笑顔の季節へ

「故郷や どちらをみても 山笑う」(正岡子規)。 明るい温かな日差しのもと、爽やかな風が吹き抜けて行く。まさに春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)。今年はゴールデンウィークを迎え、ようやく「春たけなわ」を実感できるようになった。道を行けば、新たな装いと木々の新緑が目にしみる。足下には力みなぎる若草が萌えている。新たな季節の喜びを頂いたこと、感謝にたえない。「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶっしょう)、あらゆるところに命の輝きを見る。自分自身もこの季節の自然と一体の境地となれれば・・・そうなるには、まだまだ足りない自分であることにもあらためて気づかされる。 「暗く長い 土の中の時代があった いのちがけで 芽生えた時もあった しかし草は そういった昔を ひとことも語らず もっとも美しい 今だけを見せている」(星野富弘「新緑」)。本当にそうだと思う。自分も本気で、その「草」のたたずまいから、学ばねばならないだろう。そんな風に思った時に、近くでウグイスの音色が「笑い声」のように心地よく響く。そうだ!「山笑う季節」に相応しく、まずは、もっともっと笑顔になろう。


☆5月2日の説教要約:
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい・・・あなたは良くなったのだ。もう罪をおかしてはいけない」(ヨハネ5:8、14参照)。
主イエス・キリストは今、私たち一人一人に「起て」、「床を担いで歩け」と御手を伸ばし、御声をかけてくださっています。私たちは、この御言葉に応え、元気に起き上がって歩けるはずです。さらに主は言われます。「あなたは良くなった」と。私たちは、今、主にあって自由にされているのです。もはや病気や失敗の苦しみ、現実の嘆き悲しみに支配されてはならないのです。どうかこのことをしっかりと心に留めてください。主イエスの憐れみと神さまの愛、そして聖霊の導きこそが私たちの人生を決定しているという事実を。また豊かな救いの御手のなかにあるという幸いを・・・感謝。
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by aslan-simba | 2010-04-30 07:57 | Comments(0)

雨の朝に

軒を打つ雨音に目覚めた。窓越しに見る街並みは、さみどり色から灰色に変わっている。肌寒い春の朝、昨日の陽気がうそのようだ。こんな日は一人静かに書斎で過ごしたい。しかし今日は外出せねばならない用事がある。大きめの傘をさして家を出た。何とはなしに足取りが重い。 駅へと向かう道すがら、今年も春の到来を告げてくれた桜の木の前で立ち止まった。つい先日まで、こぼれるほどの花をつけた枝々が葉桜となり、冷たい雨に打たれ、風に揺れている。ある禅者が記したこんな詩を思い起こす。「花は黙って咲き黙って散ってゆく そうして再び枝に帰らない けれどもその一時一処に この世のすべてを託している 一輪の花の声であり 一枝の花の真である 永遠に滅びぬ生命のよろこびが 悔いなくそこに輝いている(柴山全慶)」。ふと思う。私たち自身もその「花」ではないだろうか。ならば人生の雨の日にも、無心に、誠実に、笑顔をもって精一杯生き抜こうではないか。いつか雨はあがり、明るい緑輝く日が必ず訪れるのである・・・。自分の朝の心に、新たな芽吹きを頂いた思いがし、気を入れ直す。 同時に主イエスの御言葉が脳裏を走る。「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった・・・神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と。ここからは元気な一歩を踏み出そう。今日も主イエスが共にあっての一日であることを心に刻んで。


☆4月25日の説教要約:
「神が命じられたとおりに、すべての肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(創世記7:16)。
有名なノアの箱舟の物語です。ノアは神さまが命じられた通りに箱舟を作り上げ、動物たちを乗せました。そして最後の完成を神さまに委ねたのです。神は戸を閉じて下さっただけではありません。この先、この箱舟とノアや動物たちを守ってくださいました。 水面の水は勢いを増し、「大いにみなぎり」ました。しかしこの時もノアには不安はありませんでした。彼は神さまを心底信頼していたのです。だからどこまでも平安でした。私たちも人生の荒海を、ノアのように徹底した信頼をもって歩もうではありませんか。その時、必ずや「約束の虹」を見るはずです。
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by aslan-simba | 2010-04-23 17:20 | Comments(0)

心で見るもの

「心で見なくちゃ。ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」(サン・テグジュペリ『星の王子様』より)。 「物」は目に見える。それを粗末にしてはならない。同時に、その物に永遠を求めてもならない。それはやがては壊れて行くからである。諸行は無常。聖書が語る「偶像拒否」の意味も、そこに見出せるかもしれない。 私たちにとって最終的な頼りとなるのは、どこまでも目に見えるものではない。大切なのは「心の目」をもってこそ知ることのできる「もの」・・・言葉を換えれば、信頼に基づき存在があらわれ出てくる「もの」なのである。すなわち、「信じる心」が、その前提となるのではないだろうか。たとえば、「愛」がそうだろう。互いの信頼があるところにこそ、それは醸成される・・・。言うまでもないが、神さまの場合も同様だ。信仰という信頼があってはじめて、共にある主の存在を認め、主に委ねることができるのである。そこから神さまのご自愛にみちたお働きが、具体的に見えてくるわけだ。 先日、「見えないものを見た人たち―金子みすず、サン・テグジュペリ、そして新島襄―」と題するエッセイを読んだ(本井康博『錨を挙げて』より)。その三人に共通するのが「柔らかい心」と記される。興味深い。私たちも柔軟な心を大切に、「見えないものに目を注ぎ」続けようではないか(コリント信徒への手紙二4:18参照)。その時、そこに必ず道が拓かれるのである。感謝。


☆4月18日説教要約:
「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい・・・」。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神」と言った(ヨハネによる福音書20:27、28参照)。
目に見え、手で触れることのできるリアルな復活の主の御姿を、ヨハネは私たちに伝えます。1世紀の出来事です。二千年後の時代を生きる私たちは、そのような仕方で直に主にお会いすることはできません。しかし、今、主の御言葉がこのように心に響くのです。「今、あなたがたもトマスと同じようにわたしを心の底から『わが主、わが神』とよぶことができる。それが信じるということだ。わたしをそう求めることのできる人は、幸いである」と。「わが主、わが神」と呼ばわり生きるとき、私たちは大きな祝福を頂きます。霊なる主が共にあるからです。
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by aslan-simba | 2010-04-17 07:53 | Comments(0)

鶯と桜と復活祭

イースターの朝の小さな奇跡、ウグイスがその姿を現し、妻と私の目の前で見事な声でさえずってくれた。主の復活の喜びを私たちに告げ知らせるように。教会へと向かう道すがら、木幡池の手前の茂みの前に佇んだときのことだ。一メートルもの目先で「ホーホケキョ」と。こんな至近距離で春告鳥の姿を見、その声を聞けるとは・・・。よくメジロをウグイスと見間違えるといわれる。本物のウグイスは普通、人前にやすやすと姿を見せないのである。そのウグイスに直に出会えたのだ。文字通りに「有り難い」。 今年の受難週は、「花冷え」の日々が続いた。十字架の季節に相応しかったというべきだろうか。ただ朝の散歩の折に、ウグイスの声を耳に出来ないのは、残念だった。受難日には思わず「早春賦」が口をついた。一、二カ月の季節感のずれは感じつつも・・・「春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯(ウグイス)歌を思えど 時にあらずと声をたてず」と。これは子供の頃に、よく母が歌って聞かせてくれた懐かしい曲のひとつ。 ともあれ、寒かった受難の日々は明けた。復活の朝にウグイスがあの主イエス・キリストと同じように具体的な甦りの姿を示してくれた。やわらかな温かい日差しと、甦った自然の息吹がそこにある。日本の春を象徴する桜の花々も今、まぶしい。「満開の桜と祝う復活祭」、ここから始まった復活の春。今年度は復活の主と共に良いことが沢山起こるはずである。


☆4月11日の説教要約:
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら・・・話し合い論じていると、イエス自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカによる福音書24:13-15参照)。
讃美歌の39は、この時の「二人の弟子」の心情をこう歌っています。「日暮れて四方は暗く、我が魂はいと寂し、寄る辺なき身の頼る、主よ、共に宿りませ」。この歌はさらに彼らの思いのみならず、他ならぬ私たち自身の人生そのものの夕暮れ、地上の営みの最後にも言及するのです。「命の暮れ近づき、世の色香移り行く・・・」と。ただ、そこに主が変わらずに共にいて下さるのです。思えば主が一緒に歩んで下さったからこそ、ここまで来ることが出来たのです。主は生きておられ、共に宿って下っています。
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by aslan-simba | 2010-04-09 08:08 | Comments(0)

復活祭を待つ桜

今日は暖かくなるとの予報。ただ書斎の体感温度は十度を下回っている。花冷えの日々は続く。一週間も前に開花の宣言は聞いたものの、満開までは未だ一歩を残し、足踏みといったところだろうか。 四、五日前は特に寒かった。この月曜日、冬に戻ったような寒空の下、年度替わりの近づく街を歩いてみた。仕舞いかけていた冬物のコートとマフラーを羽織りながらも、気持ちだけは春風に乗ったつもりで颯爽・・・と。道を行きながら、何か白いものが頭上に舞い降りてきた事に気づいた。一瞬、桜の花びらではないかと思ったが、さにあらず。それは季節外れの「霰(あられ)」だった。見上げれば、五分咲きの花々はまだ縮こまっていた。「スプリング・ハズ・カム」とは言えない。日本の春は桜。この国の花の代名詞も桜。満開の桜が散り染める中でこそ春を迎える。 そう言えば先日、日本紹介するテレビの英語番組で「さくら   (cherry blossom)」を題材に「春、日本各地でほころびる桜の花(Every spring, the cherry   trees all over Japan burst into bloom.)」とやっていたが、「花冷え」の言及はなかった。高校時代にそれを“cherry blossom chill”というと教わった事をふと思い出した。いかにも直訳調で面白い・・・その思い出をきっかけに過去の記憶が一気に甦ってきた。そして一句「花冷えや 昭和の日々の懐かしさ」。思えばまだ受難週、この時期が明けてこそ、「復活の春」という希望の未来が到来するのである。


☆復活祭の説教要約:
「わたしの父であり、あなたがた父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネによる福音書20:17)。
本来ならば、神を父と呼ぶことのできる唯一人のお方であった主イエス・キリスト・・・その主の尊い十字架の犠牲によって、私たちの救いの道は拓かれたのです。今、主は復活されました。そして天に昇られました。私たちはここに赦され、神の子とされ、神さまを父と呼ぶことができるのです。だから、それに相応しいものとして、恐れず、勇気と希望をもって出発しようではありませんか。
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by aslan-simba | 2010-04-02 09:16 | Comments(0)

新たな年度となりました。今度の日曜日はイースター(復活祭)です。桃山栄光教会では次の様なスケジュールでイースターの喜びを共にしたいと願っています。
10:30~12:00頃 復活主日礼拝
12:00頃~14:00頃 お祝いの会(もちよりでやりたいと思います)
その後      有志による「お花見」・・・天候次第、桜次第、のり次第ということで。

まあ、お気軽にお越しください。手ぶらで結構です。出入り自由です。もちろん宗教の押し付けなどは有り得ません。
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by aslan-simba | 2010-04-01 10:43 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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