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クリスマスの言霊

ある方が、このような詩を紹介してくれた。「ひとつのことばでけんかして ひとつのことばで仲直り ひとつのことばでおじきして ひとつのことばで泣かされた ひとつのことばそれぞれに ひとつのこころをもっている」。作者は北原白秋とのこと。 言葉には確かに、不思議な力がある。古代の日本人は、それを「言霊」(ことだま)と称し、さらにはこの国を「言霊の幸ふ国」として捉えた。ギリシア人たちも同様に、言葉の力をロゴスと呼び、理性や知恵、そしてそこに真理を見たのである。改めて言葉の威力を考えさせられる。ちなみに、キリスト教も言葉への信頼によって成り立っている。それは、「言葉を通して、歴史に参与する神」への信仰が前提となる。聖書の語る神の言による天地創造、主の御言葉による奇跡といった出来事は、「神の言の事実」の神話的表現と解せよう。このように言葉の力は、古くから広く世界中において理解されてきた。 しかし、今日の情報社会では、その本来の力が見失われているように思えてならない。洪水のように溢れ出ている言葉の現実はあるものの、むなしく無責任な言葉が多すぎるのである。その世界に、今年もクリスマスが来る。それは「神の言が私たちの間に宿られた出来事」(ヨハネ1章参照)を示している。「ひとつのこころ」を神さまが私たちにさし出されたのである。クリスマスの「ことば」がある限り、そこに希望はある。その言霊を大切に・・・
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by aslan-simba | 2007-11-30 18:08 | Comments(0)

落葉

色づいた銀杏の葉が落ちる道を歩きながら、「落葉」の詩を思い起こす。「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し  鐘のおとに 胸ふさぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや  げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな」。すらすらと口をつくのは、中学生のときに暗誦させられたおかげである。 原詩(Chanson d'automne)の作者ポール・ヴェルレエヌは19世紀フランス象徴派の代表的詩人といわれ、初期の作品群は高い評価を受けている。この詩は、彼の処女詩集(『土星人の歌』)のなかに所載されたもの。それに明治の文学者・上田敏が、見事な日本語訳を施した(『海潮音』)。この季節、静かな哀愁を帯びた言葉の調べが心に響いてくる。 立ち止まって、人間の内面を象徴的に描いたこの詩の魂に思いを重ねてみる。自らの歩みを省みながら・・・ただ、いつまでも感傷だけに浸り続けてはいられない。自分にはなさねばならない使命がある。なお、ヴェルレエヌがこの詩を記したのは、二十歳の頃だったという。そのあまりの早熟さには驚かされるのだが・・・彼の後半生は自堕落で破滅的になり、不遇と貧困のうちに世を去ったそうだ。 小春日和の陽だまりのなかを再び歩き始める。晩秋から初冬への移行は早いものだ。黄金色の輝きの中にある今のときを精一杯に生きたいと願う。人生の冬を喜びのうちに迎えるためにも。
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by aslan-simba | 2007-11-22 22:09 | Comments(0)

秋の輝き

色づきはじめた町並みを見つめながら思う。紅や黄金色に装った山々から、秋がひそやかに野に降りてきたことを。見上げる街路樹も秋の色。季節は美しい静寂のなかに、いよいよ大団円を迎えようとしている。 庵へ戻り、仕事を再開する。パソコンに向いながら、何気なく手元のラジオをつけると、流れてきたのは、”Autumn in New York” (ニューヨークの秋)だった。懐かしいこのジャズのスタンダード・ナンバーに、しばし聞き入った。「・・・きらびやかに着飾った人々の群れ、揺らめき輝く雲間、はがねのようなコンクリートの街にひたりながら、ここが、わたしの故郷だと感じる」(Glittering crowds and shimmering clouds in canyons of steel, they’re making me feel I’m home.)・・・あのグラウンド・ゼロと称されたWTC跡地の再建工事も進んでいると聞く。時の流れと移ろい行く季節のなかに、人々の悲しみが癒され、まったき平安で覆われることを心より祈りたい。今頃、セントラル・パークの木々も、晩秋の日差しのなかに輝いていることだろう。 鮮やかな彩りを示した木々の葉は、しかし、じきに散って行く。この地においても、かの地においても・・・ただ、これで終りではない。希望のときはここに始まるのである。クリスマスを待つ新たな季節の到来とともに・・・
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by aslan-simba | 2007-11-14 19:29 | Comments(0)

Gelassenheit=放下

苦難や困難との出会いは、人生の歩みに付きまとう。大切なのは、その中で如何に平静を保ち、冷静に事柄に対処できるかなのである。 「ゲラッセンハイト」(Gelassenheit)というドイツ語がある。その「平静」や「冷静」を意味する語だが、中世のキリスト教神秘主義者たちはこれを、「我執を捨て、神に委ねきる」境地として用いた。その代表者エックハルトはいう。「それゆえ私たちの主はこのように言ったのだ。私の弟子になりたい者は、自分を捨てなければならない、と」(マルコ8:34参照)。この意味でこの言葉は、禅語の「放下」(ほうげ)とも訳される。 最近知ったのだが、ドイツ系移民のアーミッシュの人々も、このゲラッセンハイトを自分たちの信仰の核にしているそうだ(池田智『アメリカ・アーミッシュの人びと』)。周知の通り、彼らは現代文明に無縁な昔ながらの質素な暮らしを今も続ける。また、昨年起こった学校での銃撃事件の際、年長の少女が他の生徒たちを助けるために、自ら犠牲を申し出たニュースも記憶に新しい。それらの理由の一端も、ここに垣間見られるようだ。 なお、私たちも私たちなりに、信仰的ゲラッセンハイトに生きることは可能だろう。根底に据えるのは、<いのち>の根源への徹底した信頼である。そして、そこから現実を生きる大きな力に与るのだ。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)とは、このことである。
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by aslan-simba | 2007-11-09 16:48 | Comments(0)

応無所住而生其心

仏典に感慨深い言葉を見出すことがある。たとえば、「応無所住而生其心」(おうむしょじゅうにしょうごしん)という金剛経に登場する表現。これは、この経典の教えのエッセンスであり、お題目のように唱えられることもあると聞く。読み下せば、「まさに住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」となる。意味するところは、執着しすぎない、こだわり過ぎないところにこそ、心の本当に自由な働きが生じるということだろう。一言で言えば、「囚われない心」の大切さである。 仏典研究をされている方が、「布施」という行為は、この心をもって行われるべきだと、次のように記している。「『私が』『誰々に』『何を』施与するという跡づけをした布施をしてはならない」、それは「私・対手・物という三者にとらわれているということ」「とらわれの心によって施与するならば、それは心に惑いをもたらすこととなる」(『仏教経典散策』より)。主イエスも言われる。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)と。 もっとも、話は「布施」に限定されない。私たち自身の生き方全般に関わることになるはずだ。世知辛い世にあっても、それに呑みこまれずに、自由でさわやかな心をもって生きたい。実に、私たちはそう生きられるように招かれているのである。
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by aslan-simba | 2007-11-01 17:16 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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