八木重吉の詩によせて

19世紀末から20世紀のはじめを生きた夭逝の詩人・八木重吉。彼の詩を味わいながら黙想する。 「わたしのまちがいだった  わたしの まちがいだった  こうして 草にすわれば それがよくわかる」(草にすわる)。「花はなぜうつくしいか  ひとすじのきもちでさいているからだ」(花)。 忙しなく過ぎてゆく日々の中で私たちも、自己を見つめ、省みる時をもちたいと願う。できれば、草に座り、花を見つめ、その魂を感じながら・・・そして心を高く上げ、空を見上げてみたい。広々とした空の雲の動きも、私たちにきっと何かを語りかけてくれるはずだ。重吉は雲を歌う。 「くものある日 くもは かなしい  くものない日 そらは さびしい」(雲)。 東京郊外の小さな村で生まれ、高等師範学校に学び、長じて英語の教員として兵庫県や千葉県で働いた彼の静かな思い。否、それ以上に詩人として、また信仰者として生きた彼の研ぎ澄まされた願いが、百年の時空を超えて、今、私たちの胸のうちに響いてくるようである。「世に 花咲かば 神あるをしれよ  世に 無心 なるものあらば 神あるをしれよ  神のこえは ほそく かすかなりと」(世に)。ふと、神に祈っている自分に気づかされる。感謝
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by aslan-simba | 2008-05-31 20:21 | Comments(0)

木々の緑がひときわ色濃くなってきた。初夏の到来が実感される。今朝は新たな季節の風が庵のなかを通り抜け、仕事に没頭する私の頬をなでた。はっと我に帰り、一息、深呼吸する。窓の向こうが明るく輝いていた。 風のさそいに家を出てみた。足が向いたのは平等院、歩いて一時間ほどの距離のはずである。思えば、宇治や平等院の名は子供の頃から知っていた。母が十円玉を見せながら宇治の平等院の話をしてくれたことを思い出す。四十年も前の話だ。 その平等院を訪れたのは中学時代の修学旅行と、京都での商談帰りに立ち寄ったサラリーマン時代の二度。別に、これといった印象はなかった。 ただし近年、古都の文化財のひとつとして世界文化遺産に登録され、寺内も修理、整備をされたと聞いている。もしかしたら「地上の極楽浄土」の姿を復元しているかもしれない。藤の花も美しいはずだ。 気づけば、すでに京阪宇治の所にまで来ていた。そこから宇治橋を渡り、土産物屋の並ぶ参道を道なりに歩く。修学旅行の生徒たち、観光バスで訪れている人たちが予想外に多い。 境内に入る。藤の季節は終わっていたが、極楽浄土の風景は確かにあった。池ごしに見る鳳凰堂の格子の障壁に付された丸窓から、定朝作の阿弥陀如来像の柔和な顔がのぞいている。ふっと、主イエスの「幸いなるかな」の御言葉が耳元を走り、爽風が全身を吹きぬけて行くのを感じた。
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by aslan-simba | 2008-05-23 10:49

神の言葉と浮生なる生

「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。―中略―しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」(イザヤ書40:6-8、口語訳)。 ある知人が自死された。覚悟の死と伺うが、生前の勇姿を知るだけに侘しさがつのる。ご冥福を念じつつ、黙想する。 聖書は人間の輝きと、その美しさを植物に喩える。「野の花のようだ」、と。そこには同時に脆さと、はかなさ、そしてむなしさがある。「草は枯れ、花はしぼむ」の表現が、その消息を端的に語る。すなわち、人の生は栄枯盛衰、諸行無常を纏うのである。 蓮如上人の「白骨のお文」の書き出しに、「それ人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに・・・」とあった。人の生の姿が「浮生」、水草のように根が地につかず、確かなよりどころを持たないものと指摘される。よって、人は「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきもの」と委ねる信仰が称揚されるのである。 なお、聖書は、永遠に変わらざる「神の言葉」を語っている。この神の言葉を私たちは、主イエス・キリストご自身として捉えてきた。そして、その御言葉ゆえに、いかに今が辛く厳しくとも、死ではなく生きる希望へと我が身を向けられるのである。私たちは最後までお委ねしようではないか。死した後においても・・・ 合掌。
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by aslan-simba | 2008-05-16 18:56

五月の三室戸寺

「夜もすがら 月を三室戸 わけゆかば 宇治の川瀬に 立つは白波」(三室戸寺、御詠歌)。山門をくぐると、深緑の山並みが拡がっていた。その色濃い緑の斜面のキャンバスは、赤や白、薄紅色に鮮やかに彩られている。二万株といわれるツツジ、千本というシャクナゲがもたらす花々は、今を盛りに咲き誇る。そして、彼方に浮かび上がるのが三重塔。あでやかな中に溶け合う静寂と威厳。五月の宇治には、このような美もあった。立ち止まり、感嘆の声をあげる。 実は、ゴールデンウィークに三室戸寺へと行ってみた。家から歩いて三十分ほどの所に、この寺があるのは知っていた。ただし実際に足を運んだのが、今回始めてである。五千坪もある境内、ご本尊は千手観音、西国三十三観音霊場の第十番札所という。このような見事な光景が、観音信仰をもたらすのだろうか。ただし、巡礼らしき人の姿はなく。見かけたのは、もっぱら観光客とバックパックを背負ったハイカーの姿だった。ともあれ、この景色の中に足を踏み入れられただけでも、多大な御利益(ごりやく)に相違ない。私には、ここも、主イエスが共にある「癒しの空間」のように思われた。もし時間がとれたら、六月の紫陽花の時期に、また訪れたい。
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by aslan-simba | 2008-05-09 17:38 | Comments(0)

美しき五月

新たな月が巡ってきた、五月、May, Mai・・・ハイネの詩を思い起こす。「美しき五月よ 野辺に花咲きみち 胸にあふれる君への思い 輝く五月よ 空に鳥さえずり 君に捧げん とこしえの愛」。学生時代にこの原詩を暗誦したことが懐かしい。「イム ヴンデルシェーネン モナート マイ(Im wundershönen Monat Mai)」。まさに五月に恋するような詩である。長年、ヨーロッパに住んできた友人の話によると、ドイツでは一年中でこの月が、もっとも快適で美しいそうだ。極東の日出ずる国に住む私たちにとっても、風薫る皐月の麗しさは言い知れない。 今日は休日、明るい初夏の光に誘われるように家を出て、歩き始めた。爽やかな風が行き渡る街角。やわらかな日差しの中を泳ぐ鯉のぼり。垣根に咲きこぼれる赤、白、紅色のツツジの花々が美しい。野草たちも今が盛りとばかり花をつけている。そして新緑の木々の息遣いが間近に感じられる。濃さを増してきた緑と共に、青緑、薄黄緑の若い葉をつけた木々が、私たちに力をくれる。神さまが私たちを励まし、勇気を与えるためにくださったこの緑の自然。室生犀星の五月の詩も思い出した。 「悲しめるもののために みどりかがやく くるしみ生きむとするもののために ああ みどりは輝く」。大丈夫。新緑の五月の季節がある限り、希望はある。
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by aslan-simba | 2008-05-03 09:26 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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