九月になろうというのに、このうだるような暑さ・・・熱波(heatwave)が居座り続けている。毎日のように、猛暑日の連続記録が更新される。土をも焦がす炎熱の日々は、いつまで続くのだろうか。ひたすら耐える毎日である。あたかも日本の気候そのものが、今年の夏を境に熱帯ないし亜熱帯気候に変化してしまったようだ・・・。思えばこの炎暑の前の「雨季」も凄かった。激しい「ゲリラ豪雨」と称されるスコール。こちらの方は今年だけではなくここ数年の傾向。もはや、あの「しとしとそぼ降る」梅雨の風情はなくなった。日本という「灼熱の島」? 穏やかな自然、麗しい四季、温暖で豊かな国土、この国の良き伝統風土はどこへ行ってしまったのか。これに根づき、育まれて来た我が国の文化と人のありようも、心なしか「劣化」して来ているようにも思える。もちろん、気候との相関だけではないが・・・この夏、そんなことを具体的に考えさせられる出来事にいくつか遭遇し、心重くさせられた。 ただ、いつまでもこのような状況が続くはずはない。必ず爽やかな輝きの日々が訪れるはずだ。耳を澄ませてみよう。夜には鈴虫やこおろぎが鳴き出しているではないか。目を見開こう。早朝の空は初秋を映している。昼にはトンボも見える。あと一息の辛抱だ。澄んだ空気の季節は、すぐそこまで来ていることを覚えたい。「天(あめ)が下の萬(よろず)の事には期あり、萬の事務(わざ)には時あり」という古の知恵者の言葉を思い起こそう。全知全能の神さまの祝福と導きに信じ、委ねて・・・。


☆9月5日の説教要約:
「更に、信仰にもとづいてあなた方がいけにえを献げ、礼拝を行う際にたとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」(フィリピの信徒への手紙2:17)
 使徒パウロは、フィリピ教会の人々に、キリストの福音を信じて、どのような苦しみを受けても、神を信じ、どこまで「不平不満を抱かず、屁理屈を言わずに雄々しく生きるように」(13,14参照)と語りました。一方で自分自身は、その人々の信仰のため、「救い達成」(12参照)のためには、殉教も厭わない。むしろ進んで喜ぶのだ、と語ります。実際にパウロはこの時、キリストのために牢獄に捉えられ、処刑を待っている状況にあったのです。彼の強さ、さらには彼と私たちを励まし、導いて下さる主の偉大さをおぼえます。
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by aslan-simba | 2010-08-31 15:03 | Comments(0)

祈り・・・心と形

「心は形を求め、形は心をすすめる」。印象深い言葉である。ただ、その出所は、はっきり記憶していない。以前、仏壇屋さんの宣伝か、お寺の掲示板だったかで見たような・・・。ともあれ、その言葉に手を合わせ、姿勢を整えて祈る敬虔なたたずまいが示される。祈りにあって「心と形」は、とぎすまされる。人間にとってかけがえのない行為のひとつが、この祈ることではないだろうか。 「神さまや 仏さまが ほんとうにいらっしゃるかどうか― でも あの合掌したときの安らぎは どこからくるのでしょう 右の手の悲しみを 左の手がささえ 左の手の決意を 右の手がうけとめる その上を流れる静かな時間 こうした姿勢を教えて下さったのは どなたでしょう・・・」(高田敏子「浅草観音」より)。 炎暑の八月は、「祈りの月」とよく言われる。今年もこの月に「追悼」、「鎮魂」、あるいは「幸福」や「希望」、「平和」などの願いを込めて祈祷を捧げた人は、信仰者だけに限らない。多くの人々が先人の後生のため、自らのために、あるいは家族や他の人々のため、またこの国のため、この世界のために・・・と祈念したはずだ。この月に捧げられたそれら一つ一つ思いをどうか、これからも大切にして頂きたい。そして、来るべき新たな月、新たな季節に向けて、その心を深化させて行って欲しい。その時、必ずその思いは、形となるのである。さらに願わくば、祈る私たち一人一人を覚え、共に祈って下さる主の御心にも気づきたい(ルカ22:32、ローマ8:26参照)。感謝をもって合掌。


☆8月29日の説教要約:
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(フィリピの信徒への手紙4:11)「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12:9参照)。
御言葉は語ります。主イエスが共にある生活の中にあってこそ、「足るを知る」という生き方が可能になる、と・・・。主イエスの御力(デュナミス)が私たちの内に宿って下さり、それが私たちを強めてくれるからなのです。ならば、「弱さのなかこそ」その力が十分に発揮できるとは、どういうことでしょうか。それは、十字架の出来事が示すように、主の恵みの御力が、「人間の弱さ」を真摯に担うときに、最大限の効力が発揮されるからなのです。


★残暑お見舞い申し上げます。八月も残すところあとわずかとなりました。しかし炎暑の方はおさまる気配もございません。どうぞご自愛専一であられますように。
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by aslan-simba | 2010-08-25 08:24 | Comments(0)

蝉の声

連日の猛暑、今日も声高なセミ時雨を耳に、庵での一日を始めた。扇風機を回し、手元には勝ち割り氷もおいて・・・もっとも、午後の盛りには、さすがに限界に達し、母屋へ戻る。そして、夕方遅くに再び庵へ。まだまだ熱気がこもっている。少し外を散策することにした。 ぶらぶら歩きながら、立ち寄ったのが近隣の神社。しかし、その境内に足を踏み入れ、一瞬たじろいでしまった。足下に十五、六個ほどだろうか、セミの死骸がまとまって置かれていたのである。うっそうとした木々に包まれたこの場所を、彼らは自らの安息の地に選んだのか。それとも近所の子供たちが、どこかで拾った死骸をこの場に運んできたのだろうか。いずれにせよ、一様に仰向けに倒れていた。そして、いくつかの骸(むくろ)の上には、アリが黒山のようにたかっている。何か異様なものを見てしまったような気がした。そういえば、以前、「終戦の日」に、「八月は死者の匂いがする月だ」と言っていた人がいた・・・。 ふと我にかえると、ヒグラシとツクツク法師の音が響き渡っている。「やがて死ぬ けしきはみせず 蝉の声」、「閑かさや・・・」ほどポピュラーではないが、芭蕉のこの句が好きだ。彼は愚直なまでに鳴きつづけるセミに自らの人生を譬えたのだろう。私も与えられた地上での働きを終わりの日までたんたんと続けたい。おそらくは、最後まで鳴くセミたちも後生の天の御国を知っているのだろう。そんな思いをもって仕事場の庵に戻る。見上げる夕暮れの赤い空は、もう秋の色。 合掌


☆8月22日の説教要約:
「・・・主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピの信徒への手紙4:5-7参照)、「・・・自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体の事で何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイによる福音書5:25)
人は思い悩み、悩みは尽きることがありません。時には、その悩みの淵から抜け出せなくなることさえあります。「生きるとは悩むことだ」と言いますが、本当にそうかもしれません。しかし聖書は、「思い悩むな」、「思い煩うな」と述べ、私たちを主イエス・キリストが見守ってくださっていることを伝えています。「思い煩うのはやめなさい」、この御言葉を本気で心にとめ、祈りましょう。そして豊かな聖霊の注ぎを頂こうではありませんか。どんな状況にあっても、私たちの根底を神の平安がしっかりと捉え、支えて下さっています。感謝・・・。
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by aslan-simba | 2010-08-18 08:10 | Comments(0)

わが内なるご先祖様

「お盆」には「地獄の釜の蓋が開く」という。面白い言い回しだが、多少、違和感も覚える。ただ、それを文字通りに受け止め、うんぬんしても始まらない。大切なのは、その真意を捉える事だろう。そもそもお盆の起源とは何か。 よく言われるのは『盂蘭盆経』に記される逸話である。釈尊の十代弟子のひとりで神通力をもった目連尊者が、亡くなった自分の母の現在の居場所を霊能力を持って探す。すると餓鬼道に堕ち、塗炭の苦しみを味わっている母の姿が見える。これを何とか救うべく釈尊に相談すると、旧暦の七月十五日(つまり、新暦の八月十五日)の夏安居(夏の修行)を終える修行者たちに食物を与えよと命じられた。これを実行すると、この功徳によって母のみならず、餓鬼道に堕ちていた他の多くの人々も共に救われ、そこから、お盆の習慣が始まったのである。遠く死の世界にある先祖たちの幸せを願う思いがその原点にあるわけだ。そこに、生死を越えた人と人との繋がりを大切に思う温かさを感じる。 さらに先祖との繋がりをより密接に語る仏教者もいる。「先祖と言うものは、いつでも自分自身の中にある。先祖は自分自身において生きている。だから、それはわが業、わが宿業、わが責任である。だから、自分自身が助かれば、先祖も助かる・・・」(曽我量深)と。こんな聖句を思い起こす。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使16:31)。この時期、とくに銘記したい。そうだ!主に在って、召された方々もわが内に共にあるのだから・・・。感謝。


☆8月15日の説教要約:
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、私の救い』と。私の神よ。」(詩編42:12,43:5)。
神のおられるところにこそ、私たちの真の故郷がある。今日の詩編はそのことを語っています。ならば、神のおられるところとは、どこでしょうか。言うまでもありません。祈る私たちと共に、神さまは、ここにおられるのです。そして、私たちの祈りの全てを聴き、必ず答えてくださる・・・確かな救いがここにあります。どうかこのことを心に止め、心に渇きを覚えるとき、辛い時、苦しい時には、鹿が谷川をあえぎ求めるように祈り、真のいのちの故郷である主を慕い求めようではありませんか。私たちにはそれが許されています。
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by aslan-simba | 2010-08-12 08:00 | Comments(0)

炎暑の庵と風鈴の音

セミ時雨の中、今日の仕事を始める。宇治市に住んで八年、感謝することの一つは、自分の書斎を持てたことだ。もっともそれは、離れのプレハブ物置に手を加えた粗末なもの。でも私にとっては最高の宝物だ。「萌蘖庵(ほうげつあん)」と称し、春夏秋冬をここで味わって来た。朝から晩まで当庵で本やパソコンに向かう。冷暖房無しでもさして苦にはならない。雨漏りの心配はともあれ、季節の変化を素直に感じられ、かえって気持ちがよいと述べてきた。 古来、わが国には、庵暮らしを愛した文人、歌人、宗教者が多くいた。たとえば小さな「方丈庵」に一人住み、世の行く末を考えた鴨長明、筵敷きの「五合庵」に二十年住んだ良寛、「一草庵」でその奔放な生涯の幕を閉じた種田山頭火、「狐狸庵」に住む狐狸庵老人(これはカトリック作家・遠藤周作の願望がつくりあげた人だろうが)・・・そういった著名人の系譜の末席に無名の自分が人知れずいると思うと何とも愉快だ。 ただ、今日の庵の暑さにはまいってしまった。晩夏の季語で表現すれば、「風死す」の状態がここにある。まさかのめまいと頭痛に襲われた。こんな経験は初めてである。これが世にいう熱中症なのだろうか。すぐに母屋に戻り、クーラーの冷気の直撃を受けながら横になった。しばらくして、ふと風鈴の音が耳元をかすめる。一風の風が通り抜けて行ったのだろうか。思えば、もう立秋、すかさず「風立ちぬ、いざ生きめやも」と口をつく。そうは言いつつも、もうしばらく休ませてもらおう。風鈴の音を聴きながら・・・。


☆8日の説教要約:
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたをたえられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントⅠ10:13)。
時代の荒波に翻弄され日々の生活に四苦八苦する私たちに、主イエスは今日も手を置き、神の息を吹きかけて下さいます。また、試練の折には主イエスご自身が「逃れの道」となってくださり、私たちを支え、新たな導きを与えてくださるのです。あらためて、この事実に心を留めましょう。そして、もっと祈り、もっと希望をもって歩もうではありませんか。
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by aslan-simba | 2010-08-06 15:19 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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