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蕾にして凋落せんも

「蕾(つぼみ)にして凋落せんもまた面白し。天の命なればこれ亦(また)せん術(すべ)なし。ただ人事の限りを尽くして待たんのみ。事業の如何(いかん)にあらず。心事の高潔なり。涙の多量なり。以(もっ)て満足すべきなり」。荻原碌山(おぎわらろくざん)の晩年の手紙の一節にあたる。この世の生の終わりを予感しつつも、それを天の摂理として受け容れ、なおかつ残された日々を全人格をもって生き抜いた彼の思いが込められている。 碌山は信州・安曇野出身で、高村光太郎と共に明治を代表する彫刻家であり、「日本のロダン」とも称される。米国と仏国で美術・彫刻を学び、数多くの傑作を遺した。「彫刻の本旨、即ち中心題目は、一制作によって一種内的な力(inner power)の表現さるることである。生命の表現さるることである」と。 彼は、22歳で洗礼を受けた信仰者だった。ただ、その生涯はわずか三十一年ほど。短い生命の時間、万事を神さまにゆだねて、文字通り「人事の限りを尽くし」、精一杯に「生命の表現」をなし、駆け抜けていった。 先日、アフガンの地で農業指導に携わり、現地の人々から厚い信頼を寄せられていた三十一歳の若者が、思いもよらぬ仕方で逝去した。彼にとっては無念の「蕾にして」の死だったかもしれない。しかし、彼の業績、その人格は、まさに「心事の高潔さ」をもって、アフガンの地の人々の記憶にいつまでも留まるところになるだろう。 合掌。
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by aslan-simba | 2008-08-30 15:47

笠地蔵

地蔵盆を迎えた。八月もあとわずか。五山の送り火と地蔵盆が終わったら、京都の季節は変わる。お地蔵さまが「涼しさ」を運んでくれるのだろうか。お地蔵さまのことを思いながら、ふっと家の子供たちが小さかったころ読み聞かせた「笠地蔵」の話を思い出した。 ある雪深い地方に、おじいさんとおばあさんが住んでいた。この老夫婦は極貧で、大晦日なのに餅の用意さえできなかった。「何とかせねば」と、おじいさんは手製の笠を五つ携えて町に売りに行く。しかし、ひとつも売れない。その帰り、あいにくの吹雪のなかを立ち尽くす六体のお地蔵さんたちと出会う。おじいさんは売り物の笠を五体に丁寧に被せ、足りない一体分はおじいさんの大事な手ぬぐいをのせ、祈りを捧げる。家に戻り、おばあさんにこのことを話すと、「良いことをして下さった」とおばあさんは、文句ひとつ言わずに喜んでくれた。その日の夜更け、外でなにやら物音が聞こえる。戸を開けてみると家の前には餅や野菜がたくさん積んであった。そして、これを運んできたお地蔵さんたちの遠ざかってゆく後姿が目に入った・・・(昔話の常で、物語は他にもバリエーションがあるが、大筋これでよいだろう)。 おじいさん、おばあさんの打算のない優しい姿に心洗われる思いがする。また、この老夫婦を見守り、支えるお地蔵さまたちが愛らしい・・・。ちなみに、地蔵菩薩は子供たちの守護だけでなく、この世とあの世の境に立ち、苦悩を抱える人々を豊かな慈悲をもって救うという。お地蔵さまのありようにもイエス・キリスト様の憐れみに満ちたお姿が透けて見えるような気がして・・・有り難いことである。
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by aslan-simba | 2008-08-22 07:50

晩夏から初秋へ

暑い日が続く。それでもカレンダーの上ではすでに秋を迎えている。おもしろいもので、耳をすまし、目をこらし、五感を自然へと傾ければ、季節が少しずつ秋色に染まっていることに気づかされる。暦は正直だ。 早朝は本当に涼しくなった。それに伴い、夜明けが遅くなってきた。つい先日までなら、明るくなっていた時間帯が、今は深い闇に包まれている。 今朝は明け染めた空一面に羊雲がかかっていた。天空はすっかり秋模様・・・昨日の夕方には、力強い入道雲がそこに見えていたはずだ。何か不思議な思いがする。 外を歩いていると、薄紅色の花びらが数枚、風に吹かれ足元を舞った。近くの百日紅(さるすべり)の花のようだ。晩夏の時を告げているのだろうか。 夕方、御陵沿いを歩く。立秋を期に、ここで蜩(ひぐらし)の声を聞くようになったが、今日はつくつく法師が鳴いている。子供の頃、つくつく法師が鳴き出すと「夏休みももう終わりだ」と、宿題の仕上がっていない自分にあせりを感じたものだ。あれから後も、さまざまな夏を経験してきた。 今年もいくつかの思い出を残して、夏が終わろうとしている。思えば、季節のめぐりは麗しい。初秋のさわやかな季節は、そこまで来ているのである。秋風を一杯この身に受けて、颯爽と歩ける日も近い。行く夏を惜しみつつも、新たな季節との出会いの喜びに今、胸が大きく高鳴っている。 
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by aslan-simba | 2008-08-15 10:02

きょうもいい日

妻が近所の人から、「知人が木版画の個展をするので、見に行かれますか」と案内を受けた。その個展開催についての記事が、京都新聞の地方版にも掲載されているのを見つけ、私も同道させてもらった。 寺町通りの簡素なたたずまいのなか、いくつかの美術ギャラリーが軒を連ねている。そのひとつが目指す展示会場だった。町屋を改装したギャラリーの二階は広くはないが、整然としていた。その壁面に三十点ほどの淡いカラーのほどこされた小さな木版画と、その傍らには作者の詩が付されている。ゆっくりと味わいながら、見て回った。淡々とならぶ作品たち、そのひとつひとつが、日々の生活のなかで経験する、静かな感動に裏づけられている。作者の感性が、ほんのりと伝わって来て、思わず、やさしい気持ちになっている自分に気づく。同時に、何気ない毎日の日常に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを、あらためて示される思いがした。 作者の木版画詩文集には、こう記されていた。「日々の暮らしの中で、ささやかだけど大切にしたい気持ちや情景をしまっておける 心の中のポケットやら引き出しは、すぐにいっぱいになってごちゃごちゃになって、いつの間に忘れてしまうものだから、すっきりシンプルなかたちにしてとっておく、私なりのいい方法を見つけました。 文章にすること 木版画をつくること・・・」(ひらやまなみ『きょうもいい日』)。私たちも自分なりの工夫をもって、日常生活を心豊かに過ごしたい。一日一日が、主イエスの優しい眼差しの下にある、恵まれた日々であることを心に刻みながら・・・感謝。
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by aslan-simba | 2008-08-08 21:03

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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