脚下照顧

夜明け前の暗い道を、自らの足元を見つめながら踏みしめるように歩く。脚下照顧(きゃっかしょうこ)という禅の言葉が脳裏をよぎる。この言葉を最初に聞いたのは、剣道をやっていた中学生の時。「道場に入る前には履物をきちんと揃えなさい」という意味で捉えていた。 礼に始まり、礼に終わる武道はもちろん、信仰者として人生の道を歩く私たちにとっても、脚下照顧の精神は大切であろう。自分の足元を見つめて、自己を顧みるということ・・・そこには、他人の言動に心を乱される自分ではなく、冷静に自分自身を見つめる必要が説かれている。あるいは、他人を批判する前に、まず己を振り返れということも言われている。 翻って、人間とは悲しいもの。そうは言っても、自分のこと以前に他人の姿の醜さや問題ばかりが目についてしまう。一方では、誰かの言葉で一喜一憂させられるような自分の現実も認めざるを得ない。そして、四苦八苦しながら悶々と日々をおくるはめに陥いる。このような人間のありように聖書は、「罪」を見るのである。 ここでもう一度、脚下照顧を真摯に心に刻み、「今、ここに在る私」を祈りつつ顧みたい。その際、聖霊の働きを本気で求めよう。それを通して、はじめて未来に向けての希望の一歩を踏み出せるのである。「汝の御言葉は我が足の灯火、我が道の光なり」(詩119:105)を心に刻みながら。
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by aslan-simba | 2008-10-23 18:48

金木犀の時は過ぎ

秋は静かに、清楚なおももちで北から南へと下ってくる。暖かなそよ風と共に、華やかに南から上って来る春とは対照的だ。そして、涼しさと共に、時に優しい雨をもたらしながら、季節が深められて行く。 その深まりを、明るい彩りとふくよかな甘い香りで示す金木犀の花々に、先週、やっと出会うことができた。近隣の庭木や垣根に、そして御陵参道の道沿いに・・・「みぢろげば木犀の香のたちのぼる(橋本多佳子)」。 例年ならば、九月のお彼岸のころに、どこからともなく漂う芳香で開花に気づくのだが、今年は十月に入ってからだった。心待ちしただけに、嬉しさはひとしおだった。木々の枝に数え切れないほどの橙色の花々をつける光景は見事である。その放つ香りと共に、子供の頃に見た美しい満月の姿もよみがえってくる。そういえば、夜空を見上げながら、「金木犀は月の世界からやってきたんだよ」と父が話してくれたことが懐かしい。・・・「木犀や月明かに匂いけり(山口青邨)」。 十月も半ばを過ぎ、いつしか、その小さい十字の形をした花々の時は過ぎて行った。道々に散った花びらは、まるい月の明るい光に照らされ、金色の雪を積もらせていた。季節のなかのひとつの時の終わりを静かに見つめながら祈念する。深まり行く歩みが、豊かな希望に支えられるように・・・
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by aslan-simba | 2008-10-17 18:53

雨の日は雨を愛す

早朝、東の空一面が、濃いオレンジ色と黒い陰に染まっていた。足を止め、その光景に目を見張る。カラスの群れの鳴き声で、ふと我に返り、朝焼けは雨の兆しであることを思い致す。「また雨か」・・・心重い。 今年は雨が多い。しかも亜熱帯地方のスコールのような雨を幾度も経験した。夏の夕立のみならず、梅雨の時期、そして秋霖(しゅうりん)の時においても。実に男性的だが、何とも風情がない。たおやかな雨こそが、この国に住む私たちの心象模様に合うはずである。そぼふる雨の景色の下、私たちの祖先は、自らの悲しみ、辛さ、情けなさを顧み、諸行無常の我が身を見つめて来たはずだ・・・。と、言いながらも実のところ、しとしと降りも含め、雨の日は苦手である。なにやら憂鬱な思いにかられる。ある方が、それを「人の心を陰に隠らせてしまう」と表現していた。何とも京都人らしい表現だ。 そのような現実の雨に加えて、人生の雨・・・私たちの歩みの上には予想もしないような試練の雨降ることがある。一生懸命に真面目に頑張って来たのに何故と言いたくなる。ただ、神さまは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。だから、「晴れた日は晴れを愛す。雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ。楽しみなきところに楽しむ(吉川英治)」と生きようではないか。それがスコールであれ、たおやかな雨であれ、雨上がりの朝の空は透き通るように青いはずである。
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by aslan-simba | 2008-10-10 08:28

コスモスのたたずまい

十月に入り、道行く人の長袖姿が目に付く。自然の景色も衣を替えて、すっかり秋模様となった。今朝は、涼風に揺れる薄紅色のコスモスを見かけ、その優しいたたずまいに心癒される思いがした。 コスモス・・・和名で秋桜(あきざくら)と名づけられた花、その「秋桜前線」は、春の桜前線とは逆に北から南へと下り、涼しさと季節の彩りとを運んでくれる。コスモスが日本に入って来たのは、明治の中ごろだそうだ。在来種ではないものの、この国の秋に本当によく似合う花のひとつだろう。ちなみに、コスモスという名前も興味深い。<コスモス>は元来、ギリシア語で「宇宙」や「秩序」を意味する言葉(Kosmos)。古代のギリシア人にとって、「宇宙」は単なる空間ではなく、その存在に深い意味があった。それは、天上と地上、神と万物とを結びつけ、それ自体が美しい「秩序」をもつ<いのち>の動きそのものだった。そのコスモスという名が、この花に冠せられている。花言葉は「真心」、また色別でピンクを純潔、赤が調和、白は優美と聞く。 ふっと、誰かが言っていたこんな言葉を思い出した。「コスモスは台風で倒されても、茎の途中から根を降ろして、起き上がり、また平然と咲き続ける強さがある」と。そのように美しくも芯のある、コスモスの花の<いのち>にあやかりたい・・・大丈夫、私たちも主にあって<復活の力>と、宇宙大の<永遠のいのち>に与っているのである。恐れることはない。道は必ず拓ける、立ち上がり、雄々しく歩んで行こう!
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by aslan-simba | 2008-10-03 14:26

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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