日日是好日

古代中国の五行説によると、青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)という言い方で四季を表現するという。これは人のライフサイクルも表すのだそうだ。春で始まり、冬で終わる。昔、見た「必殺・・・」の主題歌に「所詮、最後は寒い冬」とあったのを思い出す。 ならば、人生、季節、物事の終わりは暗く冷たい冬なのか?私はそうは思わない。ただ、生きる途上、人は厳しく辛い事柄にも出合うこともある。大切なのは、それをどう突破して行くかではないだろうか。春浅い日々、受難に思いを馳せるレントの意味も、そこにあると思う。つまり、先の見えないような苦難の日々の経験は、間近に迫っている「復活の春」を迎えるための大切なステップなのである。だから、凍てつくような人生の「冬」も感謝をもって過ごしたい。 「日日是好日」(にちにちこれこうにち)、唐の時代の雲門禅師が示した悟りの境地である。どのような問題が我が身に生じようとも、動ぜずに、今日のこの日を大切な日として受け止める生き方が示されている。「まず神の国と神の義を求めなさい・・・明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:33-34参照)という主の御言葉と重なり合って響くのである。 ある詩人はこう詠う。「ふっても てっても 日日是好日 泣いてもわらっても きょうが 一番いい日 わたしの一生の中の 大事な一日だから」(相田みつを)。 もうすぐ三月、日増しに明るくなる日差し、草木のつぼみもふくらみはじめている。今朝耳にした鳥の音は、ウグイスのさえずりだろうか。しばらくすれば、緑豊かな季節がめぐって来る。最初も、そして最後も、いや今も「復活の春」に向かっている。どこまでも希望を捨てずに、笑顔を忘れずに歩み続けようではないか。季節に人生に、一切に春の兆しを数えながら・・・。今日も、十字架と復活の主に在って「好日」!感謝にたえない。合掌


☆2月28日の説教要約:
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに」(詩編130:7)。
この「主を待ち望め」・・・原意は「主に向かって希望を抱け」ということです(口語訳参照)。「希望を抱く」、私たちは不安なとき、行き詰まったときには「本物の希望」を必要とします。ならば、その本物の希望はどこにあるのでしょうか。それは、私たちのもとに既にある。確かにここに来ているのです。「本物の希望」・・・主イエス・キリストご自身です。主が共に在るのです。このことに、どうか気づいてください。そして、その主と共に、たとえ一ミリでもよい、光の方向に前を向いて一歩を歩み出しましょう。困難は必ずや突破できるのです。
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by aslan-simba | 2010-02-25 18:07 | Comments(0)

庭上一寒梅

三寒四温の候、少しずつ夜明けが早くなってきた。白い息を吐きながら、今朝も歩く。道を急ぎながら、あたりを見渡し、梅の花がほころぶ様子に気づき足をとめる。迫りくる春の輝きを憶えて・・・ 二月、如月(きさらぎ)は、「生更ぎ」とも記し、草木が生き更る月を表すという。その甦りのいのちを最初に宿すのが梅の花。「梅一輪 いちりんほどの あたたかさ」、子供の頃から言い慣れた言葉が口をつく。実はこの句、江戸時代の俳人の作であることを、最近になって知った。 また以前、同志社の掲示板で、この時期によく見かけた新島襄の漢詩を思い起こした。「庭上一寒梅(ていじょうのいちかんばい) 笑侵風雪開(わろうてふうせつをおかしてひらく) 不争又不力(あらそわずまたつとめず) 自占百花魁(おのずからしむひゃっかのさきがけ)」。この「寒梅の詩」は、晩年の新島が最後の時を間近に、療養先の大磯で詠んだものである。「庭先に見る一本の早咲きの梅、風雪にめげることなく、微笑みをたたえて花開く。誰かと競い争ったのではない、力んで無理をするのでもない、自然なさまで、あらゆる花々の先駆けとなっている」。新島襄の人生の歩みと、この一寒梅の姿が重なる。信仰者としての彼のありように思いを馳せ、思わず手を合わせた。 そして、早春の光に応えて、寒さの中に開花するその花に自分の人生の歩みを照らし、省みる。さらに教会のありようも思う。願わくは、主の御光の下、自然なたたずまいをもって、謙遜に花開きたく願う。キリストの優しい香りを漂わせ、復活の季節を示す先駆けとして・・・


☆2月21日の説教要約:
「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペトロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。」(マタイによる福音書16:15―16口語訳)。
「人間とは問う存在である」と言われます。確かに人生のさまざまな問題や悩みの中で、人は迷いを抱き、自らにあるいは他者に問うことがあります。同時に人間は、問いかけられている存在でもあります。今日の聖書の箇所は、そのことを私たちに告げます。ならば、誰から問われているのでしょうか。それは神からです・・・キリストを通して神さまが問うているのです。その問いに答えることが出来さえすれば、私たちは人生のあらゆる問題を克服して、確かに生きることができるはずです。
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by aslan-simba | 2010-02-18 09:05 | Comments(0)

There is a way.

レント(受難節)入りの頃、クライマックスを迎える受験シーズン、今年も今が盛りだ。受験生自身のみならず、その家族も気が気ではないこの時期、まさに受難節に相応しいというべきか。 先日、近所のコンビニに受験コーナがつくられ、「キットカット」(「きっと勝つぞ」のもじりだろう)、「ウカール」(「カール」のシーズン限定版)といった「願掛け御菓子」が平積みされているのに気づいた。結構、売れるのだろうか。面白くも、切実な願いに身をつまされた。そういえば、私も高校受験の試験日、母に頼んで「カツサンド」を作ってもらったことを思い出す。あの日、東京では雪が降っていた。昼休みにそのカツサンドを食べた後、志望校の校庭で友達と雪合戦をした。午後にも試験が残っていたのだが、余裕と言おうか、のんきというべきか・・・。それでも問題なかった。あの頃は、意外にも試験好きだった。もっとも、大学受験の時は大変だった。心底希望した大学に落ちるという、ほろ苦い経験もさせられた。ただ時が過ぎれば、すべてが懐かしい。 今、受験のみならず、目標目指して頑張っている若者たちには、こんな格言を心に刻んでほしい。 ”Where there is a will, there is a way.”(意志あるところ、道あり)。「志す願いさえあれば、必ず道は拓ける」のである。また、同じ言葉を、一筋の道をここまで歩んで来た人生の先輩たちにも味わって頂きたい。さらに、御国への道が目前に大きく開かれることを信じ、歩み続けようではないか。主は言われる。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」(マルコ9:24)と。


☆2月14日の説教要約:
「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。・・・命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23:4、7)。
この詩人の「主」に対する認識は素朴なものです。しかし、そこにきわめて深いものがあります。また強いものもある。それは熱い祈りと、それを支える生涯変わることのない信仰なのです。私たちも、この詩人の心を自らの心としましょう。主が共におられて、「恵みと慈しみ」の内を歩むのです。だからこの先、恐れることはありません。感謝
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by aslan-simba | 2010-02-12 17:44 | Comments(0)

熊本バンドの地を訪ねて

熊本バンドの足跡を辿ろうと、熊本市を訪れた。熊本バンドとは、草創期の同志社を築いた熊本洋学校出身の明治の若者たちのことである。1876年1月30日、彼らは熊本市郊外の花岡山の頂上で奉教の誓いをたて、プロテスタント・キリスト教を精神的支柱にした国家形成を願った。その134年後の2010年1月30日、夜明け前の花岡山を、私は一人登った。熊本バンド結盟を記念し、熊本YMCA、同志社校友会、地元の教会などによって例年催されている同日の「早天祈祷会」に参加するためだった。 実は前日の29日の午後にも、下見でこの山を歩いている。標高133メートル。旅行前に見たウェブサイトには、「特に夜景がおすすめで、若いカップルに人気です」(熊本市ホームページ)とあったので、散策コースをイメージしていたが、歩いている人はおらず、案内標識もあまりなかった。また、霊園や墓地の多い山である。真新しい墓の林立する場所もあれば、中には旧陸軍墓地やキリシタン殉教者の墓標もあった。多少、道に迷いながらも、ともあれ頂上までの道順の確認はできた。 30日、早天祈祷会を目指す老若男女が、ぞろぞろと登って行くものと思っていたのだが、漆黒の中を歩いているのは私一人だった。それでも前日に登っていたので不安はなく、不思議なほど平安な思いだった。時折、横道の石段なども利用しながら上へ向かう。眼下に見える熊本の町のネオンの点描は美しい。また暗がりの中で目にうつる墓地は、より深く生を意識させてくれる。眠っている先人たちに敬意を表しながらも、足元に気をつけて先を急ぐ。 頂上にはモスクのような形をした妙法寺の仏舎利塔が鎮座する。戦後に建てられたもので、現在、花岡山のシンボルになっているという。目ざす「奉教の碑」は、その裏にこじんまりと存在する。前日とは異なり、付近に多くの車やマイクロバス、タクシーがとまっていた。 早天祈祷会は、ちょうど始まったところだった。同志社の原先生の奨励や、地元の高校生の聖書や奉教趣意書の朗読、祈りを聴きながら、ふと私の傍らに誰かの気配を感じ、熱い思いが込みあげてきた。その誰かがこの山上まで私を励ましながら一緒に、いや人生のここまでを共に歩いてくれていたような気がした。それはキリストかも知れない。でも誰かとは、イエス様一人ではなく何人かいたような・・・また犬も一匹いたように思えてならなかった。私の一方的な思い込みなのか? 気づけば、空は明け染めてきていた・・・。

☆1月29日(金)大阪/伊丹発の朝一番の飛行機で熊本へ向かい、30日(土)午後の飛行機で戻るという短いフィールド・トリップでした。熊本では食事もそこそこに、市電やバスもフルに活用し、上述の花岡山のみならず、あちこちを訪ね歩きました。なかでも「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は圧巻でした。館長自らが私一人に対し、熊本洋学校やキャプテン・ジェーンズのことを懇切丁寧にご教示くださいました(その後も「ジェーンズ館便り」を送って頂いています)。感謝。 本当に充実した二日間、熊本バンドのみならず、熊本の町も好きになりました。
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by aslan-simba | 2010-02-06 08:42 | Comments(0)

立春大吉をわが身に

立春が過ぎ、暦の上では春が到来。黄色い蝋梅の香りが心地よい。梅のつぼみがほころび始めるのも、もうすぐだろう。ただ、相変わらずの寒さは続いている。ふと「早春賦」が口をつく。「春は名のみの風の寒さや・・・」。 この時期、時折、目にする言葉がある。「立春大吉」・・・左右対称で裏から見ても同じ文字。これは新たな春から始まる一年が、災難に合わないように願う厄除けのまじないという。そこに我が内も外も大吉でありますように、表裏のない素直な心をもって新たな年を過ごせますように・・・といった祈りが込められているのだろう。言葉の出所は、道元禅師が宋で目にした貼り紙が発端のようだ。興味深い。 さて、私たちにとって名実ともに本格的な春を実感させるイースター(復活祭)は、まだ二カ月も先である。それは厳しいレント(受難節、四旬節)の時が過ぎてはじめて巡ってくる。今年は2月17日(灰の水曜日)から始まるが、主の十字架のご受難を心に深く刻むとき、本当に胸が熱くなってくる。まことに勿体なく、ただただ有難い・・・これ以上の言葉は語れない。その十字架と復活の救いの主は共にあり、文字通り「立春大吉」をこの身に実現して下さるのである。 冬が過ぎれば、必ず春が来る。迫りつつある春の気配を本気で喜ぼうではないか。光は益々、明るさを増して行く。詩編の詩人に合わせ、私たちも心からの感謝を告白したい。「あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 光の中に神の御前を歩かせてくださいます」(詩編56:14)と。じきに「春一番」が、私たちの上に新たな聖霊の息吹を注いでくれるはずである。


☆2月7日の説教要約:
「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(ヨハネの手紙一1:3-4)。
今の時代は本当の意味で、「いのちの家」が必要とされています。それは「いのち」、「交わり」、「喜び」が真摯に求められているということなのです。幸いなことに私たちは、この時代の中で、キリストに在って生きることを赦され、桃山栄光教会という具体的な「いのちの家」を知っています。ありがたいことです。ですからこの礼拝から出発し、もっと喜び、もっと願い、もっと前向きに私たちは生きるよう招かれているのです。感謝
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by aslan-simba | 2010-02-05 17:40 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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