<   2010年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧

受難節に思う

聖書の記述にたじろがされることが時折ある(学生たちにも話すのだが、「ありがたい教え」ばかりを期待して読むと愕然とすることがあると・・・)。今日は主イエスの御言葉に戦慄が走った。「・・・何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『・・・あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。またシロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも、罪深いものだったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがた悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」(ルカ13:1-5参照)。 総督ピラトのガリラヤ人虐殺、シロアムの塔倒壊による犠牲者などが言及されている。そこには変わらない世の現実と人間の姿が記されている。イエスの時代から二千年、今日、同様の痛ましい世界の光景は瞬時に報道されるようになった(たとえば先般のチリの大地震とその後の混乱、また何故か日本のメディアはあまり取り上げないが、スーダンのダルフール問題など・・・) それは遠い世界の話だけではない。周知のように、「平和な」私たちの社会でも、様々な問題や危機が足元に横たわっているのである。翻って、自分たち自身のたたずまいをも顧みたい。主は「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われている。身の毛のよだつような言葉ではないか。ただし、これを語られた主イエスご自身が、この世界と私たちが滅びることを身をもって阻止するために命を捨てられた。何ということだろうか・・・語り尽くせないほどの十字架の大きさと重さと主の深い慈愛に思いを馳せたい。「(何者であれ)主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことができない」(ローマ8:38)のだ・・・。この主の十字架に生かされて今あることを改めて感謝し、この先、何がわが身に起ころうとも、恐れずに主に徹底的に委ね、真摯な悔い改めをもって道を歩む者でありたい。その時、滅びの道は閉ざされ、神の国の門は大きく開くのである。だから大丈夫!



☆3月28日(棕櫚の主日)の説教要約:
「キリストは・・・ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ人への手紙9:11-12)。
私たちの人生は、この主イエス・キリストの十字架の犠牲に基づいて今、在ります。日々の歩みは、主の十字架によって支えられているのです。そこに主の赦し、導き、そして慰めがあります。このことをしっかりと心に刻んでください。「千歳の岩」=「主の十字架」よ、わが身を囲め!(讃美歌260)。
[PR]
by aslan-simba | 2010-03-25 22:16 | Comments(0)

三月・弥生

「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」、月日の過ぎるあわただしいさまを表現する言い方である。今年も、その「去る」ところの三月・弥生も余すところあと十数日・・・。ただ、個人的な思いから述べれば、それほど時間が早く流れているといった感覚はない。一日一日の確かな積み重ねを経て、今年も「復活の希望」の季節へと向かっているというのが、実感だ。 ところで、この弥生の月の「弥」という字には、「久しい」とか「あまねく」などと共に、「いよいよ」、「ますます」という意味があるという。つまり、「弥生」を文字通りに捉えれば、「いよいよ、ますます生き生きとしてくる月」ということなのである。確かに、身近な自然を見ればそれが分かる。この月に入り、枯れ草の残る野原にも若い緑の葉が目につくようになった。梅、そして桃も愛らしい花を開き、私たちの目を楽しませてくれた。そして毎朝、春を告げる鳥のさえずりが響き渡る。 刻々と季節の躍動が間近に感じられる今日この頃・・・。もちろん、教会の暦が未だレント(受難節)であることは心留めたい。この時期、浮き足立つことなく、克己の日々を大切に過ごすことは大事だろう。それでも、「偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(マタイ6:16)。主イエスのご受難の目的が、私たちを赦し、「いよいよ生かす」ためにあったことを思い起こし、笑顔をもって歩見続けようではないか。 今、いのちを暖かくはぐくむように吹いてくる春の風に、祈りつつ、静かにこの身をまかせよう。キリストのかぐわしい香りをいっぱいに受けながら。主の豊かな愛に包まれながら・・・。大丈夫、最高の春を迎えられる!


☆3月21日説教要約:
「・・・しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハネによる福音書17:13)。
主イエス・キリストの私たちに対する熱い愛の思いが迫っています。その喜びと平安が私たちの心に満ち溢れます。人生の暗闇も病も決して「死」に向かってはいません。神さまは必ずや「栄光」へと代えてくださいます。この恵みの約束が
[PR]
by aslan-simba | 2010-03-17 18:41 | Comments(0)

人生の寒の戻り

冷めたい雨がそぼ降り、肌をさす風が痛いように感じられる朝。灰色の景色の中を、傘をすぼめて足早に歩く。沈丁花が寂しくしぼんでいるのが分かる。つい一週間ほど前には、「四月並み」の温かい日もあり、このまま春になるような気がしていた。それが遠い昔の日のことのように思える。寒気と風に震えるこの春の日は、レント(受難節)の時期にあるいは相応しいかも知れない。 「寒の戻りは心も冷やす」というが、それは天候だけでなく、私たちの人生においても同様の事態が生じることもあろう。順風満帆な日々が、ある日突然、暗転・・・落とし穴に落ち込む。自らの不注意、あるいは誰かの妬みによる策略・陰謀・・・ともあれ、そこで困難な問題を抱え込み、深い挫折感にさいなまれ、足が一歩も前に出ないような思いに囚われる。人は、そのような経験をせねばならない時がある。ただそこで、いつまでも塞ぎ込んだままでは、何も始まらない。むしろ、逆境さえも、主が共にあっては「深い意味ある時」なのである。もがき苦しむそんな「私自身」のためにこそ、重いゴルゴダの十字架があったのではないだろうか。 学生時代、ドイツ語の授業で習ったゲーテの詩の一節に、こんな言葉があった。「涙とともにパンを食べたことのないもの 悲しみに満ちた幾夜をベッドで泣きあかしたことのないもの そうしたものには天上の霊の力がわからない」。 人生の歩みも、三寒四温を繰り返しつつ、復活の春へと向かっている。アカシアの街路樹が今、金色の花の房をつけて輝いている。辛く苦しい人生の「寒」は、御国の春が間近なことを確かに告げているのである。

*ニュースで鎌倉の鶴岡八幡宮の樹齢千年にも及ぶ大銀杏の木が倒壊したことを伝えている。昨日は日本列島が「春の嵐」に見舞われた一日だった。



☆3月14日説教要約:
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12:23-24)。
主イエス・キリストは十字架に於いて死なれ、それによって多くの実を結ばれました。他ならぬ私たち一人ひとりも、その実の一つです。もっとも自分自身を十字架の果実と言うには、恥ずかしいほど、あまりにも欠けの多いものです。それでも、このように今、許され、癒され、生かされています。だからこの先も、感謝しつつ歩んで行きたいと願います。
[PR]
by aslan-simba | 2010-03-11 08:26 | Comments(0)

匂い起こせよ梅の花

春の気配が、いたる所に顔を出す。今、地上の「いのち」が新たな季節の躍動へと備える。その息づかいを覚えながら歩く。耳にするウグイスの鳴き声が心地よい。子供の頃に歌った童謡が口をつく。「梅の小枝でウグイスが春が来たよと歌います。ホッホホケキョ・・・♪」。今、梅が満開。 「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」(春が来て東風が吹いたなら、その風に乗せてお前の匂いを、遠い西の大宰府までとどけておくれ。家の主人がいなくとも、春を忘れてはならぬぞ)・・・九世紀の人、菅原道真が京を去らねばならない折に、自宅の庭の梅ノ木によせて詠んだという。 政治家であり文人としても優れていた道真は妬まれ、無実の罪を画策され九州の大宰府へと左遷、その地で没したのである。生前、自らの無実を晴らす術が無いことも、彼は歌っている。形は違っても、同じようなことは、いつの時代にも繰り返されるものだろう。人間の抱える「煩悩」、つまり「罪」がある限り。同時に、それが「怨霊」をも生む。死後、彼は「雷神・祟り神」に化身したとされた。その祟りをなだめるために天満宮建立。 ともあれ、道真の愛した梅は、主人の願いを受け、京の邸宅から一晩にして、大宰府のあばら家へと飛来したと伝えられる。この受験シーズンに活躍する「天神さん」の人生にまつわる伝説・・・。 レントの日々、道真が味わったような不条理、人間の恨み、つらみ、苦しみ、悲しみ、そして罪を一身に担い続けた十字架の主の御姿を心に刻みたい。やがて季節は梅から桃、そして復活を告げ知らせる桜の季節を迎えることに感謝して。


☆3月7日の説教:
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネによる福音書15:4)。
キリストの命、キリストの愛、キリストの力は生きています。そして、私たち一人一人の中に神の栄光が現わされるのです。キリストの光が私たちに向けられる・・・その御恵みによって、私たちは確かに許され、救われ、「ぶどうの枝」とされ、「主の弟子」とされているのです!キリストに繋がる祝福をここに受けているのです。心から感謝し、実を結ぶ者として雄々しく人生を歩み続けようではありませんか。「キリストの平和が私たちの心のすみずみにまで行き渡りますように」(テゼの祈り、聖公会聖歌562)
[PR]
by aslan-simba | 2010-03-04 17:38 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31