一日という「卵」

つばめが巣をかける時期を迎えた。数日で五月も終わる。あとひと月を過ごすと、今年も半分過ぎることになる。日、月、そして年の流れ・・・ こんな「謎かけ」がヨーロッパにあるそうだ。「一本の木に十二の枝、その枝に四つの巣、その巣に七つの卵、さてその木とは?」、答えは「一年」。ちなみに十二の枝が「月」、四つの巣が「週」、そして七つの「卵」が「日」とわかる。興味深い言い回しだ。 翻って、私たちはその一年という「木」、分けてもその最小の構成要素である一日という「卵」を、これまでどれほど大切に扱って来ただろうか。こわれやすいその「卵」を、文字通り壊してしまったこともあったのではないだろうか。あらためて、自らの人生の日々を省みる・・・。 思えば、いのちを与えられているという事は、日々のうちを生かされているということ。私たちの一生というのも、つまるところ、この一日一日の積み重ねにあるのだ。 哲学者カントは日々の生活を大切にし、一日の一切を実に規則正しく、時間割に従うように過ごしたという(その著作、講義、研究、食事、散歩に及ぶまで・・・)。結果、八十年に亘ったその生涯を終える臨終の床で彼は、「すべてよし(Es ist Gut!)」と語ったそうだ。 私たちはカントの真似をする必要はないが、与えられた今日という日、その時間を自分らしく大事に使うことが許され、その「卵」を大切に成長させて行くことができるのである。同時に、「卵」とは主に在って今日も新たにされている、私たち自身の姿でもあろう(コリントⅡ4:16参照)・・・感謝。



☆5月30日説教要約:
「わたしの先祖アブラハムとイサクが その御前に歩んだ神よ。私の生涯を今日まで 導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから 贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に 祝福をお与えください」(創世記48:15―16)
波乱万丈だったヤコブの人生、その歩みを確かに支えてきたもの・・・それは神の「導き」であり「贖い」だったのです。言葉を換えれば、「神さまが共にある生活」があったのです。そのおかげで、彼はここまでくることができたわけです。 長い人生において最も大切なことを身をもって悟ることができた族長ヤコブ。彼がのこされる者たちの上に遺す祈りも、その主なる神の祝福だったのです。ヤコブの祈りは今の私たちにも及びます。
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by aslan-simba | 2010-05-28 16:15 | Comments(0)

小満の日に

初夏の日差しに新緑がまばゆく映える。青々とした草木が大地に輝きを与えている。春に生まれた「いのち」が今、確かに育っていることが感じられるこの時期・・・暦に、今日5月21日は「小満(しょうまん)」とあった。 ある人によると「小満とは、陽気が良くなり、秋にまいた麦が穂をつけるので、一息できる時期」なのだそうである。「まずは、ひと安心」と「小さな満足を覚える日」ということだろうか。手元の辞典には「二十四節気の一つ。立夏の後15日目。万物が次第に長じて満つるの意」とあった。いずれにせよ、昔の人は味わい深いネーミングをしたものである。そんなことを思いながら、遠くの山々を見渡すと、やわらかな緑に包まれていた。 なお、この小満あたりを境に、西日本では「はしり梅雨」を迎えるという。梅雨の前触れのぐずついた天候の日々が続き、やがて本格的な梅雨となり、湿度の高い、うっとおしい時期を迎えるわけだ。この年に一度の季節の巡り合わせ、これもこれで喜びをもって迎えたい。万物を潤す恵み雨が頂けるのである。山々がこれによって豊かに水を蓄えてくれる・・・「山したたる」夏の日々も楽しみに心待ちしながら。感謝。「わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある」(申命記11:13-15)。


☆5月23日の説教要約:
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家じゅうに響いた。そして、炎のような舌が分かれ分れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1-4)
今日は聖霊降臨日、ペンテコステ・・・教会にとってクリスマス、イースターと並ぶ特別の日です。ペンテコステとは、文字通り、五旬節(旬は十の意味。すなわち五十日)で、それは主イエス・キリストの十字架と復活から五十日目にあたるのです。この日に不思議な仕方で「神の霊」「聖霊」が注がれ、使徒たちが主の証人として立たされ、宣教が開始されたと使徒言行録2章は伝えます。ですから、ペンテコステは「教会の誕生日」などとも言われます。 ただ、この日が大事なのは、さらに大きく深い意味があるのです。それは旧約の約束の成就の日であり、一連の神の救いの出来事の到達点にあたる日なのです。さらに私たちに引きつけて言えば、この日に頂く聖霊によって、わたしたち自身が「神の子」とされるのです。何と感謝なことか・・・
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by aslan-simba | 2010-05-21 19:35 | Comments(0)

皐月冷えに負けずに

立夏は過ぎたのに、先週とは打って変わり、今週は肌寒い日が続く。今朝はタンスに仕舞いかけたセーターを羽織り、ストーブを灯した。ダッチロール(蛇行)を続けるこの天候を何というのか。もはや「花冷え」とは言えぬ。「皐月冷え」だろうか? 何か昨今のこの国の世相を反映しているような気もする。 先行き「不透明」で、「羅針盤の見えない」、「海図なき」時代・・・ここ二、三十年ほどそんな風にも言われて来たが、それが「現在」に集約されてしまったのだろうか。この「肌寒い時代」、これから先も心配だ。もちろん政治や社会、経済の問題だけではない。私たち一人一人の事柄としてもそうだ・・・家族、病気、老い、金銭的な不安など考えてみれば問題には事欠かない。もっとも、マイナスばかりを数え上げ、不安だけを先取りし、「大変だ、大変だ」と愚痴り続けても仕方ないだろう。私たちには信仰という、大きなプラスを与えられている。それは今の時代をしっかり見つめる目と、どのような状況にも負けずに起ちあがって行く力となるのである。信仰の人生を重ねてきたものには、年老いても、否、年輪を積み重ねれば重ねるほど、今から未来への定かな希望が必ず見えてくるのだ。「温かな時代」の到来を祈り待ち望もうではないか。聖書は、そんな私たちをこう述べている。「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう」(口語訳詩篇92:14,15)と。本当にそうあろう。


☆5月16日の説教要約:
「イエスは、そこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、天に上げられた」(ルカ24:50-51)。
ルカが伝える主イエス・キリストの昇天物語です。主は弟子たちを祝福されながら、天に昇られたというのです。これは主イエスが絶えず私たちを祝福して下さっている証と捉えてよいでしょう。ならば、祝福とは何でしょうか。聖書でいう祝福は、いつも私たちの命と関わり、また生きる力と関係して述べられております(創世記48-49章を参照)。つまり、祝福とは神さまの守り、顧みであり、神さまの命に与ることと理解できます。今、私たちの人生は、その祝福のうちにあるのです。感謝。
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by aslan-simba | 2010-05-14 22:14 | Comments(0)

ひとつの幸福

まばゆい日差しのなかを爽やかな初夏の風が過ぎて行く。わが街の五月の連休。久しぶりに出会うお孫さんの手を引いて喜ぶお爺さん、子供たちと一緒にキャッチボールをする若いお父さん、大人になった娘さんを誇らしげに連れて歩くお母さん・・・近所に笑い声が響き渡る。 百花繚乱のこの季節、近くのマンションを取り囲む植え込みの満開のツツジはことのほか美しい。道を行けば、鮮やかな新緑に今更ながら感嘆させられる。御陵の道の頭上に咲き誇るフジも見事。この穏やかな日々の風景を見つめながら、立原道造の詩を思い起こしていた。「夢みたものは ひとつの幸福  ねがつたものは ひとつの愛  山なみのあちらにも しづかな村がある  明るい日曜日の 青い空がある  日傘をさした 田舎の娘らが  着かざつて 唄をうたつてゐる  大きなまるい輪をかいて 田舎の娘らが 踊ををどつている  告げて うたつてゐるのは  青い翼の一羽の 小鳥 低い枝で うたつてゐる 夢みたものは ひとつの愛 ねがつたものは ひとつの幸福 それらはすべてここに ある と」(岩波文庫『立原道造詩集』より)。 ゴールデンウィークは終わった。あわただしく帰郷したわが家の子供たちも、東京へと戻って行った。そして今朝は静かに雨がそぼ降る。街も静寂である。過ぐる日々、あの楽しさと平安のなかで戴いたエネルギーは、また今日からの生きる元気の源となる。


☆5月9日の説教要約:
「あなたの慈しみはわたしを超えて大きく 深い陰府から 私の魂を救い出してくださいます」(詩編86:13)。
 1節に「主よ、わたしに耳を傾けて、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています」とあります。この詩には自らに降りかかる悩みと苦しみが繰り返し訴えられます。ただ、その声にもまさり、神さまの恵みとそのはかりがたい慈しみへの賛美もここになされていることに着目ください。神さまが力強く、ひ弱な私たちを支え、導いてくださっている「神の慈しみ」・・・本気で神さまに身を委ね、歩んで行きましょう。そのとき道が拓かれます。希望が湧きあふれます。どうか、今、この大きな慈しみの主の御手のなかに、自らがあることを心にとめてください。
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by aslan-simba | 2010-05-07 16:47 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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