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死の月へ

待降節から新たなサイクルの始まる教会暦では、11月が一年最後の月となる。古来、ヨーロッパのカトリック教会では、この月全体を「死者の月」と捉え、1日「諸聖人の日」、2日「死者の日」と定めてきた。プロテスタント教会も11月の第一主日を「聖徒の日」として憶える。教理上の相違はあるものの、いずれも召された先達たちを追悼すると共に、自らの死についても思いを馳せる時という意味をもつ。 この「死を見つめる月」の感覚は、日本人の感性からも理解できそうだ。この時期、見上げる夕空は、思わずたたずんでしまうほど美しい。紅色に輝く光の彼方に、西方極楽浄土を思い描ける。また、紅葉(こうよう)する山の木々の下に自らを置くとき、すべてを忘れ、自然の中へと自分が溶け込んで行くような思いとなる。そういえば、数年前、ある知人がこの季節を愛でながらに自死を遂げた。最近も、私とほぼ同世代の著名人が亡くなっている。そういった意味では「死を誘う季節」なのかもしれない。 ただし、聖書は死を安易に美化、肯定してはいない。死は人間の抱える罪に対する罰とされ、十字架の贖いが語られるのである。道元のこんな言葉も思い出した。「いたずらに生を愛するなかれ、みだりに死を恐怖するなかれ、すでに仏性の所在なり」。死を見つめつつも、死に呑み込まれることなく、また恐れることなく、主に在って今生(こんじょう)を確かに生きる。また亡くなった方々と、自分との繋がりを大切に思い起こす。そのような祈りの月としたい。


☆11月1日の説教:
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケの信徒への手紙一4:13‐14)
キリストは今を生きる私たちの主であると共に、亡くなった者たちの主でもあります。御言葉は、私たちと天上の人々との再会を約束しています。どこまでも信じて行きましょう。「最もよきことは、神、我らと共にあることだ」(J.ウェスレー最後の言葉)。
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by aslan-simba | 2009-10-30 20:23 | Comments(0)

教会バザーのご案内

11月3日(火・祝)に教会バザー「桃山栄光教会ミニフリマ」を開催します。時間は10:30~14:30です。掘り出しものも多いと思います。ネパールの餃子やチャイ(ネパール茶)の無料サービスも予定しています。是非、お越しください。お待ちしております。
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by aslan-simba | 2009-10-27 21:29 | Comments(0)

深まり行く秋に思う

「この道を 行く人なしに 秋の暮れ」、松尾芭蕉の最晩年の句である。季節としての秋と人生の終末とが重なり合い、寂しさが伝わってくる。日ごとに秋の深まりを感じながら過ごすこの時期に相応しい心にしみる名句だ。 思えば、中世ヨーロッパの教会伝統が、11月という月を「死者の月」とした理由は、日本人にも容易に理解されよう。自然を心にとめながら日々を歩む私たちは、春に萌え出でた草木が夏に明るい緑となり、秋の訪れの中で黄金や紅に変じ、枯れてゆくのを知っている。この自然のうつろいが、私たちの人生の境涯とも重なり合うのが分かるのである。 暦の上では、季節が一段と深まる「霜降(そうこう)」を過ぎた。秋は短くも本当に美しい。今年もすぐに本格的な紅葉の時を迎えることになるだろう。この時期へと到る木々の彩りを存分に楽しみたいものだ。犬と共に自宅付近を散策する日課のなかで、私にはそれができる。感謝にたえない。晩秋を求めて遠出をするゆとりはないが、今、ここでそのようにして、輝きの季節の中を生きられる事は御恵みである。 やがて色づいた木々の葉は、幹から離れ、土へと帰ってゆくことになる。そこに<いのち>のサイクルがある。ただ、それが一切の終りではないことを心に留めておきたい。葉を落とした木々は、次世代の新芽を用意しはじめる。新たな<いのちの息吹>が、復活の春を待つのである。人の生も死も、主に在って、それとまったく同様ではないだろうか。


☆10月25日の説教要約:
「・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えなる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピの信徒への手紙3:13‐14)
「前へ」と、心の向きをむける。私たちの人生の歩みにおいて、信仰生活にとって大切なことです。聖書にもこれが教えられています。そうであるにもかかわらず、私たちはしばしばこれを忘れているようです。小さなことにこだわり、過ぎ去ったことに心奪われてしまいます。しかし、恐れることはありません。神さまが招いてくださっているのです。どこまでも前進しましょう。必ず良い結果を頂けます。
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by aslan-simba | 2009-10-23 19:16 | Comments(0)

人生の道

穏やかな日差しの下、金木犀の香りが甘く漂う。柿の実が赤く色づき、見上げる木々の梢が黄色みを帯びている。深まり行く季節の道を歩みながら、ふと人生の歩みについて考えさせられた。 「人生の道」、「人は、目前に置かれている幾つかの道の中から、どれを選ぶかによって、その人生が決定づけられる」、そのように以前は考えていた。しかし、京都へ来てからの自らの歩みを振り返りながら、「そうではない」と思うようになった。むしろ人生の醍醐味は、既成の道ではなく、自らの足で自らの道をつくって行くことではないだろうか。「踏み出せば、その一歩が道となり、その一足が道となる。迷わず往けよ。往けば、わかる」(一休宗純の言葉)。至言である。まさに「意志あるところに、道は開ける(Where there is a will,there is a way)」のであり、突破できるのである。 そういえば、魯迅の小説の最後に、このように書かれていた。「私は思う。希望というものは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。それはちょうど地上の路のようなものだ。実際地上にはもともと路はなかったのであり、歩む人が多くなれば、自ずと路になるものなのである」(『故郷』)。 神さまの導きの下に、懸命に歩むとき、必ずそこに希望が形をもって現れ、道が開かれてくるはずだ。これを信じて祈る・・・この私自身の歩みが、後から踏みならされ、確かなものとなりますように。また、「真理であり、命である」主イエス・キリストの道へと確実に繋がりますように。


☆10月18日の説教要約:
「イエスはそこを立ち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がって主に従った」(マタイによる福音書9:9)
今朝、私たちもマタイと同じように、主の御言葉を聞いております。「わたしに従いなさい」、「我に従え」という召命の御言葉を・・・。主はこの礼拝で、この御言葉を通して、私たちをも召されます。マタイは、この召しに従って、「立ち上がってイエスに従いました」。そこに神の奇跡が起こったのです。私たちも新たな思いをもって、ここに立ち上がり、主を信頼し、どこまでも主に従って行こうではありませんか。
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by aslan-simba | 2009-10-17 07:59 | Comments(0)

人生の心柱

先週は勢力の強い台風が日本列島を駆け巡った。西日本を通過する夜、不安の中、床についたが、なかなか寝付けなかった。 うなりを立てる風、激しく屋根を打ちつける雨脚。さえきった頭の中を、高校時代に読んだ幸田露伴の『五重塔』の物語が甦った。抜群の技量を持ちながらも、世間からは認めらない一介の大工が、様々な困難や妨害を克服し、自らの手で江戸・谷中の五重塔を完成させる話だが、その小説の結末部分のゆえだろうか。 やっとこぎつけた五重塔落成の前夜、江戸の町は大きな暴風雨に襲われる。万が一にでもこの五重塔が倒れるなら、自分も命を共にすると、主人公の大工は塔に上る。一夜が明け、至る所に被害が出た江戸の町、ただその五重塔だけは全くの無傷で立っていた。 以前、幸田文は自分の父親のこの作品に言及し、「五重塔は火急の折、その心柱(しんばしら)があたかも仏様が手を合わせて体を揺するように動き、塔を守る」ことを述べていた。「心柱が揺れを吸収するので、五重塔は決して倒壊しない」とある建築家が記していた事も思い出す。 翻って、私たち自身にも、内なる心柱がある事を思う。事実、これまでも、その心柱が私たちのために祈り、働き、私たちの動揺を取り去って来た。「だから、これからも私たちは絶対に倒れない!」と、あらためて思い至り、眠りについた。 人生の嵐、時代の荒波は、今後も激しさをもって私たちを襲うかもしれない。しかし恐れる必要はない。キリストという心柱を与えられている。「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジプト13章)として真柱(=心柱)キリストは、私たちを導いてくださっている。感謝。


☆10月11日の説教要約:
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリント信徒への手紙一13:4-7)
ここには、「愛」が抽象的に記されているのではなく、まさに具体的に、しかも一人の人間のように描かれています。この「愛」という言葉を「イエス・キリスト」と置き換えてみましょう。この手紙を記した使徒パウロが、私たちに伝える真意が分かります。私たちを救うために、限りなき愛をもって十字架に付かれた主イエスが、この御言葉の内に立ち、私たちに限りなきご自身の愛を注いでくださっているのです。この事実に気づくとき、私たちは愛に生きられます。
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by aslan-simba | 2009-10-10 07:21 | Comments(0)

秋は月

優しい陽射しと心地よい涼風が吹き抜けて行く十月。お彼岸も過ぎ、しのぎやすい日々が続く。晩秋の秋冷を迎えるまでには、なおしばしの時間があるが、夜は長くなってきた。空気が澄むこの季節、見上げる月の姿もことさら美しい。まさに「秋は月」。 ものの本によると、西洋では月を望む(moon-viewing)習慣はなく、逆に月のイメージはあまりよくないそうだ。ラテン語で月を表わすルナ(luna)という言葉から、英語のlunatic(狂人)という表現が生れたように。 一方、東洋では古くから月が愛されてきた。あの遊興詩人・李白の捉月台(そくげつだい)伝説をご存知だろうか。ある月の美しい夜、李白は正装をして舟に乗る。舟上で取り巻きと月を愛でながら酒に興じた。その度が過ぎたのか?・・・水面に映る月を捉えようとして李白は舟から落ち、帰らぬ人となった。西洋の視点に従えば、文字どおりlunaticかもしれない。しかし終生、酒と月とを愛した彼の最後に実に相応しい話ではないか。 我が国にも古来、月を拝する信仰があった。それは決してそういった酔狂の世界ではなかったようだ。もっと素朴に、月の光に宿る神霊を拝したのである。我々の先祖は月、わけても満月の姿に豊穣を望んだのである。ふと、月に正義が強調された物語に夢中になった幼少期を思い出した。セーラームーンではない。月光仮面だ。 また、思い出は家族でお月見をした小学生の頃にまで繋がって行く。縁側に母がお供えをしつらえ、父が早く帰宅し、小さな庭から家族で仲秋の名月を見上げた日のことを。あれからいくつの十五夜をみただろうか・・・人の心を映す「鏡のような月」を。


☆10月4日の説教要約:
「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」(詩編121:5)
私たちは自らの人生の旅路を、自分の足で歩んで行かねばなりません。そこには多くの苦難や問題、さらには危険が待ち受けています。そこはかとない不安や恐れが、付きまといます。しかし、「主が共にいてくださる」、主イエス・キリストが「同行二人(どうぎょうににん)」で、その道を歩んでくださるのです。そのことをしっかりと覚え、雄々しく行きましょう。祈りつつ・・・
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by aslan-simba | 2009-10-02 16:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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