八月のそよ風

暑い日が続く。道路からも熱気が上ってくる。炎熱地を焼くとは、まさにこのことだろう。道に咲く名も知らない草花がしおれていた。ある知人が「京都の夏は、亜熱帯性気候」と表現したが、本当にそうだと思う。 そして、迎える八月・・・この暑さに拍車をかけるように、今年も重い追悼の季節が始まろうとしている。15日は月遅れのお盆、終戦記念日、さらには聖母マリアの被昇天日にあたる。戦争、原爆、あるいは諸々の不条理な出来事で亡くなった人々の声が甦る。私たちは、どのようにして、その声に応え、彼らの供養ができるのだろうか。それは決して安易なお題目の繰り返しであってはならない(エレミヤ書6:14参照)。まさに生者がたたずまいを正し、死者に本気で向かい合うようにと促されるのが、この月なのである。そこには厳しいものがある。出口の見えない現実の閉塞感も立ちはだかる。 しかし、できるならば、そのようには身構えずに、肩の力を抜いてこの月と親しみたい。「八月の金と緑の微風(そよかぜ)のなかで 目に沁みる爽やかな麦藁帽子は 黄いろな 淡い 花々のやうだ 甘いにほいと光に満ちて それらの花が咲きそろふとき 蝶よりも 小鳥らよりも もっとやさしい愛の心が挨拶する」(立原道造「麦藁帽子」)。ここに大切なことが歌われていることに気づいた。それは、私たち自身が真に「やさしい愛の心」に生きること。それをもって互いに「挨拶」を交わし、さらにはその思いを亡くなった方々に向けることである。その時に、状況はひらかれるはずだ。八月の「そよ風」のなかで・・・
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by aslan-simba | 2008-07-30 18:05

人生のでこぼこ道

蝉の声が賑わしい。今年も本格的な夏を迎えた。今朝も早朝の祈りと散歩を終え、季節感あふれる(要は、冷暖房のない)この庵で、仕事を始める。早いうちは非常に快適だが、午前十時を過ぎるあたりからは「大暑」が到来する。ある友人が、「夏」(なつ)の語源は、「熱」(ねつ、あつ)から来ていると言っていたが、その通りだと思う。それでも「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、この庵で学び、考え、仕事を重ねるのが好きである。 ただ、今日はやたらと睡魔に襲われる。これはまずいと眠気覚ましにラジオをかけた。流れてきたのは美空ひばりの最晩年の曲。実に味わい深い。いつもなら好きなジャンルではないと、チャンネルを回すのだが、今日は聞き入り、考えさせられた。 「知らず知らず歩いてきた 細く長いこの道 振り返ればはるか遠く故郷が見える。でこぼこ道や曲がりくねった道、地図さえない、それもまた人生・・・」(「川の流れのように」)、私たちも、そのような人生を今日まで歩んできた。明日という道に対しても一抹の不安がある。またも難儀な「でこぼこ道」と出くわすのではないか、と。 ふっと、星野富広さんの一文を思い起こした。車椅子につるした鈴に託し、綴られた文章である・・・「鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る」(『鈴の鳴る道』)・・・あらためて希望という名の鈴を付け直したいと思う。そして、この夏の暑さも、人生のでこぼこ道も、心地のよい音を響かせながら、楽しく軽やかに乗り越えて行きたいものだ。
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by aslan-simba | 2008-07-24 18:46

「言葉の力」

言葉は大切である。我が国には古来、「言霊」(ことだま)という考え方があった。霊的な力が言葉に宿るとされていたのである。従って、祝詞を奏上するときに、誤読は許されないという。 現代の私たちにとっても、言葉の力は大きい。何気なく語っている言葉のなかに、未来が予言されていることさえある。 ある人が「言葉」をこう定義していた。「人を幸せにしたり、怒らせたり、悲しませたり、楽にさせたり、殺したりできるもの。扱いはとても難しい」ものである、と。そう考えてみると、「言葉」を語るのは一筋縄の話ではない。聖書には「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ3:6)というアドヴァイスがある。その意味を覚え、互いに心響くような言葉を語り合いたいものだ。 ところで先日、ラジオ番組で印象的な言葉と出合った。「(人生の途上に立ち現れる)『壁』は、私たちを閉め出すためのものではない。私たちがどれほどそれ(目指すもの)を真剣に求めているかを、試すために存在するのである」(The brick walls are not there to keep us out. They are there to give us a chance to show how badly  we want something.)、「幸運とは、準備と機会が出会うところにある」(Luck is where preparation meets opportunity.)。日々、目や耳に入る前向きな言葉に励まされつつ、地道な歩みを今後も積み重ねてゆきたく願う。目指す人生の目標をしっかりと心に刻み付けつけながら・・・。
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by aslan-simba | 2008-07-17 15:43

雑草こそは

「雑草こそは賢けれ、野にも街にも人の踏む 路を残して青むなり。 雑草こそは正しけれ、如何なる窪(くぼ)も平らかに 円く埋めて青むなり。 雑草こそは情けあれ、獣のひづめ、鳥の脚、すべてを載せて青むなり。 雑草こそは 尊けれ、雨の降る日も、晴れし日も、 微笑ながら青むなり」(与謝野晶子「雑草」)。 雨上がりの朝、早朝の白い光のなかに草花の露がきらめく。目を上げれば、一段と色濃くなった夏木立の緑がたくましい。今朝も暗いうちから歩きはじめ、ここに新たな一日が開始された。 家へと戻る途上、いつものように連れの犬たちと近所の広場に立ち寄る。彼らは、ここに生い茂る雑草と戯れるのを楽しみにしている。その姿を見つめながら思う。雑草が、昨日までの私たちの「人生の窪」を「平らかに」してくれるのだ、と。そう、生きる痛みや苦しみ、そして悲しみをもまるく埋めて微笑む名も無い草花が今、温かい眼差しをもって、私たちをなごませてくれている。 自然の木々、花々を見つめ、さらには雑草たちにふれあいながら、尊い<いのち>を覚え、御言葉をここに頂く。「木には希望がある・・・」(ヨブ記14:7)、「野原の花がどのように育つか考えて見なさい・・・」(ルカ12:27)。そして、「今日のいのちを精一杯に生かさせてください」と、犬たちと共に祈っている自分に気づかされる。なんとも有り難く、もったいないほどの朝に今朝も与れた。感謝にたえない。
合掌。
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by aslan-simba | 2008-07-11 20:14

赤毛のアンの言葉から

『赤毛のアン』というカナダの小説、小学生の時に読んだ思い出がある。美しい緑と海に連なる村で、孤児院から引き取られた感性豊かな少女を主人公とした物語だ。 今年が、その小説(原題 Anne of Green Gables)の出版百周年にあたると聞く。先日、それを記念したテレビ番組を見た。物語にまつわるエピソード、舞台となっているプリンス・エドワード島が紹介され、興味深かった。 ちなみに作者のルーシー・モード・モンゴメリーは、長老教会牧師との婚約時代に『赤毛のアン』を記したという。36歳での結婚後も、彼女はこの物語の連作を書き続けた。同時に牧師夫人として病弱の夫を助け、苦悩しながら教会に仕えつつ、母として二人の息子を立派に育てあげたそうだ。 『赤毛のアン』の最終章に、主人公アンのこのような言葉が記されている。「今、道は曲がり角にきたの。曲がった向こうに何があるかわからないけれど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ(松本侑子訳・集英社文庫」 (Now  there is a bend in it. I don't know what lies aroud the bend, but I'm going  to believe that the best does.)。おそらく作者自身もこの言葉をかみしめながら生涯を歩んだのだろう。 私たちの人生、確かに先は見通せない。時に思いもよらない曲がり角にさしかかることもある。それでも信じて、希望をもって立ち向いたい。その時、必ずやそこに「すばらしい世界」が開かれるはずである。
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by aslan-simba | 2008-07-04 20:15 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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