春色高下なく

復活節の季節を迎え、やわらかで暖かい日差しが甦ってきた。花々が、いたるところに咲き誇っている。見上げれば、淡い薄紅色のソメイヨシノ、今年も桜の季節を迎えた。木蓮や椿も華麗に輝く。そして、足下のカラスノエンドウ、ペンペン草、仏の座といった野草たちも、花をつけている。どれも美しい。 一日の終りに、近隣の土手を歩き始めた。頬をなでる春の夕風が心地よい。目の前に黄色く輝く菜の花の一群をみつめながら、「菜の花畑に入日薄れ、見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし」と口ずさんでみた。心躍るようなこの季節は本当に麗しい。 禅語に「春色無高下 花枝自短長」(しゅんしょくこうげなく かしおのずからたんちょう)という言葉がある。春の風情に高低はない。季節の恵みは均しい。しかし、花を支える枝は均一ではない。また、咲いている花も色、形、大きさ、それぞれに異なる。これが自然である、と。つまり、それぞれの個性が相まってこそ、この「季節の美」が造り出されるのである。一つひとつ、一人ひとりが均しく与えられている尊い「いのち」が、それぞれに豊かな個性をもって花ひらき、「神さま」という大きな「いのち」の中に融けこむ「復活の春」・・・。 明日もまた、うららかな春の日差しが注がれるだろう。与っている自他の「いのち」をいとおしみながら、今、なすべきことに精一杯、取り組みたいものだ。合掌
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by aslan-simba | 2008-03-27 11:34 | Comments(0)

復活祭の春

早いもので三月も終盤、一雨ごとの暖かさを実感しながら新たな季節を迎えた。暦は正直である。「暑さ、寒さも彼岸まで」というが、春分の日が過ぎ、本当に暖かくなった。うごめき始めた大地の自然、その新たな胎動を実感する。草木は若芽をつけ、花々のつぼみは大きくふくらんでいる。ウグイスや春の鳥たちのさえずりに彩られた、うららかな朝の日ざしのなかには、復活の朝の足音が聞こえる。 復活祭・・・キリストの復活を記念するこの日を英語で、イースター(Easter)と称するのは周知の通りだが、ドイツ語ではオステルン(Ostern)という。両語は共に、ゲルマン神話の「東」から昇る、「あけぼの」の女神エオストレ(Eostre)の祭りに由来するという(ちなみに、東は英語east,ドイツ語 Osten)。輝きを取り戻した暖かい太陽、回復した自然の恵みを喜び祈る「春の祭」が、義の太陽(マラキ書3:20参照)キリストの復活と結びつけられたようだ。固有の文化、しきたり、信仰などと、復活の朝の光は豊かなつながりをつくり希望を与える。 あるご住職が、この時期の朝日に輝く自然に感動し、夕日に極楽浄土を思い、「朝日に希望を、夕日に反省を」と記されていた。至言である。ただし、「復活のいのち」は「夕べの悔い改め、あしたの希望」とも言い換えられるはずだ。それに与って今を生かされる。感謝にたえない。

*復活祭の礼拝は今度の日曜日(3月23日)です
お時間が許せば是非、お越しください。お待ちしております。説教題は「いのちの夜明け」、祝会も楽しんで頂けると思います。
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by aslan-simba | 2008-03-21 19:02 | Comments(0)

受難週の足音

奈良・東大寺の「お水取り」も終り、春色にわかに深まってきた。今度の月曜は彼岸の入り、余寒も薄れ、一雨ごとの暖かさを実感する。 周知のように、今年の教会の暦によると、明日の日曜は棕櫚の主日である。ロバに乗ってエルサレムに入って来られる主イエスを、人々がオリーブの枝を振り、「ホサナ、ダビデの子にホサナ」と呼ばわり、道に上着や棕櫚の葉をひいて出迎えた記念日。ここに受難節(レント)のクライマックスともいうべき受難週(聖週)が始まる。 懺悔と精進とをもって過ごすこの一週間は共々に、聖書をひもときながら過ごしたいものだ。そんな願いをこめて、受難週の主イエス・キリストの足取りを、最古の福音書であるマルコ福音書から辿るべく、マルコによる聖書日課を記しておく。 日曜日(棕櫚の主日)は11章1~10節、月曜日(宮清め)11章15~19節、火曜日(神殿説教)11章20節~13章2節、水曜日(オリーブ山説教)13章3~37節、木曜日(洗足木曜日、最後の晩餐・ゲッセマネ・逮捕)14章12~72節・[ヨハネ13章1~20節]、金曜日(受難日・聖金曜日)15章1~47節、土曜日(聖土曜日)16章1節。なお、主の洗足の出来事はヨハネしか記していないので、木曜日はヨハネ福音書の箇所を付け加えた。ちなみにこの木曜日は「緑の木曜日」とも称され、新たに萌え出た野草を摘み、それをスープにして食す習慣がヨーロッパの一部地域にあるという。七草粥のようだ。 いずれにせよ、厳しく寒い暗い冬から、草木が芽吹き、自然が甦る明るい春へと転換するこの時期に復活祭(イースター)を迎える。この復活の春には、きっと良いことが訪れる。そう心から信じ、祈っている。

*桃山栄光教会のイースター(復活祭)ご案内:
3月23日(日)午前10時30分より11時30分頃まで、イースター礼拝。礼拝後、12時頃からはイースターのお祝いの会を行います。会費は無料(ただし、礼拝時には席上自由献金がプログラムにありますが、気にせずに)、どうぞ、お気軽に手ぶらでお越し下さい、気さくな教会です。なお、イースターに限らず毎日曜日10時30分より礼拝を行っています。お立ち寄りくだされば、嬉しく存じます。
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by aslan-simba | 2008-03-15 10:39 | Comments(0)

寒さもゆるみ、春の到来を感じるこの頃だが、いまだレントの日々は続く。例年、この時期には、主イエスのエルサレム入城から開始される「受難物語」を読み、思いを十字架に集中する。そこに、新たな気づきと、厳しい現実を乗り越えて行くための、さらなる勇気を頂くのである。 今朝はルカによる福音書から聴いた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。最後の晩餐の席上で、主がペトロに言われた言葉として記される。あわせて、彼が三度に渡って主を否認することも、その文脈で予告されている(34節)。十字架を前に、離反して行くこの筆頭弟子の今後を知りつつも、なお、その者のために祈られ、励まされた主イエス・・・「あなたのために祈った」、何と深く、また重い御言葉ではないだろうか。 自分に向けられた御言葉として、これを聴くときに、「人生における苦しみのすべては如来の励まし」「われわれは知らなくても、仏に願いをかけられ、望みをかけられている」という真宗の思想家、曽我量深(そがりょうじん)の言葉、また「苦しんでいる自分を受け容れなさい。人生が、これからのあなたに期待しているのです」と語ったヴィクトル・フランクルの表現とも重なる。そう、私たち一人一人も、ペトロと同様に、主イエス・キリストから祈られ、励まされ、期待されているのである。実に有り難く、もったいないことだ。これを心に刻み、過去を悔やみ、過ぎたことに縛られるのではなく、未来に向け、新たな地平に足を踏み出そうではないか。主の御旨に応えるためにも・・・
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by aslan-simba | 2008-03-07 09:30 | Comments(0)

ウグイスとひなまつり

「うぐいすのなく野辺ごとにきてみれば うつろふ花に 風ぞ吹きける」『古今集』。 二週間ほど前から、うぐいすの声を耳にする。まだ完成されていない幼い鳴き声に、レントの日々の浅き春を覚えてきた。それでも気づけば、暦は弥生・三月。すぐに桃の節句を迎える。 我が家でも子供たちが小さかった頃は、「おひなさま」を飾った。関東の父を招き、皆で「ひなまつり」を祝ったこともあった。京都へ来てからは、いつしか、そうしなくなった。子供たちが大きくなったこともあるが・・・ ともあれ、あの頃と状況は大きく変わったものの、雛祭りの時期には、不思議に心華やぐ思いがする。それと同時に、この祭りにも十字架を意識する。日本人としてキリストの福音に与っているゆえかも知れない。 平安時代の宮中に始まり、江戸時代に盛んになったといわれるこの行事、起源は古代中国の周の時代の「上巳の祓(じょうしのはらい)」から来ている。上巳とは旧暦の3月3日のことだが、この日に人々は邪気を祓うべく川に入り禊を行ったという。雛人形も、自分たちの厄を人形に移し、水に流す「流し雛」が元々の形だったようだ。そこに、荒野の誘惑の出来事、洗礼、さらに十字架の贖罪・・・が、ほうふつされるのである。イエス・キリストは、私たちの文化、行事、日常のなかにも深く宿られているように確信する。 うぐいすの声が聞こえてきた。「ひなまつり」の願いと、近づきつつあるイースターの希望が一つに融け合い、私たちに告げられているようだ。
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by aslan-simba | 2008-03-01 09:27 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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