百日紅の季節

灼熱の炎天下の道を行く。ふき出る汗、足取りが重くなる。疲れをおぼえ、わずかな日陰を求めて古風な家の塀の下に歩を休めた。目を少し上げると、そこに濃い紅色の花々がこぼれるように咲き乱れているのに気づく。見事なまでのサルスベリ・・・この花の茂った枝が日盛りの道に、わずかながらもやさしく陰を落としてくれていたのである。有難い。 ところで「サルスベリ」というこの変わった名前の由来は、「幹がすべすべしていて、猿も滑って登れないから」、そう言われるようになったと聞いたことがある。だから「猿滑」とも書く、と・・・何ともユーモラスな名づけだが、どうだろう。 もっとも、パソコンで「サルスベリ」の変換を押すと「百日紅(ひゃくにちこう)」になる。夏の百日間に花をつけるからだろうか・・・。実は、この表意文字の背後には古代中国の悲哀伝説があった。それは百日間、恋人の戻るのを待ち、百日めを目前に亡くなった乙女の物語である。この美しい花は、その待ち続けた少女の化身だというのである。 ともあれ、この夏も咲き誇る色鮮やかな百日紅・・・朝ひらいて、夕べには散って行くこの一日花の姿に、暑さに負けずに日々を精一杯に生きる「いのち」が輝いているようだ。こんな句が浮かんだ。「この夏も 生きる我が身に 聖霊の紅」。


☆8月1日の説教要約:
「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしは神の家の門口に立っているのを選びます」(詩編84:11)
私たちは主の日の礼拝をもって、与えられた一日一日が、尊い日であることを示されています。それを一言で言えば、「主が共にある毎日」ということになるでしょう。この人生の日々を主が御一緒に歩んでくださっている。これほど大きな御恵みはありません。この人生の旅路の彼方、つまり地上の最後を終えた後には、現在、霊として共にいてくださる主イエス・キリストに直接、あいまみえるのです。 精一杯に生きる今日という日々を積み重ねながら、天のエルサレムを目指し信仰の旅を続けましょう。
[PR]
by aslan-simba | 2010-07-30 16:51 | Comments(0)

梅雨が終わった日、朝の道でセミの音を聞いた。四季ある温暖なこの地は、自然も季節の変化を知っている。その見事さに驚嘆した。うっとうしい日々は過ぎ、いよいよ本格的な夏の到来。もっとも、その感動に浸る間もなく、辺りは熱帯と化してしまった。この一週間、最高気温が毎日のように更新される日が続く。熱中症に気をつけたい。ご近所で交わす挨拶も「この暑さ、何とかならないものですかね」ばかり・・・。今朝は朝からセミしぐれが降り注ぎ、我が庵の暑さが現在進行形で増幅している。 夏にセミ、そう言えば、こんな昔の言葉があった。「蟪蛄(けいこ)春秋をしらず 伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや」(荘子)。蟪蛄とは夏蝉のこと。つまり、夏の短い期間にその地上の生涯を終えるセミは、春や秋を知らない。ならば、この虫(伊虫)は夏(朱陽の季節)を本当に知ることもできないはずだ、と。換言すれば、「井の中の蛙、大海を知らず」ということだろうか。ある方がこのセミを私たち自身の譬として、「迷いの生しか知らない我々は、わが人生が迷いの生であること自体、知ることができない」と述べていた。確かにそうだ。分からないままで生まれ、分からないままで死んで行くのではなく、生きる意味を主に在ってかみしめたいものだ。 ただ、こんな文脈でセミを引き合いだすのは失礼かも知れない。彼らは地中で何年も幼虫生活をなし、地上では生涯のフィナーレを飾り、天に向け精一杯鳴くのだ。もしかしたら、セミは我々以上に天の国を知っているのでは・・・。


☆7月25日の説教要約:
「弟子にしてください、わが主よ。心の底まで弟子にしてください。・・・もっときよく、聖なるものにしてください・・・(Lord, I want to be a Christian in my heart. Lord, I want to be more holly in my heart.)」(讃美歌二編173より)
黒人霊歌に基づく讃美歌。当時の厳しい生活の現実のなかで、彼らが歌い継いだ曲です。しかし、そこに恨み、辛みの表現はありません。地上での富や幸いも求められていない。願われているのは、ただただ・・・「主よ、わたしを弟子にしてください・・・心の底までそうしてください」なのです。心動かされます。歌は続いて「もっときよく(holly)に、もっと<聖なるもの>にしてください。心の底まで」と歌われます。それは「聖なる神であるあなた様のものとして、あなた様に応えさせてください」ということなのです。私たちも今、同じ祈りをもって、主の弟子として遣わされて行こうではありませんか。「わたしを遣わして下さい」(イザヤ6:8)。
[PR]
by aslan-simba | 2010-07-23 14:12 | Comments(0)

豪雨の日々が過ぎて

激しい豪雨の日々もようやく一段落した。さっそく我が庵の雨漏り状況をチェック。若干、その痕跡は認められるものの、それほどひどくはなかった。今年の春先に妻が屋根に上り、防水処置を施してくれたお陰だろう。まずは一安心。 それにしても、度重なる「ゲリラ豪雨」は、日本中に無残な爪あとを残した。道路や町や家々を水に浸して破壊し、人々の生活の糧であり、汗の結晶でもある農作物に打撃を与え、さらには死者までもたらす猛威をふるったのだ。このような災害で生じた悲しみ、苦しみ、その物心両面の損失の怒りを人は誰へ向け、どこへと訴えるべきなのだろうか。 ヨブの言葉が脳裏を走る。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1:20)。けなげにそう語った彼も、その後、自分が生まれたことを呪い、また友人たちの叱咤に対して「生きていたくない」(9:21)という言葉さえ吐いた・・・。なお、今回のことだけではない。今、この日本で、この世界でヨブと同じ思いをもって生きている人たちが、いかに多くいるだろうか・・・。ある人が「災害は人を試す」、「それによって普段は見えないものが見えてくる」と言っていたのを思い出した。 ヨブは、 「・・・しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」(33:28)というエリフの言葉に気づかされた。あの十字架の主が、今、復活の主として、
光としておられることに、私たちも深く気づきたい。主の執り成しと平安を切に祈り求めながら・・・。


☆7月18日の説教要約:
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネによる福音書2:11)
 キリスト教の信仰を一言で表現すれば、「主イエス・キリストに結ばれている信仰」ということになるでしょう。つまり、「主イエス、共にあり」ながら、私たちは神さまに信じ、日々の週日の生活を送り、日曜日には教会の礼拝に与るのです。どこまでも、どんな時でも、主が傍らにいてくださる・・・だから安心なのです。 この人生、色々な事が起こります。しかし共にある主は、私たちを慰め、励まし、勇気づけ、悲しい日々を喜びの日々へ、不安な日々を希望の日々へと変えて下さるのです。そのような信仰に生かされていること、これが喜びでなくてなんでしょうか。感謝 
[PR]
by aslan-simba | 2010-07-16 21:19 | Comments(0)

豪雨の梅雨、その晴れ間は盛夏を思わせるほど熱い。ギラギラした日差しの下、木槿(むくげ)の花が咲き染める。京都では、この木槿の八重を「祇園守り」という。今年もその祇園さん(八坂神社)のお祭りの時期を迎えた。京都の人々にとって、この祭は格別なものがある。我が家の新聞は連日、祇園祭に関わるニュースを取り上げている。 今、「京の町」では、14、15、16日の宵山に向けて、これを盛り上げるべく町中の人が力を合わせ頑張っているのである。そして17日には山鉾巡行・・・。当日までに一つ一つのこと細かな手順があるようだ。そのことに心血を注ぐ人々の様子は中途半端ではない。関わった者にしか分からない苦労や心の準備、また喜びもあるのだろう。この賑やかで華やかな祭りも、やはり裏方の力が大きいことが、あらためて分かる。隠れた人々の力と祈りが、しっかりとこの祭りを支えるのだ。何事においても大事なのは「影の力」・・・ 色々と思いめぐらしていると、どことなく「コンチキチン、コンチキチン」という祇園ばやしが耳元に囁き始めた。ふと、以前、当教会に熱心に通ってくれた韓国の女子留学生のことを思い出した。彼女が初めて浴衣を着、下駄を履いてこの祭り出向いた感動を語ってくれたことが昨日のように甦る。そういえば木槿は、彼女の国の国花(ムグンファ)だったな・・・。朝咲いて、夕に散る一日花の木槿(むくげ)の花、それは私たち日本人には一期一会の記憶となる。


☆7月11日の説教要約:
「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちはイエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」(マタイ14:24-26)
 弟子たちは、湖の上を歩き、近づかれる主が分かりませんでした。そればかりか、主の御姿を「幽霊」と誤解さえする始末です。 翻って、私たちはどうでしょう。人生の湖上で逆風に悩む私たち・・・ならば、そこに今、近づきたもう主イエス・キリストの御姿を見出すべきです。主は私たちの悩み、苦しみ、悲しみを決して捨ておかれません。必ずや助けに来て下さり、励まし、力を下さるのです。もう一度、信仰の目を確かにしましょう。
[PR]
by aslan-simba | 2010-07-10 17:46 | Comments(0)

七夕・・・晴れて

七夕が近い。「今夜は七夕 また雨空 七夕ってどうしていつも 晴れないのかしら」・・・サラリーマン一年生の秋の会社の文化祭、コーラス部で歌った組曲の一節を思い出す(吉田幸作詞)。私の憶えている七夕もいつも雨だった。 記憶は遡る。幼稚園の時、先生が七夕の由来をこんな風に話してくれた。「むかしむかし 天の神さまのために、いつも一生懸命に機織りをしている織姫さんと 牛つかいのお仕事をしている働き者の彦星さんがいました。ある日、二人はお友達になりました。本当に仲良くなったのはよいのですが、二人は神さまのお言いつけも、お仕事も忘れ、いつまでもいつまでも遊んでばかりいたのです。困った神さまは天の川をはさんで二人を別れ別れにされました。でも、神さまは優しいお方です。元の働きものに戻った二人を、年に一度だけは会わせてあげようと約束されました。それが7月7日の七夕なのです。ただ雨が降ったら来年までは会えません。だから晴れればいいね・・・」と。これを聞いて短冊に「はれて」と覚えたてのひらがなで書き、皆で「ササの葉さらさら」を大声で歌った。でも、あの年の東京の七夕の夜は雨だった。何かとてつもなく悲しい思いがしたことを思い出す。そんな思いの甦った今年の七夕は、晴れますように!


☆7月4日の説教要約:
恐れることはない。ただ信じなさい。・・・タリタ、クム・・・少女はすぐに起き上がって歩きだした。・・・イエスはこのことをだれにもしらせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるように言われた」(マルコ5:36以降参照)
会堂長ヤイロの幼い娘が死より蘇生したのです。それほどの大きな出来事がなされたのに、主イエスの、ここでの言動があまりにも普通である事に驚かされます。同じように主は、今日も私たちの上に、大きな奇跡を起こして下さいます。もっと信じ、もっと委ね、もっと感謝する、私たちでありたいと心から願います。
[PR]
by aslan-simba | 2010-07-02 17:57 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31