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牡丹の花と希望

警察の仕事を十年ほど続けて来た女性が、後輩の学生たちへ向けて語った話を聞きながら、色々と考えさせられた。たとえば、彼女が上司から言われた言葉。「あまりにも酷く、辛いと思うだろうが・・・しっかり見つめておけ。現実の醜さを心底、見据えることのできる人間こそが、真に本物の美しさを理解できるのだ」。学生時代、美しい被写体を求めて写真を撮ることの好きだった彼女、仕事でシャッターを切るのは殺人現場の証拠写真。上司の言葉は、目を背けたくなるような「被写体」を前にした時に受けたアドヴァイスだったという。 さらに、自らの体験を踏まえ、彼女はこうも述べていた。「現実はどこまでも厳しい。学生時代に描いていたような甘いものではない。だから、たやすく軽く『癒し』だの『許し』だの『救い』などとは言えない。それらのものは、厳しい現実の極みにあるのではないか。言葉を換えれば、その極みにこそ希望があるはずだ」と。 話を伺いながら、ある司祭の記した「牡丹の花」のエッセイを思い起こした。「くっきりと開き、それ以上は散るしかない極みまで開ききった花、キリストの強烈なイメージをそこに見る」・・・牡丹の花に喩えられるられるような主イエス・キリストの「極みまでの愛」、厳しい現実の極みにある希望を本物にするために、十字架で一命を落とされた主のお姿に思いを馳せながら会場を後にすることができた。 外には明るい晩春の太陽と、見事に開いた大輪の牡丹の花があった。
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by aslan-simba | 2008-04-25 09:38 | Comments(0)

桜のときは過ぎ

二週間ほど前のことだが、小さな桜並木が近所にあることを知り、その桜吹雪の舞うなかを、ゆっくりと時間をかけて歩いてみた。妙に気持ちが静まり、安堵感に包まれる思いがした。 かねがね感じてはいたのだが、桜の花には、不思議な「宗教性」があるようだ。坂口安吾は、それを「不気味なもの」として描く(『桜の森の満開の下』)。彼は、桜の花を「怖いもの」「人を狂わすもの」とした。確かに、そういった面も否定できないだろう。しかし、それ以上に、私はそこに「癒し」の作用を感じる・・・言葉を換えれば、「心なごむ、明るく豊かな神秘性」を、そこに見るのである。「桜の花の宗教性」、そういえば桜の花は、『古事記』に登場する女神コノハナノサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)が、富士山の頂上から種をまいて咲かせたのが最初という。コノハナ(木花)とは桜の花を意味し、この女神は富士山の祭神だそうだ。他にも桜の花にまつわる話は多々あるが・・・。 今朝は、すっかり葉桜になった並木が、冷たい春の雨に打たれ、佇んでいた。あの満開の日々がはるか遠い昔のように思われる・・・桜の季節は終わった。もっとも、百花繚乱の日々はまだまだ続く。道々、さらに数多くの他の花々をも楽しみ、癒されたい。神さまに造られた豊かな自然に感動を覚えながら。 感謝。
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by aslan-simba | 2008-04-18 19:49 | Comments(0)

念仏詩人の詩

十年前に亡くなった念仏詩人、榎本栄一の詩を読む。「二坪半の店 十坪の家 四人の子供と妻 これが私の 今日までの全部である 少しあわれなようでもあるが 冥恩をかんずること切である」(冥恩・・・家と店 自転車で三十分の距離)、「またひとつ しくじった しくじるたびに 目があいて 世の中すこし広くなる」(しくじる)、「わがはからいがまじるので 私は失敗する 失敗だらけのなかで 私は仏に遇う」(遇う)、「シドロ モドロ 私が歩いた足あと よく見ると この足あとのなかに もう一つの足あとがあった」(同行二人)。 明治36年生まれ、人生の浮き沈みを経験した榎本さん、東大阪の小さな小間物屋を閉じたのが74歳のとき。若いときから好きだった詩は、60歳を過ぎてから信仰に託して本格的に詠むようになったという。こんな詩もある。「私の住んでいるところは 穢土というて 煩悩がからみ合っているが 春がきたら 花が咲く」(穢土)。 詩を味わった後は外に出て、明るい日ざしの中を散策した。道行く人々の春の装い、すれ違う若者たちの笑い声、ただよう若葉の香り・・・復活の季節に感謝しながら、新たな期待を胸の内にふくらます。失敗も主(阿弥陀如来、大日如来、観世音菩薩・・・などと読み替えてくださっても構わない)に在って嘉せられ、穢土が浄土に、私たちの場がいつか「神の国」になることを信じたい。そして、最後まで希望を捨てずに、どこまでも復活の主と共に歩み続けたい・・・
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by aslan-simba | 2008-04-09 20:43 | Comments(0)

新たな年度に

満開の桜の下、四月を迎えた。新たな年度の始まりである。国や役所、企業や学校などの組織にとってはもちろん、個々人にとっても、ここに更なる新たな歩みが始まる。それは入学の時、就職の時、あるいは新しい仕事を始める時かもしれない。また、人によっては、それまでの歩みとは別のところへと、乗り出して行かねばならないような時かもしれない。いずれにしても、人生の節目の場に雄々しく立ち、未来へ向けて大きく羽ばたいてほしい。 今、その新たな旅立ちへと向う人に、こんな言葉をおくりたいと思う。「たったひとりしかいない自分を たった一度しかない一生を 本当に生かさなかったら 人間生まれてきたかいがないじゃないか」(山本有三『路傍の石』より)。どんなときにも頭を垂れずに、しっかりと前方を見つめて歩もう。そして、そんな人生を、主が同行二人(どうぎょうににん)で歩んでくださっているのである。 心より祝福を祈りたい。「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」(アロンの祝祷・民数記6:24-26)と。主に在って、必ず道は拓ける。臆することなく歩み続けようではないか。
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by aslan-simba | 2008-04-02 09:39 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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