朝夕はめっきりと過ごしやすくなった。日中の陽射しも優しい。さわやかな九月の日々・・・ただ、どこかに夏の疲れが癒されずに残っているような気がする。もはや疲れを知らない若者ではない。真っ赤な彼岸花を見つめながら、自分自身が人生の初秋にあることを納得した。無理のしすぎは禁物。 このシルバーウィークの日々は、つとめてリラックスすることに心がけてみた。朝の散歩は、犬に引かれてゆっくり歩む。日中のデスクワークに疲れた後は、のんびりと音楽に耳を傾ける、といったように・・・。そこにあった思った以上の癒しと喜び・・・それは涼風を全身で受けながら犬と共に歩く爽快感、野に咲く秋の花を愛でつつ、その名を知る面白さ、そして耳にする初秋の歌が、英語であれ日本語であれ、心に染み渡ってくる心地よさだった。今もラジオから懐かしいブラザーズ・フォーのフォークソングが流れている。「思い出してごらん。ゆったりと時が流れ、穏やかだったあの九月の日々を・・・」(Try to remember the kind of Sepember when life was slow and oh, so mellow)。その九月も、あと一週間ほどで終ろうとしている。そして迎える十月、何か良いことが起こりそうな予感がしている。 窓辺に漂う季節の香りは金木犀。黄金の花々が咲き初めた。やがて街中に、この花の甘い香りが広がって行くだろう。秋の色の深まりと共に・・・新たな月、充実した稔り豊かな日々が私たちを待っている。また、ここから、少し頑張って、自分のペースで走り出してみようと思う。主の御守りに心からの感謝を捧げながら。


☆9月27日の説教
「・・・生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた」(土師記2:7)
長く生きて来た人は、人生が自分の思いのままに行くものではないことを、身をもって熟知していると思います。またこの世の歴史が、いかに苦難と試練に満ちたものかを自ら経験しているはずです。そのような私たちの人生、この世界の歩み、それでもなお、そこに神さまのご計画と御恵みが働いている・・・信仰生活の先達は、このことに気づいています。そして、それを次の世代へ教え、伝えることが「長老の信仰」だったのです。
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by aslan-simba | 2009-09-25 10:35 | Comments(0)

天へと至る「成長」

『モーリー先生と火曜日』という、死の床にある年老いた先生と、かつての教え子の対話を描いた本がある。その中にモーリー先生のこんな言葉が記されていた。「老いを受け容れるとき、老化は・・・老いは単なる衰弱じゃないんだ。成長なんだよ」と。興味深い。それは、大きくなるにつれて身につけてきた、さまざまな自分の「力」が次々に剥がれ、内にある本物の自分が現れ出るような「成長」ではないだろうか。 神さまは今ここで、自分らしいその「老いの成長」に気づくような生き方へと、私たちを招かれているのである。それを受け容れるとき、命は輝き、魂は光を放つ。よしんば体は衰え、病に冒されていても何の問題もない。その招きに従って生きる高齢者には、本物の魅力がある。若者には持ち得ない人間的な豊かさがある。過去を受け容れ、今を受け容れ、やすらかな来世への希望に生きるとき、天の御国の美しささえも、そこに垣間見えるのである。老いは決して捨てたものではない。否、素晴らしい。これから迎える季節の紅や黄金色の葉の輝きのように・・・。 先月、神学部で御世話になった先生が亡くなられた。ここ一年ほど、入院先を幾度となくお訪ねすることができた。もはや言葉を交わすことは困難な状態だったが、病床でなした祈りには、いつも心を合わせてくださっている実感があった。その時の先生の老いた眼差しには、学校では聴けなかった先生の熱い思いが示されていた。彼方に「天国」があるという確かな希望が・・・ ある晩、夢の中に元気な頃の先生が、光に包まれて現れた。その翌日に先生が天へ召されたことを、後で知った。


☆9月20日の説教要約:
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブの手紙1:2)
人生、様々な問題に見舞われます。その試練の生活の只中にあるとき、思い出して欲しいことがあります。それは、あなたが孤独で、一人ぼっちでその人生を歩んでいるのではないということです。共に主イエスが居られる・・・あなたのために、私たち皆のために、十字架というこの上もない試練に自らを投げ入れ、私たちを贖い出してくださった方が、あなた自身の「人生の舟」に、共に乗り込んで下さっているのです。だから、どんなに厳しい試練の波風が湧きあがろうとも、嵐が吹き荒れようとも、心配はいりません。主が必ずや鎮めて下さいます。この人生の舟・・・安んじて、平静な思いで漕ぎ進みましょう。良き方向へと導かれることを確信して。
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by aslan-simba | 2009-09-17 08:27 | Comments(0)

長くなった夜、見上げる天上の星々も、新たな季節の到来を告げている。ゆっくりと本も読みやすくなった。気づかぬうちに眠り込むこともある・・・ 迎える朝、ひんやりとした大気の中を犬たちと共に歩く。少しずつ白みを帯びてくる街の姿。街路樹の葉をわずかに散らし、頬をなでて行く朝の風。何とも気持ちが良い。うっそうと茂った御陵の道は一歩一歩を祈りにかえる。この道を抜け出ると、生れたばかりの太陽に照らされた、優しい季節の空に出合う。爽やかな今日の一日が、ここから始まる・・・ 無我夢中のなか、仕事が一段落。時間は五時近い。犬たちにもせかされて、急ぎ夕刻の散歩へと向かう。淡紅色の秋海堂(しゅうかいどう)の花は今が見ごろ。風に揺れるススキの存在にも気づかされる。また夕暮れの紅い雲が、ことさら美しく感じられるようになった。つい先日まで、晩夏を惜しむように聞こえていたツクツクホウシの声は、いつしか小さくなった。かわりに、夜のとばりがおりると、虫たちの美しい音色が大きく響き渡るようになっている。本当に秋が来た・・・ 身の回りの小さな自然を愛でながら、季節の移り変わりを、神さまが造られた自然の不思議さを、今さらながら覚える今日この頃・・・明日は昼間にも、歩いてみたいものだ。どこまでも高く澄み渡る青い空の下、心を高く上げて。今あるさまざま問題の一つ一つが新たな希望の原動力となることを、心底、信じ、祈りながら・・・。


☆9月13日 崔弘徳牧師の説教の要約です。
キリスト者は開放性の存在です。時間的な次元でのみ申し上げますと、永遠の未来や歴史の未来へと開かれた目を持っている存在との意味です。言い換えますと、希望を持っている存在ということです。キリスト者にとっての希望は、あくまでも復活されたキリストを信じる信仰の中で、「私たちの内で…御心のままに望ませる」(フィリピ2:13)神様から頂く一種のプレゼントです。ですからキリスト者は、まるで<死>のような絶望的な状況にあっても、上からの希望の中で忍耐をもってその状況を乗り越えていきます。私たちに希望や夢をお与え下さる神様は、また聖霊を通してそれらを実現させ得る忍耐や能力や良き道などをもお与え下さいます。
*崔先生から送られた当日の説教の要約です。きっと力を頂けると思います。もしお時間が許せば、是非、桃山栄光教会にお越しください。

*9月13日の礼拝を終えて・・・
崔先生が本当に感動深い説教をしてくださいました。教会に集った皆さんの等しい感想です。ネパールからの若者たちも共に礼拝を守れました。また新しい人も来られました。感謝。牧師も当日は、京大で開かれた宗教学会で、キリスト教組織神学(および宗教哲学)の研究者としてヨーロッパ・キリスト教の「信」を分析し、頑張りました(今一歩だったかな・・・)。ともあれ、神さまの導きを覚えます。桃山栄光教会が確かに大いなる御手の内にあることを。ありがたいことです。皆様もどうぞお越しください。主に在って心より歓迎申し上げます。ナマステ(ネパール語の挨拶)合掌。
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by aslan-simba | 2009-09-09 22:18 | Comments(0)

もっと笑顔に

朝、登校する子供たちの声を耳にし、ふと夏休み明けの小学六年生の日を思い出した。その日、9月1日は担任の先生の四十歳の誕生日だった。先生は私たちに、「四十になったら自分の顔に責任をもて」というリンカーンの言葉を話してくれた。その時は意味が分からなかったが、今思えば、「人間として自分に恥じない生き方をしなさい」ということだったのだろう。ちなみにギリシア語で「顔」を示す「プロソーポン」は「人格」をも意味する。 ところで「顔」という表現は、旧約聖書に多く登場する(原語は「パニーム」)。その原語の前置詞も含めると二千例以上にもなる。意味するところは、文字通りの「顔」の他に、「人格」や「精神」・・・具体的には「心の内」や「方向性」あるいは「偏り」などが示される。原語の用法は複数形だ・・・一つの顔が他者や事柄との関わりの中にあって、さまざまに変化することを示しているようで興味深い。 翻って、私たち自身も、社会生活において、色々な顔をしながら日々を過ごしている。そのなかで、悲しい顔、辛い顔、傲慢な顔になりそうな時には、神さまの「御顔を尋ね求め」たい(詩篇27:8参照)。そうすれば神さまは御心を表してくださる。祈りつつ、主の御顔を真摯に仰ぎ見るとき、必ずや平安な思いになれるはずだ。そこから、隣人に「和顔施」(わがんせ、仏教における大事な布施の一つ)も施せる余裕が生れるだろう。神さまの「祝福」「恵み」「愛」の御守りの中に生かされる幸い(民数記6:24-26参照)、尽きない希望の根源がそこにあることに感謝をしたい。そう!主が御顔を私たち一人一人に向けてくださっているのである。だから、もっと元気に、もっと笑顔になろう。


☆9月6日の説教要約:
「主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な(誠実に)道を歩く人に主は与え 良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたに依り頼むひとは いかに幸いなことでしょう」(詩編84:12,13)。
神さまのもとへと向かう巡礼者として、私たちは今を生かされています。この新たな週も、神さまを慕う熱い気持ちに全身を貫かれ、今日という一日を精一杯に生きてまいりましょう。主イエス・キリストと同行二人(どうぎょうににん)で・・・。この一日一日の歩みの積み重ねが、天の御国への道に繋がるのです。その道はしっかりと守られています。
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by aslan-simba | 2009-09-01 21:25 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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