ハナミズキの季節は過ぎ

桜花の後、蝶が舞うような美しい花を咲かせる木がある。ハナミズキだ。秋には赤い実をつけ、紅葉も美しい。いつからか、この木をよく目にするになった。そういえば、以前、住んでいた尼崎市の「市の木」がハナミズキだった。 聞くところによると、ワシントンDCに東京市長が桜を送った返礼として、アメリカから日本へ明治42年(1909年)に贈られたという。日本に来て百年、案外、古い木なのだ。別名、アメリカ山法師(やまぼうし)。英語名はドッグウッド  (dogwood)。なぜ「犬の木」なのかは諸説あるそうで、定かなことは分からない。 ただし、犬は登場しないが、アメリカで伝えられる「ドッグウッド伝説」(legend of the dogwood   tree)は心にしみる。いわく・・・二千年前、ハナミズキは他のどの木にも勝るほど太くたくましい木だった。そのためにキリスト処刑の十字架として使われてしまった。悲嘆にくれるそのハナミズキの木を、十字架上で苦悶する受難の主イエスご自身が思いやり、憐れんでくださった。そして、二度とこのようなことにならないように、以後、幹を細くしてくださった。ハナミズキはこの記憶を伝えるために、花を十字架の形となし、花びらの中心に主の釘跡と血痕を残したというのである。 白や淡い紅色の花をつけ、私たちの目を楽しませてくれたハナミズキの花も、そろそろ満開のときを過ぎようとしている。今、十字架の時から、確かな復活の希望の時に、私たちは移されようとしている。感謝にたえない。


☆4月26日の説教要約:
「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(ヨハネ一1:4)
今の時代、「いのち」と「交わり」、そして「喜び」が本当に求められています。幸いなことに私たちは、それらを核とする「いのちの家」を知り、その礼拝に与っています。この事実に心からの感謝をなし、人生の最後まで、主と共に、前向きに前進しようではありませんか。そのような生き方が、周囲を笑顔で包み、神さまの栄光をあらわします。


雑感:疲れきっていたとき、知人の鉛筆画家・松尾琢也さんのHPに違った方向から元気をもらう。「狂い候え、踊り候え、人生とは一期の夢候よ」(I am lunatic.)。一遍上人のような・・・くよくよするな、楽しく生きようという踊念仏のモチーフそのものとでもいうか、世塵にまみれつつ自分らしく生きるということか・・・いや、そうではないのか?いずれにせよ、こういう世界もあるのですね。なお、彼のプロフィールの末尾に注目。琢也君のユニークなHPも是非、のぞいてみて下さい。
琢也君へ:五月に、また教会へどうぞ!
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by aslan-simba | 2009-04-23 17:47 | Comments(0)

風光り、山笑う

風光る季節、近所を歩くだけでも、春の自然が語りかけてくる。家々の庭先の花々は、待っていましたとばかりに咲き誇っている。少し遠くを眺めれば、新緑に包まれたやわらかな山々が目にうつる。皆、精一杯に<いのち>を輝かせているようだ。「山笑う」とは、よく言ったものだ。 かつてモーセは、人間を超えた主(ヤハウェ)なる神に、ホレブという山で出会い、出エジプトという尊い使命を託された(出エジプト記3章)。その山は緑豊かな日本の山々とは異なり、ごつごつした岩山だった。現在、ジュベル・ムーサ(モーセの山)と言われる、そのホレブ山を登った知人の話によれば、確かにそこは「樹木なく、水もなく、まったくの乾燥しきった山だった」という。思えば、そのような厳しい砂漠のような自然のなかにあっても、一方で私たちの知る穏やかな自然の中にある春の山においても、神さまは自らを示してくださるのである。 私たちも詩編の詩人と共に祈り憶えつつ、人生の山道を歩み続けたい。「主がすべての災いを遠ざけて、わたしたちを見守り、わたしたちの魂を見守ってくださる」(詩編121を参照)ことに感謝し、その御恵みを深く心に刻みつけながら・・・


☆4月19日の説教要約:
「キリストがあなたがたの内におられるから、体は罪によって死んでいても、霊は義によって<いのち>になっているのです」(ローマ8:11・私訳)
私たちは復活信仰によって、すでに聖霊の力に与って生きているのです。どうか、この事実に気付いてください。だからこそ、私たちは祈れるのです。だからこそ、私たちは「罪と死」の現実に負けないで、勇気をもって勝利の人生を歩み続けることができるのです。このことをあらためて心に刻み、もっと雄々しく、もっと果敢に、これからの人生の道を歩もうではありませんか。御国に召されるその日まで・・・
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by aslan-simba | 2009-04-18 08:10 | Comments(0)

神の臨在

まばゆい春の陽射しの下を歩きながら、復活のシーズンに心弾ませる。桜の花々が降り注ぎ、土手の向こうの緑の原を、菜の花が金色にコントラストをつけている。時折、優しくささやくウグイスの音。まさにこの地は、「春爛漫」(はるらんまん)である。今、あらためて、そこかしこに神さまのご臨在が実感され、感謝にたえない。 「イエスは言われた。『わたしは彼らすべての上にある光である。わたしはすべてである。すべてはわたしから出た。そして、すべてはわたしに達した。 木を割りなさい。わたしはそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、わたしをそこに見出すであろう』」(「トマスによる福音書」77節、荒井献訳を参照)。 このあふれるような自然の輝きはもちろん、しがない日々の仕事、営み、日常の生活を含め、あらゆるところに、復活の主イエス・キリストが、神さまがおられるのである。それを私たちは体験的に示して頂けるのである。何という御恵み・・・だから恐れずに、勇気と喜びをもって、これからの人生も歩んで行こうではないか。
*トマスによる福音書、1945年にエジプト南部のナイル川河畔のナグ・ハマディで見つかった二世紀頃のコプト語文書の一つ。現行の新約聖書には所載されていないが、主イエスの言葉が114節記された語録集である。記録したのは使徒トマスと本文中に記されている。

☆4月12日復活祭(イースター)の説教要約:
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8:11)
 主が復活されたというのは、神さまの愛と恵みの御力が、この世のすべての闇の力、憎しみの力、死の力を打ち破り、勝利をおさめたということなのです。その勝利の主は、私たちを御救いのなかに招き入れ、さらには聖霊を送り、共に歩もうと導いて下さいます。 この生きて働かれる主の<復活のいのち>に、この礼拝と聖餐をもって共に与り、ここに新たな希望をもって立ち上がり、元気に生きる力を頂こうではありませんか。

★4月12日(日)復活祭の日に、桃山栄光教会をお越しになりませんか。礼拝は10時30分からです。礼拝の後には、イースターを記念して食事会も行います。お気軽にどうぞ。

後記:楽しいイースターを過ごせました。いつもと同じ少人数でしたが、それはそれで有難いと思います。礼拝後も、いつもと同じのんびりしたムードで・・・でも、今日は何人もの方々が食事を作ってきてくださったり、プレゼントを持ってきてくださったりしました。感謝。毎週、元気に「ジャイマシー」(ネパール語で「ハレルヤ」=神さまに感謝します)と声をかけて下さる方は、美味なるネパール料理をたくさん調理してくださいました。ということで、ネパールに興味ある方も当教会に是非、いらしてください。きっと良いことがあるはずです。(4/12 牧師)
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by aslan-simba | 2009-04-09 08:12 | Comments(0)

桜よ、ありがとう

青い空に薄紅色がいよいよ映える。心待ちにしていた桜の季節を迎えた。桜並木の散歩を思うと胸がはずむ。今日は、春の陽射しをあびながら、犬たちと存分に歩いてみたい。 また、月明かりに浮かぶ美しさも愛でる機会があればと願う。夕べの外出は、京都に住むようになってからは殆んどなかったが、この時期、どんなものだろう。「清水へ 祇園よぎる 桜月夜 こよひ逢う人 みな美しき」(与謝野晶子)・・・こんな思いに浸たれるのだろうか。桜の季節は私たちの心をやさしく酔わせてくれる。 「散る桜 残る桜も 散る桜」・・・やがては散り行く桜の姿も心にとめたい。「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにが 久しかるべき」・・・無常の世であればこそ、散る花びらに一瞬一瞬の<いのち>を輝きを見る。そして、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」ことに思いを馳せたい。 桜の季節・・・以前に読んだ坂村真民のこんな文章を思い起こした。「咲いて散り行く花の美しさ 今年の桜は妻と見ることはできなかったが 桜は妻を守ってくれ 危機を突破してくれた 2001年の桜よ ありがとう」(『詩国』2001年5月号より)。今、未来の新たな息吹を、桜の花々が私たちの上に注いでくれているのを感じる。希望をもってここに立ち上がりたい。 2009年の桜よ、本当にありがとう!

p.s.エイプリルフールの日、桜咲く京の街でいくつもの良き出会いを経験しました。感謝


☆4月5日(日)棕櫚の主日の説教要約:
「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。・・・主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22章)
実存哲学者サルトルが「眼差しの地獄」ということを述べています(戯曲『出口なし』)。人は他者の視線から自由になれずに、それにさらされながら生きねばならないということです。その束縛のなかで、私たちは時に喘ぎ、傷つき、嘆きます。しかし、そんな人間の眼差しを超えたもっと大きな眼差しがあることを忘れてはなりません。それは私たちを慈しみ、執り成し、励ます主の、神さまの愛の眼差しなのです・・・

★4月12日(日)は復活祭(イースター)礼拝です。春の本番はそこまで来ています。皆様のご健康をお祈り申し上げております。お時間があれば気軽に私たちの教会にお越し下さい。何か良いことがあるかもしれません。
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by aslan-simba | 2009-04-03 16:31 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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