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天へ帰ったアスラン

「雄山羊は彼らすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(レビ記16:22)。旧約の民は年に一度、大贖罪日(ヨム・キップル)を憶えた。この日、二匹の雄山羊が備えられ、大祭司はそのうちの一匹に手を置きイスラエルの国民の一切の罪を負わせ荒れ野に追いやった・・・動物には人の罪や悲しみを担う働きがあるのだろうか。 何年か前、授業でこの話をしたとき、これに応答し、ある学生が幼児の頃の「不思議な体験」の思い出をレポートしてくれた。「自分が原因不明の眼病になり医者からも匙を投げられたとき、飼っていた犬が急に目を真っ赤に腫らし数日後に死んだ。その直後に自分の目が治った。犬が身代わりになってくれたと実感した」といった内容。最後に「私にとってこの犬はキリストだったと思います」と書かれていた。このレポートを思い出す。 先週の木曜日、我が家の犬の一匹が死んだ。二匹のうちで、元気で愛想のよい方だった。七歳。それにしても早かった。病気を発見して一ヶ月足らず。彼は私たちに対する気遣いを最後まで忘れず、静かにひとりで息を引き取った。名はアスラン、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』に登場するキリストの化身であるライオンの名にちなんで名づけた。この犬のアスランも「我が家のキリスト」として、私たちの罪や悲しみ、病を担ってくれたのだろうか。ともあれ、ペットが死ぬことがこれほど辛いとは思わなかった。 その三日後の土曜日、所用で出かけた京都市内で大きな「虹」を見た。今更、「約束の虹」もないだろうと思う矢先、その虹の上にアスランの姿をした雲がかかっていることに気づいた。そうだ!荒れ野ではなく天へと、我が家のキリストは今、本物のキリストと共に在るのだ・・・


☆11月29日の説教要約:
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出てゆくように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのである」(ヘブライ人への手紙11:8)
「信仰によりて・・・その行く先を知らずして、出で行けり」、信仰とは、神の命ぜられた道を歩み出すことです。それは「冒険」的なものと言えるかもしれません。しかし、ひたすら神を信頼して歩む・・・生ける神さまは、ご自身のご計画=摂理をもって、私たちに最善の導きをして下さいます。奇跡も起こります。今、ここにまた、新たな信仰の一歩を共々に歩み出しましょう。大いなる希望を抱いて。
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by aslan-simba | 2009-11-27 09:02 | Comments(0)

イベント案内

当教会を会場に、伊澤隆志さん(フルート)の「クリスマスリサイタル」が12月6日午後7時~開催されます。入場無料。共演者は澤朱里さん。いとうようこさんのポストカード展も併催されます。若林牧師のショートメッセージもあるらしい・・・。 楽しいひとときとなると思います。是非、お越しくださいますように。
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by aslan-simba | 2009-11-26 11:42 | Comments(0)

あたりまえ

さまざまな事柄に出会い、明日への多少の不安を抱えながらも、ここに命を与えられ、日々を過ごすことが許されている。家族や周囲の人たちも変わりなく、今日を過ごすことができた。ともすれば、それを当然のことと私たちは捉えているかもしれない。しかし、それは決して当たり前ではない。心から感謝すべき、奇跡的なことなのである。一つの詩を思い起こす。 「こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう。 あたりまえであることを。お父さんがいる。お母さんがいる。 手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ自分で歩いて行ける。手を伸ばせばなんでもとれる。音が聞こえて声がでる。 こんなしあわせはあるでしょうか。 しかし、だれもそれをよろこばない。あたりまえだ、と笑ってすます。 食事が食べられる。夜になると、ちゃんと眠れ、そして、また朝がくる。空気を胸いっぱいにすえる。 笑える、なける、叫ぶことができる。走り回れる、みんなあたりまえのこと。 こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。 そのありがたさを知っているのは、それをなくした人たちだけ。 なぜでしょう。あたりまえ」(井村和清『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』より)。自分の命の限界を知らされた32歳の医師が、妻、幼い娘、そして妻の胎に宿る子供あてに残した詩だ。彼は自らが病を得て、苦しみの分かる医師として力尽きる日まで医療現場に立ち続けた。三十数年前の実話である。 晩秋のくれないの夕陽をあびながら、今ここに神さまから大切な命を頂いている幸せを憶える。ただ、それを当たり前として、心からの感謝を忘れがちな自分の鈍感さ・・・今、ひたすら祈る。神さま、憐れみを感謝します。ありがとうございます・・・


☆11月22日の説教要約:
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そしてイエスの足もとにひれ伏して感謝した」(ルカによる福音書17:15-16a)
私たちが普段、日常生活を営んでゆけるのは、主の憐れみを受けているからこそなのです。それを知るがゆえに、今朝もこうして主イエスのもとへと戻ってまいりました。声は出さずとも、心の底で神を精一杯に賛美しながら桃山栄光教会に集うて来たのです。私たちも魂の深みにおいて、今、「主イエスの足もとにひれ伏し」、心からの「感謝」をしています。信仰の感謝は、そのように主イエスのもとに立ち戻ることから始まるのです。そして、そこから新たな力を頂ける・・・主イエスを我が人生の中心に据え、この一週間も真摯に祈りつつ歩んでまいりましょう。
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by aslan-simba | 2009-11-19 08:58 | Comments(0)

晩秋の月

いつも通り、犬たちを連れて家を出る。夜明け前の街は、未だ眠っている。街灯の明かりも昨夜と同じやわらかい灯りを放ち続けている。遠くから列車の音が聞こえてくる。なぜか遠い昔の日々が自分に語りかけてくるように響く。 目を挙げてみる。見上げる空には煌々と照り輝く月が鎮座している。その月の光に下に、その輝きに包まれて、自分がここに立たせて頂いていることを覚える。美しい月・・・真夜中と錯覚しそうだ。ふと、古い記憶にある尾崎方哉(おざきほうさい)という人の句が口をついた。「こんなよい月をひとり見ている」・・・彼は、地位も名誉も職業も財産も、そして妻も家族もその一切を捨てた。たえず死を願いつつ、お寺を転々としながら寺男となり、好んで徹底した孤独の境遇に身をおいた。彼の晩年の句が、今の自分の口の端にのぼるのは何か滑稽な思いもする。しかし、弧高な彼のたたずまいを月の光が十分に癒したことだけは分かる。 李白の句をそらんじてみた。「牀前(しょうぜん)月光を看る 疑うらくは是れ地上の霜かと 頭(こうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(たれ)て故郷を思う」と。犬に合わせて、歩きつつ、立ち止まり、また歩きながら黙想を重ねる晩秋の早朝、その散歩道にほのかに白みがさしてきたことを感じた。我へと返り、道を戻る。 家に着いてから、念のため方哉の句を確認してみた。正確には「こんなよい月をひとりで見て寝る」だった。あらためて思う。幸いなことに私は一人ではない。現に今朝の月は、犬たちと見た。また「寝る」のではなく、そこから「立ち上がる」のである。しかも主イエスと共に。空はすっかり明け染めた。祈りつつ「今日も頑張ろう」と心に誓う。


☆11月15日の説教要約:
「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネによる福音書16:33)
「勇気を出す」とは、主イエス・キリストの勝利に与ること、主の内に神さまを仰いで、主を徹底的に信頼し、立ち上がって行くことだと思います。しかし、それだけではありません。はじめて聖書をドイツ語に翻訳したマルティン・ルターは、この「勇気を出しなさい」という言葉を「慰められていなさい」と訳しました。つまり、ルターによれば、「勇気」とは、「主に慰められて生きること」をも意味するのです。キリストに在って恐れず安心して、平安のうちに一歩を踏み出しましょう。私たちは、そこに主の豊かな慰めがあることも忘れてはなりません。
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by aslan-simba | 2009-11-12 20:28 | Comments(0)

眼施

「目は口ほどに物を言う」、この言葉を知ったのは、東京のはずれの町にあった小さな我が家に、初めてテレビが来た日のことだった。胸をときめかせながら家族でテレビの前に・・・どんな番組を見たかの記憶はないが、目薬のコマーシャルを見たことだけは覚えている。着物を着た男性歌手が太鼓を叩きながら、河内音頭(のようなリズム)に乗せて、「コンドロイチン配合」の「スーパーサンテ」(商品名)と唄っていた。「目は口ほどに物を言う」というフレーズを強調しながら。印象深く受け止めたその言葉の意味を母は、「人は自分の心のなかで思っていることが、ちゃんと目に表れるから、よいことを思いましょう」と話してくれた。 あれから五十年、人の色々な目に接してきた。嬉しい目、楽しい目に出合い、共々に喜んだことも多い。悲しい目に胸を痛めたこともある。また、軽蔑する目、非難する目、嫉む目にも幾度かさらされた。おそらく自分自身も、同様なさまざまな眼差しを他者に向けてきたのだろう。 仏教の布施のひとつに「眼施」(がんせ)がある。「愛情のこもった眼差し」をもって人に向かう教えである。また、観音様の眼差しを「慈眼視衆生」(じげんししゅじょう)という。慈悲の思いをもって生きとし生けるものを見つめてくださる目ということだ。それは間違いなく主イエス・キリストの目でもある。「やさしい目が、きよらかな目が、今日もわたしを 見ていてくださる。『まっすぐに、歩きなさい』と見ていてくださる」(讃美歌21 470)。それは私たちを知り、私たちをどこまでも赦す自愛の眼差しでもある。主のこの視線に委ねて、私たち自身も眼施に生きよう。それこそが伝道の基本ではないだろうか。「目は口ほどに物を言う」のだから。


11月8日の説教要約:
<説教要約>                               
「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(ローマの信徒への手紙10:1‐3)
パウロは、ファリサイ派の熱心さは「正しい認識に基づくものではない」と述べます。信仰生活が「熱心」でさえあれば、それでよいというのではありません。熱心さが陥る危険性も、そこにあるというのです。端的にいえば自己中心的なあり方の問題です。「正しい熱心さ」とは、キリストに現された「神の義」と「愛」に基づいて生きるところにこそ確かとされるのです。
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by aslan-simba | 2009-11-07 09:37 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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