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月白風清

いつしか法師蝉の声が聞こえなくなった。かわりに夕べと早朝には、虫の音色がはっきりと耳に響いてくる。道を歩きながら目にするのは秋の花々、りんどう、コスモス、曼珠沙華が美しい。優しい日差しに心和み、空を仰げば、行く雲が新たな季節をたたえているのが分かる。あの暑く燃え盛った日々は、既に過ぎ去った。最近の朝夕は、肌寒いくらいである。  気持ちのよい夕べに庵を出て、こうこうと輝く月の光の下に身を置いてみる。すがすがしい風が緩やかに、この身を吹き抜けて行く。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ福音書3:8)・・・この「風」が、今、ここに来てくださったようだ。生きとし生けるものすべての夏の疲れを癒されるために。有り難いことだ。「風」の流れに浸りながら、全身が清められ、「私」が「自然」のなかへと溶け込んでゆく。  禅語のひとつとして引用される「月白風清」(つきしろくかぜきよし)という言葉(蘇軾の「後赤壁の賦」より)が思い起こされる。禅において「白い月」とは「仏の心や姿」をたとえ、「清らかな風」は「徳の清涼さ」を意味するという。そして、自らがその月、その風となって生きよ、といわれるのである。私たちも、そのように生きられるはずだ・・・日々満ちて行く白い月に希望を託し、心の曇りをふき払う風の力に身を委ねて人生を歩もうではないか。初秋の輝きを喜びながら。爽やかな人生の転機が、確かにここにある。
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by aslan-simba | 2007-09-26 20:15 | Comments(0)

いのちに思いを

「啼きながら 蟻にひかるる 秋の蝉」(正岡子規)。まさにこのような光景を目撃し、胸が締め付けられた。夏が戻って来たような暑い日、なお生きようとする蝉が、こういった最後を迎えねばならないとは・・・これが自然界の摂理だろうか。 庵に戻り、聖書を開ける。たまたま出てきたのが、ルカ福音書12章。そこに「愚かな金持ちのたとえ」(13-21節)が記されている。話は、大豊作を喜び、蔵を建て替えて、その収穫物を貯蔵すれば一生遊んで暮らせると、ほくほく顔の男が、神さまから「今夜、お前の命は取上げられる」と言われるストーリーだ。「人の命は財産によってどうすることもできない」(15節)という教訓が確認され、生ける者の<いのち>の無常さが描かれている。はかない人間のいのち・・・私たちの生も、あの蝉のいのちと同じく有限であり、一寸先は闇に相違ない。人生の行く末、ただ一つ確かなことは、私たちは必ず「死する」ということだけだろう。「メメント・モリ」(Memento Mori―死を覚えよ)を、改めて心に刻む。 それでも、今日ここに「生かされている」自分を深く思う・・・この事実を噛み締めるときには、「感謝」以外には表現できない。たとえ脆く、弱く、貧しい自分であっても、神によって在らしめられるこのいのちを輝かせようと願う。自他の尊いいのちに思いを馳せ、「有り難うございます」、「勿体無い」と頭を垂れ、手を合わせる者であり続けたい。一度限りの今生のいのちを、いとおしみながら・・・それが彼岸へと連なる「永遠のいのち」への希望を、確かならしめる、と信じたい。(お彼岸の入りの日に記す)
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by aslan-simba | 2007-09-20 17:17 | Comments(0)

未明混沌

まだまだ日中は蒸し暑い日が続くが、夏は確かに終焉を迎えている。昨夕、散歩に出たときに気づかされたのは、この最後のときを照らす陽の光のつつましさだった。それは勢いに欠け、寂しそうに見えた。法師蝉の鳴き声も聞こえてきたが、どこかもの悲しく、ものうげだった。 晩夏、初秋・・・季節の変わり目のこの時期、眠りにつけない夜がある。昨夜もそうだった。夜半から降りはじめた雨の音に目がさえ、色々な思いが頭のなかを駆け巡った。午前三時過ぎに至って、ようやくウトウトし始めたのだが・・・それでも、いつものように四時前には目覚める。夜と朝の境目のようなこの時間はまだ暗い。しかも今朝は雨が降り続いている。 起き上がって、しばしの祈りと瞑想のために庵へと向かう。私は未明混沌ともいうべきこの時間を大切にしている。仏教詩人の坂村真民も、このように詠む。「・・・わたしはそのみめいこんとんのなかに みをなげこみ てんちとひとつとなって あくまのこえをきき かみのこえをきき あしゅらのこえをきき しょぶつしょぼさつのこえをきき じっとすわっている・・・すべてはこんとんのなかにとけあい かなしみもなく くるしみもなく いのちにみち いのちにあふれている」(「みめいこんとん」より)と。この心境を私自身も、神との対話のうちに確認する。 そして、犬たちを起こして外へ。雨はあがっている。だんだんと白み行く空を仰ぎながら、犬たちと共に走る。今日の<いのち>に感謝し、私たち皆にとって良き一日でありますようにと、念じながら走る。
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by aslan-simba | 2007-09-13 08:55 | Comments(0)

風立ちぬ

灼熱の太陽の光が大地を照らしつけ、地面が焦げる。この熱気のなかを一人、はだしで歩むような孤独感・・・人間の生には、そのような厳しさ、侘しさがつきまとうものなのか。聖書が示す「罪と死」を、熱風が通りすぎた後の荒れ野の風景としてイメージする。私たちが生きる「娑婆」の世界とは、所詮そのようなものなのだろうか。つい先日まで真夏日の庵において、現実に対峙しつつ生きる意味と希望のありかとを思い巡らしていた。熱い思いをもって。  九月最初の週の今、和みを帯びた爽やかな風が立ちそめている。今日はその庵で、堀辰雄の記した文章がゆっくりと読めた。「『あなたが自分のまわりに孤独をおいた日々はどんなにか美しかったか、僕はそれを羨むことでいまを築いていると、いったっていいくらいです・・・』と、そんなことを若い詩人の立原道造が盛岡への一人旅から私達のところに書いてよこしたのは、彼が亡くなる前年(1938年)の秋だった・・・」(「木の十字架」より)。孤独な思いと死の予感を「美」へと昇華して把握していた立原道造の姿。それは取りも直さず堀辰雄自身の佇まいでもあったと言えよう。西欧的教養に裏づけられた抒情豊かな作品は、二人に共通する。綴られたのは主に昭和十年代である。彼らはどのような思いで、その時代の流れに向き合っていたのだろう。おそらくは自然体だったはずだ。それが今の時にも色あせない、美しい作品に仕上がっている。  初秋、「風立ちぬ、いざ、生きめやも」(Le vent se lève, il faut tenter de vivre.)と心に響く。しなやかな孤高の精神を、彼らの作品からも学びたいものだ。
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by aslan-simba | 2007-09-07 13:17 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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