9月13日(日)の特別礼拝

桃山栄光教会9月第二週の礼拝予定(13日午前10時半~12時頃)を申し上げます。

*説教者: 崔 弘徳(チェ・ホンドク)牧師
*説教題: 「希望における忍耐」

崔先生は、牧師の同志社時代の親しい学友です。同じ研究室で学びを共にし、語り合い、時に議論を交わした間柄です。先生は、つい最近まで韓国の神学大学の学長として、牧師職を志願する韓国の神学生の指導をされて来られました。その気鋭の神学者が、桃山栄光教会の礼拝を担当下さいます。是非、お越し下さいますように。深いご経験、豊かな学殖と緻密な聖書研究に基づくお話を通して、必ずや大きな力を頂けるはずです。
(牧師は日本宗教学会の用で、当日の礼拝時は不在ですが、午後1時には教会に戻ります。御相談等のある方は少しお待ち頂ければ幸いです)
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by aslan-simba | 2009-08-29 09:01 | Comments(0)

八月も余すところあと数日、日中は暑さが残るものの、朝夕は本当にしのぎやすくなった。耳にするセミの鳴き声は、いつしかツクツクホウシに変わっている。夜にはコオロギや鈴虫のコーラスが聞こえてくる。今、本格的な秋に足を踏み入れ始めたことを実感する。ふと宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を思い出し、読み返してみた。子供たちが小さかった頃、読み聞かせた話だ。 町はずれの水車小屋に住むゴーシュは、楽団のセロ(チェロ)弾き。秋に近くの町で開かれる音楽会のための練習に励む毎日、しかし下手で要領が悪いため、いつも楽長(指揮者)から叱られていた。疲れきって家に戻り、なお練習する彼のもとに、小さな動物たちが毎夜訪れ、いろいろなことを話しかける。入れ替わり立ち代わりやって来るうっとうしい連中・・・しかし、彼らのおかげでゴーシュの腕前はめきめきと上達したのであった。 私たちの人生の歩みにも似たようなところがあるかもしれない。マイナスとしか思えないものも、実は大きなプラス・・・邪魔、足手まといと思うものが身近にあるからこそ、困難や問題を乗り越えられるのだ。神さまが私たちにお与えくださるのは、厳しい試練の経験を含め、究極的にはすべて良きものなのである(マタイ6:30、テモテ一4:4-5参照)。 それにしても、賢治の作品はこの物語を含め、これからの季節に相応しい。そこには色あでやかな自然の色彩と豊かな音響の世界が広がっている。森の木や風や動物たちと、私たちが自由に語り合うことの出来るなごやかな空間がある。それは、かつて自分自身も経験した、遠い記憶の中の出来事のようにも思える。


8月30日の説教要約:
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6:3)。
私たちが生きるこの「地」、この世界には争いや問題があります。嘆きや悲しみがあります。しかし御言葉はいうのです。神さまの「栄光」が全地を覆うのだ、と。聖なる神さまは、その御旨をこの世に貫徹される御力を持たれています。その栄光の御力が、この地を支え、この世界を満たすのだと言われるのです。 私たちはこの神さまの力に与っています。その力に今日も生かされているのです。それを自覚するとき、私たちは預言者イザヤと共に確かな召命へと導かれるはずです。それは罪を赦され、元気を与えられて、この世の持ち場へと遣わされることなのです。その行く手に如何なる困難があろうとも、主の栄光に覆われます。主に遣わされる人生、そこに恐れはありません。
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by aslan-simba | 2009-08-27 15:23 | Comments(0)

夏の終わりに

百日紅(さるすべり)の花々が美しい。その茂りが日盛りの道に陰を落としている。晩夏、果てて行く季節の日々に、ふと、立原道造の詩を思い起こした。「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかへった午さがりの林道を・・・」(「のちのおもひ」より)。 都会人・立原の心のふるさとは、山の麓の淋しい村・・・信州信濃の寒村だろうか。あるいは憧れをもって心に描き続けたヨーロッパの片田舎かもしれない。いずれにせよ、詩作をなした昭和十年代初めの時代状況は重く厳しかった。その辛い現状を直視しつつも、時流に乗らず、またあらがうこともなく、彼は凛として自らの「夢」を綴り続けた。作品の透明感はそれを見事に表わしている。「こわれそうな」死の予感の中でも、ロマンに満ちた彼の世界は存在する。結核で夭逝する半年前に詠んだこんな詩も好きだ。「夢みたものは ひとつの幸福、ねがったものは ひとつの愛、山なみのあちらにも しづかな村がある、明るい日曜日の 青い空がある  日傘をさした 田舎の娘らが、着かざって 唄をうたってゐる、大きなまるい輪をかいて、田舎の娘らが 踊をどってゐる  告げて うたってゐるのは、 青い翼の一羽の 小鳥、低い枝で うたってゐる  夢みたものは ひとつの愛、ねがったものは ひとつの幸福、それらはすべてここに ある と」(「夢みたものは」)。彼は天上の詩人ではないだろうか・・・。 私たちにも「夢」がある。果てることのない「希望」がある。それは、いつか帰るであろう幸せな天の国の約束である。礼拝で聖書の言葉に耳を傾けるとき、散歩道で木の枝の青い鳥に気づくとき、また夕暮れの空の色に心ときめかすときに、あらためてそれを心に刻みたい。 


☆8月23日の説教要約:
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ信徒への手紙2:20)。
「もはや我、生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」という使徒パウロの思いを、私たちは自覚すべきです。キリストは、ただ私たちの傍らにあって、共におられるというだけではないのです。キリストを憶える私たち一人一人の内に生きる・・・一体となって生きてくださっているというのです(キリストの内住)。ならば、キリストは、私たちの喜びはもちろん、苦痛や悲しみをも私たちの中にあって、共に担ってくださっている。何ともったいないことではないでしょうか・・・このことを祈りをもって本気で受け止める時、私たちの人生の歩みは確実に変わります。
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by aslan-simba | 2009-08-20 14:41 | Comments(0)

遅かった梅雨明け、豪雨、地震、そして台風と立て続けに自然の脅威に見舞われたこの夏。 今、ひぐらしの声が、短かった時の終わりを告げているように聞こえる。朝夕、見上げる空は高い・・・夏に包まれながらも、秋の気配が色濃くしのびよる昨今。もっとも、それも不思議ではないだろう。一週間前は立秋だった・・・。 そのような中、数日前に、「日本の夏の夜」を味わうことができた。その日、道路の交通制限に気づき、宇治川の花火大会を思い起こした。雨が気がかりだったが、夕刻、打ち上げ花火の高鳴る音が聞こえ始めた。妻の提案で、私もゆかたを着用し、下駄を履いて外に出ることにした。隠元橋あたりまで行ったら、花火が良く見えるだろうと向かう。しばらくすると、鼻緒ずれ。何十年ぶりの経験だろうか。多少の痛みをこらえながらも歩くと、橋の少し手前にあるコープに人だかりができていた。花火見物の人たちだ。道路を隔てた店の前面は畑、障害物がないので良く見える。大輪の菊のような花火、光が長い尾を引きながら空から降ってくる花火、光のカーテンを浮かび上がらせる花火・・・轟音と光の絵巻が目の前に繰り広げられる。「たまや、かぎや・・・綺麗な花火を見たら江戸っ子はそう言うんだよ」と笑顔で語る父の声が耳元に響き、かすかな涼風が吹き抜けて行く。自販機で買ったコーラ、子供の頃に飲んだラムネの味がした。一瞬の間に美しく輝き、散ってゆく花火に、昔の夏の思い出さえも輝いたようだ。 そして、花火は終わった。今度は未来に向けて大きく身を乗り出して行こう。爽やかな季節にベクトルを合わせて・・・。


☆8月16日説教要約:
「凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ。主は近し。何事をも思ひ煩ふな。ただ事ごとに祈をなし、願をなし、感謝して汝らの求を神に告げよ」(ピリピ人への書4:5-6、文語訳)。
主はすぐ近くに来ておられます。この主を信仰し、主と共に生き、主のまったき到来を待ち望むことを誰れも妨害できません。私たちは既に、主イエス・キリストの恵み、赦し、その慈愛に包まれて、今を生きているのです。だから、「思い煩う」必要はありません。「主において、常に喜べる」のです。さらに、そこに「神の平和」があります。神の平和(エイレーネ)は聖霊の力、溢れる状態であり、私たちを守り、主にあって生かしめる至福の現実なのです。
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by aslan-simba | 2009-08-14 08:28 | Comments(0)

お盆とクオ・ヴァディス

お盆・・・祖母の初盆の年、母が仏壇の前に花とお菓子を飾り、脇に割り箸で足をつけたキュウリとナスを置いた。それが馬と牛になり、「それに乗って、おばあちゃんが帰ってくる」といわれ、不思議な思いがした。そんな五十年も前の我が家の一こまが、子供の頃に住んでいた街の風景と共に甦る。 ところで、「お盆」の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という言葉は、ウラバンナという梵語から来ているそうだ。その意味は、「逆さづりの苦しみから救う」ということ。釈尊のお弟子さんの母親が、あの世で餓鬼道に堕ち、それを供養と功徳をもって救い出したというお経の逸話が、その背景にあるらしい。私は、文字通りにその「逆さづりの苦しみ」をもって、主イエス・キリストの愛と救いを表わしたキリスト信仰の先達に、思いを馳せる。 時は一世紀、ローマ市内で伝道を行っていた使徒ペトロ、さしせまるキリスト教徒迫害の脅威に、彼はローマを離れる。街道を南下して逃げるペトロの前に、向こうからローマに向けて粛々とキリストが歩いてくる。「主よ、いずこへ(クオ・ヴァディス ドミネ?)」と尋ねるペトロ、キリストは「もしお前が、ローマの人々を見捨てるなら、私がローマに赴き、もう一度、十字架にかかる」と述べる。これを聞き、ペトロは毅然と踵を返し、ローマに引き返す。そして、逆さづりの十字架刑によって殉教したのである。キリストと同じ十字架刑では畏れ多いと述べて・・・。 この時期、先立った家族や先祖、逝去した懐かしい友人、知人はもちろんのこと、今の自分を自分としてあらしめてくれた信仰や人生の諸先輩のことも主に在って憶え、心に刻みたい。


☆8月9日の説教要約:
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す・・・」(出エジプト記3:7-8)。
私たちの苦しみ、痛みを覚え、私たちの捧げる祈りに耳を傾けてくださる方がいます。聖書が啓示する神さまです。神さまは、私たちのもとに降り、私たちを助け、救ってくださるのです・・・アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、旧約聖書の人々はそう言い表しました。主イエス・キリストに現された神さまです。この生きて働かれる神さまは、御言葉を語られます。私たちが、それに聞き従う時、必ずや大きな力を頂けます。
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by aslan-simba | 2009-08-06 08:07 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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