我が庵

夏の日の昼下がり、仕事の疲れを少し覚え、手元の小さなFMラジオのスイッチを入れる。 ”Pearly shells from the ocean shinning in the sun, covering the shore”(海の真珠貝、太陽に煌めき、海辺をおおう)と、流れてくるではないか。懐かしいハワイアン、「真珠貝の歌」だ。ならば、このあたりで、「Let’s take five.(五分ほど休憩しよう)」と、しばしの休息。大きな椰子、広い海辺の模様が脳裏の中に豊かに拡がって行く。そして、ワイキキビーチの風が頬をなで、束の間のときが過ぎ行く・・・。 けれども、やはり暑い。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言いたいが。まあ我が書斎での体感温度は、湿度の高さも勘案すると、間違いなくハワイの海辺以上だろう。よって、夏の間は、窓は開け拡げている。閑静な所ゆえ、聞こえてくるのは鳥や蝉の音、朝晩の散歩を促す犬の声、車の響き、そして遠くに聞こえる電車の音といったところ。時折、ラジオをつけるのも、心の栄養になりそうだ。 ちなみに、この書斎に存在するものは、パソコン、コピー機、電話、そして所狭しとばかりに位置する本の山と私自身、及びこのラジオ。冷房はない。以前、夏にやって来たコピー修理の人が汗水たらして作業をされ、本当に気の毒に思った。私は慣れっこなのだが・・・唯一、気掛りなのは激しい夕立とそれに伴う雨漏り。つまり屋根の心配である。 ともあれ、私はこの簡素な空間に親しみを覚え、「庵」と呼んでいる。日曜日の礼拝説教は、ここから生まれ出るのである。
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by aslan-simba | 2007-07-28 14:50 | Comments(0)

勿体ない

「勿体ない」・・・子供の頃、水道の水を出しっぱなしにして遊ぶ私を、祖母がそう言ってたしなめた。「もはや戦後ではない」と言われていた頃の話。やがて、大量生産、大量消費の時代を迎え、私たちはいつしか「使い捨て」に慣らされていった。 今、「もったいない」が脚光を浴びている。物や資源を無駄遣いせずに、大事にする。環境保護や自然との共生の実践。それが「もったいない」と表現される。この「Mottainai」を国際的に提唱するマータイさん、その理念を県政に生かそうという滋賀県知事、さらには「もったいないブランド」のリサイクル商品や歌、「もったいない研究所」まで耳にする。 ところで、「勿体ない」は、また別の場面でも使用される。それは、「身に過ぎて畏れ多いこと。かたじけない。有難いこと」として。私は、「勿体ない」の中心はここにあると思う。これを理解することによってこそ、「もったいない」は定着するはずだ。 宮司で宗教学者の薗田稔氏は、「『もったいない』という言葉は本来、単に物を節約すると言う意味だけでなく、命をもったいないと思う日本人の心が込められた言葉」、「動物にしても植物にしても、あるいは物にしても、その奥に魂を見出して大切にする」生命観である、と語る(『現代宗教評論』1号)。同感だ。なお、私は、それに加えて、主イエス・キリストの十字架という象徴的な出来事に、「勿体ない」の極致を見る。取るに足りない自分を生かしてくださる主の十字架の重さ・・・本当にかたじけなく、筆舌尽くしがたいほど有難い。
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by aslan-simba | 2007-07-21 10:44 | Comments(0)

ドクダミの風景

早朝からそぼ降る雨。街の風景は色合いに欠け、鉛色一色に映る。心なしか沈みがちに。気を取り直して外に出る。いつもの道を、今朝は傘をさして。足取りが多少重くなり、ゆっくりと歩を進める。 道の途上に、一軒の廃屋があることを知った。今までは気にも留めずに通り過ぎていたが・・・。誰がここに暮らしていたのだろうか。目の前の静寂に包まれた空間に、もの思う。いつまで、このままにしておくのだろう。何気なく見渡す荒れ果てた庭先。その一角にドクダミが生い茂る。雨に濡れたその花々は十字の形を浮き上がらせていた。そして、その白い輝きが、何かを私に語っている。耳を傾けると、「喜べ。感謝」と響く。犬ばかりではない、花の声も聞けるようになったのか・・・さながらアッシジの聖フランチェスコの気分である。 それにしても、これとまったく同じ光景を以前に見たことがあった。あれはいつのことだったか。思い出そうとしても思い出せない。夢で見た景色だったのだろうか。もしかしたら、心理学でいうデジャ・ビュ(既視感)を今、味わっているのかも知れない。 同時に子供の頃の記憶も鮮明に甦ってきた。祖父の家の裏庭に生えていたドクダミの風景が、その匂いと共に。この花のことを教えてくれた母に、「ドクダミって怖いの。毒なの」と尋ねる幼少の自分が見える。隣には幼い妹がいる。暫しのタイムスリップに浸った雨の日の不思議な体験・・・我にかえり、また歩き出す。何故か、足取りが軽い。気力回復!今度は未来に向けて歩んで行こう。
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by aslan-simba | 2007-07-14 10:07 | Comments(0)

遠出の散歩道

雨上がりの夕刻。忙しなかった一日に区切りをつける。ささやかなリフレッシュタイムがここに始まる。犬を連れての散歩である。注意しながら一歩一歩踏みしめるように歩く、濡れ落葉が敷きつめられたいつもの山道。一雨ごとに深まりゆく草木の緑に感嘆しながら。 普段のコースを歩き終え、ほっと一息。ここで犬たちに、「まだ暗くなっていないから、今日は君たちの行きたい所へ遠出しよう」と告げる。彼らは、喜び勇んで、ぐいぐい私を引っぱり、夢中で先頭を切り、行ったことのない道を行った。気がつくと、洒落た町並みに入り込んでいる。真新しい新築の住宅街。その清楚な公園の入り口に梔子(くちなし)の花が白く輝き、馨しい香りを放っていた。ふっと、カラオケでよく「くちなしの花のぉ・・・」と歌っていた会社のある先輩ことを思い出した。あの人はどうしているだろうか。過去の日々の記憶が脳裏を走る。もっとも、あれから三十年も経っている。昔のままではないはずだ。 時の流れは、人の歩みを大きく変える。自分自身を振り返っても、それは言える・・・。ともあれ、私は今、ここに生かされ、健康を授かり、働かせて頂いている。感謝にたえない。梔子の花言葉は、「とても幸せ」「喜びを運ぶ者」である、と知る。共々に、そのような言葉にあやかれる人生を歩み続けたい。 半夏生の時に、遠出の散歩コースを教えてくれた犬クンたちに感謝。
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by aslan-simba | 2007-07-07 12:52 | Comments(0)

今日から七月、早いものだ。今年も半分が終わったことになる。過ぎた日々を思いながら、私たちの生というものが、過去・現在・未来の流れのなかに与えられて在ることを、今さらながら考えさせられた。本来、これは感謝すべきことなのだが、一筋縄に行かないのが人生の常。時に、過去に引きずられて、未来に不安を抱き、現在を生きる力が萎えてしまうような「自分」がある。 『法句経』に、「過去は追ってはならない。未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを強く生きよ」とある。肝要なことは、「今、現在、今日」のときに注力すべきなのである。 ある米国人の先生が興味深い言い回しを述べていた。 ”Today is a gift. That is why we call it the present.”・・・少し言葉を付け足して意訳すれば、次のようになろう。「今日というときは、神様の賜物。だからこそ、このときを今、現在/プレゼントというのである」と。 過去を悔やんでも始まらない。未来におびえても何も生まれない。神様からの贈り物である「今、現在、今日」の<いのち>を心からの感謝をもって受けとめ、精一杯に生きようではないか。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントⅡ6:2参照)であることをしっかりと胸に刻みつけ・・・そこに、必ずや希望の未来が訪れるはずだ。
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by aslan-simba | 2007-07-01 07:43 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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