、夜も更けてゆく。秋の夜長、虫の鳴く音が耳に優しい。手元の詩の本を開いてみた。「みんな眠っているが 家の上には 星々が光り輝き 家のまわりには こおろぎたちが 一晩中鳴いている  守られて眠っていることを 知ってください こんなにも美しく 星々が光り輝き こんなにも優しく 虫たちが鳴いているのです」(坂村真民「こおろぎ賛」より)。 本当に今日も守られて一日過ごすことを許された。神さま、イエス様、ありがとうございます。アスラン、シンバもありがとう! 合掌


☆10月10日の説教要約:
「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネによる福音書6:63)。
ここで言う「肉」とは、己の我を立てるエゴの働きのことです。それは何の役にも立ちません。一方、「霊」は天からのもの、神さまから頂くものです。それこそが私たちを生かす神の働きであり、主イエスの御言葉・・・主が全生涯を賭し、特に十字架の死と復活をもって語られている御言葉なのです。「わたしはあなたを赦し、受け容れている。わたしはあなたを愛し、大切に思っている」と主イエスは今日も、私たちに語りかけられています。それを本気で信じるとき、私たちは「いのち」を頂けるのです。そしてキリストと一つにされ、聖霊に与り、感謝し、喜びに生きる力へと押し出されて行くのです。感謝
[PR]
by aslan-simba | 2010-10-05 15:01 | Comments(0)

この八月の休みに、帰郷した娘の一人が「日本のガラパゴス化・・・」という興味深い言葉を教えてくれた。ガラパゴスとはダーウィンが訪れ、進化論を着想した南米の島々。今年の夏があまりにも暑いので、日本もガラパゴス諸島のような「赤道直下の熱帯の島へと進化?」した・・・との意に解したのだが、的外れだった。 それは、その島々の生物が独自の進化をしたように、周囲とは違う形で発達する事柄を意味するそうだ。特に日本の携帯電話は複雑で独自な機能をもつゆえに国際規格から外れ、世界市場では通用しがたいという(通称「ガラケー」)。 この「日本のガラパゴス化」、最新の流行語かと思ったが、もう二、三年前から言われており、それをテーマにした本も出ているそうだ。 以来一カ月、この国の世相を見ながら、良きにつけ悪しきにつけ「ガラパゴス化」を愚考させられている。思えば、かの島々の生物が独自進化できたのは、南米大陸の獰猛な「天敵」から海を隔て守られたからだろう。またガラパゴス諸島は熱帯性気候ではなく温和な島々との事。翻って、日本という「天祐のガラパゴス列島」(もちろん尖閣諸島、竹島、北方領土も含まれる)、そこに棲息する日本人は自らの種の保存と未来への良き進化のために、周辺世界のしたたかな尺度も知り、毅然とした対処をなすべきだろう。「蛇のように賢く、鳩のように素直に」(マタイ10:16)!


☆10月3日の説教要約:
「『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた」(マルコによる福音書6:50-51参照)
主イエスは、実際の大波を凪となし、荒天を晴天に変えられるだけではありません。私たちの「人生の嵐」をも鎮められるのです。この主の御力を私たちはしっかりと記憶しているはずです。 現在は不安と恐れに満ちた時代ですが、本気でその主を信じ、祈るならば、必ずや「恐れるな」の御言葉が心に響いてくるはずです。そこから「安心」を頂きもう一度立ち上がりましょう。大丈夫です。
[PR]
by aslan-simba | 2010-10-01 15:51 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31