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小さい秋の到来

厳しかった残暑も一段落。雨上がりの高く澄んだ青空がすがすがしい。おだやかで優しい季節が到来しようとしている。そのなかを今日も、いつもの山道へと出発する。少し前までは暑さのために途中で息が荒くなったり、座り込んでしまうことがあった犬たちも、元気に尻尾を振りながらついてくる。 「春は野から山へ登り、秋は山から野へと降りてくる」と言われるが、山も装いを始めながら、新たな季節の気配を私たちに告げている。しばらくすると秋の色に、すべてが包まれて行くだろう。野においても、実りの日々は近いはずだ。ふと、「誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが見つけた。小さい秋 小さい秋 小さい秋見つけた」と口ずさむ自分に気づかされる。子供の頃に歌った懐かしい曲だ。犬たちも、私たちを囲む周りの木々など山の自然も、自らのうちに「小さい秋」を見つけているのだろうか。それに合わせるように、初秋の風が吹き抜けてゆく。その風の囁きが「すましたお耳にかすかにしみた」ようだ。心地よい。 感謝をもって迎えるこの新たな季節、自分の人生にとって何度目の秋だろうか。こんな言葉が耳元を走り抜けた。「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟 人の齢 春夏秋冬」(清少納言『枕草子』)。時は休むことなく刻々と刻まれ、人の生はその終焉に向かって歩む、と・・・若いつもりでも、人生の初秋を迎えている自分。これからはもっと豊かな思いをもって、老成してゆかねばならないと、自らに言い聞かす。諸行無常の理(ことわり)を心に刻みつつ、「私の小さい秋」を喜びながら。
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by aslan-simba | 2007-08-31 18:29 | Comments(0)

相反する思い

ページを繰りながらの古本整理。カミュの本を開くと、短編小説「ヨナ」の最後の場面が出てきた。このような文章が記されている。「それは全く白のままだった。その中央にヨナは実に細かい文字で、やっと判読できる一語を書き残していた。が、その言葉はsolitaire (孤独)と読んだらいいのか、solidaire(連帯)と読んだらいいのか、わからなかった」。主人公の画家ヨナが人生の最後にカンバスに残した言葉についてである。そこに込められた彼の思いは、「孤独」だったのか、「連帯」だったのか・・・昔、読んだときには考えた。しかし今の私は、その両方ではないかと思う。そもそも、人間には、相反するような異なる思いが同時に同居してもおかしくない。私たち自身もそうだろう。そのなかで右往左往しながら、現実の事柄を対処しつつ生きるのである。何か一点だけに絞って、それを絶対として突っ走るとき、「危うさ」が生じる。全体主義や共産主義の問題性の発端は、そこに集約されるのではないだろうか。これを宗教に引き付けて言えば、原理主義に繋がるのである。頭を柔軟にして、事柄を幅広く複眼的に見る視点を大切にしたい。新聞報道や論説に接するときもそうだ・・・この思いを教会の週報に書こうとパソコンに向かう。その時、我が庵を涼風が吹き抜けて行った。あと暫くしたら厳しい暑さから解放される。ほっとする一面、熱く輝いた季節の終焉に対する一抹の寂しさも覚える。ここにも相反する思いが交錯する。ただ、めぐり来る秋については、「幸い」のみを実感できる自分でありたい。
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by aslan-simba | 2007-08-25 08:46 | Comments(0)

お地蔵さま

いつも通り過ぎる道、そこに小さなお地蔵さまの祠が佇む。今朝は、それを磨くように丁寧な拭き掃除をする年配の男性の姿を見かけた。挨拶を交わしながら、地蔵盆が近いことに気づかされる。 私が地蔵盆という風習を具体的に知ったのは、京都に来てからのこと。京都はお地蔵さまが実に多いところだ。町の境、路地の入り口や辻に立ち、住民たちを見守り続ける姿がどこにも存在する。聞いた話によると、京都市内だけでも五千体以上の地蔵菩薩の像があるという。そのようにお地蔵さまは町や村を守る道祖神の役割を担いつつ、老若男女の願い事に耳を傾ける日常的な存在となっている。だからこそ、地蔵盆が年中行事として定着したのだろう。 なお地蔵盆が子供たちのための行事であることが示すように、お地蔵さまは子供たちの守護者として特に有名だ。その護りは現世を超え、あの世にまで至る。「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは故郷の・・・」(空也「地蔵和讃」)と、賽の河原で泣きながら石を積む子供たちを、鬼のいじめから守ってくださるように。 ちなみに、<地蔵>という名前の原意は「大地」「胎」であり、大地があらゆるものを育てる力をもつ如く、人々を救う限りない慈悲の力を持つものの意味という。それゆえ、苦しむ人々の苦悩を引き受ける「代受苦」(だいじゅく)という働きもされるのである(身代わり地蔵)。そういったことを知り、お地蔵さまを見つめ直すと、あの優しいあどけない顔が、十字架の主イエス・キリストの御顔と重なるように思えるではないか。地蔵盆には地蔵菩薩のその顔に化粧が施され、トレードマークのよだれかけが新調されると聞いている。
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by aslan-simba | 2007-08-17 09:16 | Comments(0)

<いのち>の輝き

夜が明け染める。新たな一日の開始。鳥のさえずりが響き渡る。朝の光を喜ぶ生きとし生けるものの鼓動が感じられる。多くの方々のこと、教会のこと、この世界のこと・・・そのひとつひとつを心に刻み、思い巡らしている自分が、そこに在る。「今日もここに生かされ、有り難うございます。あなたの使命を担えますように」と、与えられた<いのち>に感謝をする。 神様から頂いているこの<いのち>、それは天から急に降ってきたものではない。この地上に綿々と続く<いのち>の連鎖を経てこそ在るものだ。私たちは、父母という二つの<いのち>を継いで生まれた。遡って、祖父母の代で四つ、曾祖父母で八つ・・・このように計り知れないほどの多くの<いのち>に繋がり、それが自分の中に集約されているのである。 私たちはまた、この<いのち>を生きる上で、実に多くの他の生き物の<いのち>を文字通りに頂き、支えられている。魚類や動物ばかりではない。植物はもちろん、水、空気に至るまで頂いているものだ。この事実を忘れて、自他の<いのち>を粗末にするようなことは、あってはならない。 今朝は早くから蝉時雨が続いている。蝉は今、精一杯<いのち>の輝きをはなっているのだろう。彼らは七年間を土の中で過ごし、地上での生は一週間ほどという。その間に声をあげ、子孫を残し、死して行くのである。 自分自身も最後の時に至るまで、<いのち>を輝かせ、御旨にかなった働きを続けたい。頂いたこの尊い<いのち>を大切に。自然、動植物、そして先人たちの有り難さにも深い思いを馳せながら。
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by aslan-simba | 2007-08-08 16:57 | Comments(0)

海を想う

夕焼けの空を眺めながら、ふと広大な海の拡がりを見ているような気になった。水平線の彼方に沈む赤い夕陽が目に浮かぶ。久しく海には行っていないが、子供の頃、海の向こうはどのようになっているのだろうかと、思い巡らした記憶が甦る。 私たちは「海」からやって来たと言われる。遠い太古の昔、34億年前、地球上の最初の「いのち」は海の中に誕生した。そして生物は、その海から河口、河川を経て、陸地に棲むようになったのである。この「ふるさと」としての「海」は、私たちの体内にも刻み込まれている。人間の血液の組成は、大きな分子を除き、海水の成分とほぼ同様であると聞く。 かつて、海の向こうに浄土を思った人々もいた。もしかしたら、私たちが、やがて帰って行くのは、その「海」の彼方なのかもしれない。「祖父さも海へ 父さも海へ 兄さも海へ みんなみんな海へ。海のむかうは よいところだよ みんな行ったきり 帰りやあしない。おいらも早く 大人になって やっぱり海へ 行くんだよ」(金子みすゞ「海へ」)。この詩にも、そのような「海」への思いが込められている。 一方、聖書が記す海は、好ましくない印象をもって描かれるケースが多い。たとえば悪の力が棲む場所として。文化的背景の相違がそこにあるだろう。また海の脅威も忘れてはならない。ただし、海が、あのヨナさんを助けた大きなお魚がいる場所だと言えば(ヨナ書2章参照)、聖書的にも海への親しみはもてるのではないだろうか。 ともあれ、今日は、この「庵」で潮風を感じている。有り難いことだ。
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by aslan-simba | 2007-08-01 17:27 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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