いつまで続くのか、長い梅雨、はりつめた薄暗い雲・・・ただ、このうっとうしい空の下でも道を行けば、けなげに咲く花々が、私たちの心を和ませてくれるのに気づく。むくげ、さるすべり、すいれん、虞美人草・・・この季節も花は豊富だ。なかには一言では言い表せないような、ユニークな形をした花もある。子供の頃に、何かのアニメで見た、「人喰い花」と同じ形をした花、妻が、その名を教えてくれた。「トケイソウ(時計草)」・・・と。言われて見れば、花全体が文字盤で、めしべを時計の針に喩えられるのだろう。「人喰い花」よりも随分小さいし、グロテスクさは感じられない。逆に、どこかユーモラスで、ペーソスをも醸し出している。だから、これは時間を食べるギリシア神話の怪物クロノスでは決してない。もしかしたら、過去・現在・未来へと流れる時を司る「時間の国」に咲く「時間の花」かもしれない(『モモ』を参照)・・・などなど勝手な想像を思い巡らしながら歩いた。 家へ戻った後、少し調べてみたのだが、トケイソウの英語名は、「パッション・フラワー(passion flower)」なのだそうだ。ここで言うパッションとは、以前の映画名にあったように「キリストの受難」である。十六世紀に南米に伝道したイエズス会の宣教師たちが現地で、この花の姿を見て、鞭打たれ、茨の冠をつけられ、十字架につかれた主をそこに覚え、名づけたという。 じめじめした高い湿度の毎日、重い足で人生の歩みを引きずる今日この頃、トケイソウは、私たちに受難の主が今、共にあり、復活へと導いてくださっていることを示しているようだ。感謝。


☆8月2日の説教要約:
「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」(マタイによる福音書5:13,14参照)。
主イエス・キリストは、御言葉をもって私たちを端的に、「地の塩、世の光」であると言ってくださいます。そこに勇気を頂きます。何と大きな励ましでしょう。イエス様の私たちに対する熱い信頼が、そこにあります。「地の塩、世の光」そのものである主に、繋がらせて頂いているのです。それゆえに「地の塩、世の光」なのです。主への信仰をこれからも、第一にして行きましょう。また、主の御言葉に力があることも忘れてはなりません。私たちが御言葉を心底、信じて祈る時に、その御言葉が力を発揮して、その通りにこの身に具現するのです。
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by aslan-simba | 2009-07-30 19:09 | Comments(0)

山川草木悉皆成仏

暑かった一日の夕暮れ、樹木の木陰が心地よい。生い茂った葉陰を通して吹く一陣の涼風を感じるとき、この季節の醍醐味を感じる。まさに至福のとき。自然の美しさと優しさ、そして癒しの力を覚えつつ歩く。 「山川草木悉皆成仏」(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という言葉を思い出した。山も川も草も木も、ありとあらゆるものが、あるがままに仏を宿しているという日本の仏教に特有の思想といわれる。言い換えればこれは、一つ一つの自然に、見事なまでの「いのちの輝き」を見るという捉え方ではないだろうか。 私たち日本に暮らすものは、そのような自然、つまり緑色濃いいのちの環境に抱かれ、今を生かされているのである。そこに自然を愛でる俳句などが生れる感性の素地があったのだろう。 遠い昔のイスラエルの詩人も自然を仰ぎみ、「わたしの助けはどこから来るのか」と問うた。もっとも、彼が見上げたのは、荒野にそびえ立つ荒れた肌の山々。それは私たちの知る自然ではない。そこに草木はなく、厳しい「死の現実」だけが牙をむいていたのである・・・しかし詩人は、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」(詩編121:2)と告白している。 ならば、豊かないのちの輝きの下にある私たちは、イスラエルの詩人にも勝って、神さまの御恵みを真摯にこの地に覚えたい。草木、花々、昆虫、ありとあらゆるものが神さまを賛美し、神さまを指さしている。「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう」(詩編8:10)と、私たちは心から賛美できるはずだ。主の確かな守りを体感しながら・・・


☆7月26日の説教要約:
「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(マタイによる福音書15:28)。
 主イエスは、異邦人の女性に言いました。あなたの信仰は立派だ、あなたの信仰は大きい、偉大である、と。そのような「信仰」・・・それは、何か大きな「業」をなし、またそれを誇る信仰ではありませんでした。ただただ主イエス・キリストに信頼を寄せる、それ以外には何もないような信仰でした。しかし、主は、それを嘉せられました。それは、神さまの愛に深く捕らわれていたからです。この信仰に生きる時に、主は「あなたの信仰は立派だ」と言われます。そして、「あなたの願いどおりになる」と、この身に奇跡をももたらしてくださるのです。感謝。
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by aslan-simba | 2009-07-24 15:08 | Comments(0)

雨の日は・・・

いよいよ梅雨は明けて「夏が来た」と、昨日このブログに記したが、今朝は梅雨に逆戻りのような空模様。シトシトと絶え間なく雨が降り注いでいる。 深夜から早朝にかけては激しい雨が軒を打った。吾が庵の雨漏りが心配だったが、幸いにも持ちこたえてくれたようだ。 始まった雨の一日、今日はまた雨の景色に親しみたい。「雨の日は雨を愛す」、そして「楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」という思いをもって・・・皆様にとって良い一日でありますようお祈り申し上げます。 
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by aslan-simba | 2009-07-17 08:20 | Comments(0)

夏が来た

一週間ほど前、手帳にこんな文章を綴っていた。 ・・・雨降りの日もよいものだ。早朝、雨音で眠りから呼び覚まされる。しばらく待って、雨が小降りになるのを見計らい、犬たちを連れて散歩に出る。街は薄暗い。見上げる空は黒い雲に覆われている。その単調な景色に色付けを行うように、梅雨に咲く花々は雨に濡れてますます美しくなっている。優しい恵みの雨に打たれて・・・ 過ぐる日々の雨で、十分に洗われた大地の上から、今、暑い熱気が立ち上り、天からは、真夏の日差しが降り注いでいる。四、五日前にセミの初音をかすかに聞きとり、梅雨の終焉を漠然と予感していた。それさえもが、何か遠い日の出来事だったように感じられる。今朝は、早い時間から見事なセミ時雨が続いている。テレビの天気予報によると関東地方では、既に梅雨は明けたとか。こちら近畿地方は未だということだが、本格的な夏の到来がいよいよ実感される。事実、いましがた体験したことだが、早朝の散歩道の空は青く、雲の白さが心地よかった。夏木立の色濃い緑のたたずまいに、新たな活力を覚えた。暦の上でも、今度の日曜日は「土用の丑の日」、月曜日は「海の日」、木曜日は「大暑」・・・、近所の子供たちの学校は夏休みに入り、町内のラジオ体操も始まる。 心新たに、はつらつと夏に入って行こうではないか。そして共々に、元気で有意義にこの季節に親しもう。そうだ、風鈴でも出してみよう・・・今年の夏も大丈夫。共に在る神さまのお守りが必ず在るから。


☆7月19日の説教要約:
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネによる福音書2:11)。
主イエス・キリストがガリラヤのカナで行われた婚礼の式に出席し、そこで「水」をぶどう酒に変えた、という奇跡物語が語られている。この出来事をヨハネは「しるし」(標識=サイン)と記す。ここには、後に起こる十字架と復活、さらには「神の栄光の現われ」が、「しるし」として予表されているのである。ヨハネはさらに筆をついで、「それで、弟子たちはイエスを信じた」と述べ、この「しるし」と弟子たちの「信仰」とを結び付けているのである。主のおられるところ、「しるし」が現されるのである。今朝の礼拝もそうである。ここに<いのちの礼拝>が実現するのである。信じて立ち上がろう。
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by aslan-simba | 2009-07-16 21:11 | Comments(0)

祇園まもり

祇園まつりの本番の時が近づいてきました。この頃に咲く八重のむくげの花を祇園まもりというそうです。 今日、同志社クラーク館で結婚式の司式をさせて頂きました。心配していた雨も大丈夫でした。神さまに感謝します。そして祇園まもりを心に刻みます。 この美しい花に守られて結婚式を挙げられた、本当に心根の優しい御二人、格好いい新郎、美しい新婦です。御二人の上に益々の祝福をお祈り申し上げます。


☆ 当ブログに対するコメントをお気軽にどうぞ。承認制ということになったので、すぐに画面に反映できませんが、皆様の御言葉、大歓迎です。
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by aslan-simba | 2009-07-11 19:48 | Comments(2)

幸せを祈り求めよう

雨降りの日の黙想、晴耕雨読、「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(『ブッダのことば』岩波文庫)という言葉に考えさせられる。 私たちはみな誰もが「幸せになりたい、幸福でありたい」との願いをもって日々を歩んでいる。しかし、現実には、数多くの困難が私たちにある。グローバル時代、様々なニュースがリアルタイムで伝えられる。伝えるメディアのある種の傾きは考慮に入れつつも、何が起こったかの大体の推測はつく。そこで、あらためて思わされることは、かりに自分自身には満足できる現状であっても、世界は今なお、憎悪と困難、争いと殺戮、また貧困と悲惨におおわれているのだ、という事実・・・宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を思い起こす。賢治の祈りはここに集約されていた。 神さまはこの現実をどう考えておられるのか。エレミヤ書が示された。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心にとめている。それは・・・将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし・・・わたしに出会うだろう」(29:11-14参照)。「幸せ」・・・大切なのは、どこまでも真剣に祈り求め続けることではないか。 窓の外を見る。木々の青葉がたっぷりと水を含み、新たに息づいている。咲き始めたむくげの花が灰色の景色に見事な彩りを添えている。自然はその存在をかけて祈っているのだ。私たち人間も本気で祈ろうではないか。


☆7月12日の説教要約:
「その人は言った。『お前の名前はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ』・・・ヤコブは『わたしは顔と顔を合わせて神を見たのになお生きている』と言って、その場所をぺヌエル(神の顔)と名づけた」(創世記32:29,31)。
祝福を求めるヤコブの必死の格闘に対して、神さまは自らが折れてくださいました。人間の求めにどこまでも耳を傾けてくださる神・・・そこに「神の神らしさ」があることを聖書は伝えています。求める者に対するご自身みずからの謙り、それこそ私たちの救いのためには、御子をも惜しまない「愛の神」の姿があるのです。私たちが信じるのは、この「悩みがあるときにわれを呼べ」と言われる神さま、「わたしの名によって求めよ」と言ってくださる神さまなのです。この神との出会いに今、生かされている・・・有難いことです。
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by aslan-simba | 2009-07-09 17:43 | Comments(0)

梅雨の候

日本の梅雨、日がな一日、シトシトとしめやかな雨降る季節のはずだった・・・が、これも地球温暖化の影響なのだろうか。最近では、集中豪雨による河川や堤防決壊のニュース報道が、この時期の年中行事となってしまった。ことほどさように、ここ数年は、梅雨というよりも「激しいスコールをあびる雨季」なのである。日本らしい風情を残す京都郊外のこのあたりも、その南国的な雨の洗礼を受けている。 昨夜も夜半に、激しい雨が降った。そのため吾が庵の雨漏りが気にかかり、夜中に幾度か目をさました。不思議なことに、その雨音だけに耳を傾けたときに、何故か芭蕉の句が脳裏を走った。「五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川」、そして次に「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」という風雅とは程遠いユーモラスな俳句が・・・おそらくこの時期の句なのだろう。芭蕉が奥の細道を旅していたときも、もしかしたら、スコールのような雨が降っていたのかも知れない・・・などと愚考を巡らす間に眠りについていた。 夜が明けた。幸い雨はあがっている。今朝は早くから犬を連れて散歩が出来る。元気に走り回る犬たち。初夏の一日がここに始まる。激しい雨に打たれてしなった花々の葉の上にも、露が明るくきらめいている。良い日を迎えた。また、この四季のある国に今、生かされていることにも感謝したい。


☆7月5日の説教要約:
「・・・わたしは、イエス・キリストの焼き印を身につけているのです」(ガラテヤの信徒への手紙6:17)。
「焼き印」(スティグマタ)とは、当時、羊や奴隷の体に付された所有者を示す印(しるし)のことです。この手紙を記した使徒パウロは、伝道の歩みのなかで身に受けた「迫害の傷跡」を「イエスの焼き印」と称し、それをもって自分がキリストのものであることを述べているのです。そのイエスの焼き印は、「キリストとその復活の力を知る<希望の印(しるし)>」でもあります(フィリピ3:10を参照)。私たちの人生における苦しみや傷跡も、主に在って苦しむとき、必ずやキリストの希望の印にかえられるはずです。
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by aslan-simba | 2009-07-03 08:34 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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