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いのちの風

初夏の夕刻、一日を振り返りながら歩く。暑かった陽の光が、今は優しい。清涼な風が万緑の木々を揺すりながら、通り抜けて行く。この爽風を体一杯に受けながら歩を進める心地よさ。心身の疲労も文字通り抜けてゆく。風に癒される・・・別に不思議なことではない。聖書の言葉遣いから言えば、風は「息」であり、「霊」である。また「神の創造の力」なのでもある。偉大な力と働きが風にひそむ。「風」をテーマにうたった詩が多いのも、それゆえだろうか。最近では、「千の風になって」という歌が多くの人を励ました。このことも、その風の働きと無縁ではあるまい。なお、「千の風」の原詩は、1930年代のはじめに米国のある主婦が、知人のドイツ系ユダヤ人の少女に贈ったものと言われる。ドイツに残した母が亡くなったのを知りながらも、時代の風潮のなかで帰国できない少女を、この詩が励ましたのである(Wikipedia参照)。何とも心温まる話ではないか。他にもこの詩のルーツは、色々といわる。それだけ多くの人が「風」に癒されてきた証左だろう。 ところで今度の日曜日には、私たち一人ひとりの上に数え切れないほどの勇気と希望の「風」が吹く。「聖霊の風」だ。それは、私たちをもう一度立ち上がらせる新たな<いのちの息吹>なのである。この「キリストの霊」、「キリストの力」を、心のうちに存分に受けとめ、癒され、励まされ、新たな人生の一歩を踏み出そう。
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by aslan-simba | 2007-05-24 18:05 | Comments(6)

青い山

近所の小さな山へ向かう。清々しい皐月の空の下、初夏の風に吹かれながら。「山笑ふ」が春の季語で、夏は「山滴る」というが、ついこの間まで、笑っているように見えたこの山も、今は滴るように緑の色合いを深めている。 山道を歩きながら、口をついたのが「分け入っても 分け入っても 青い山」という種田山頭火の句。外からは、青々とだけ見えるこの小さな風景の中に、私も溶け込んでいるのだろうか。そう思うと愉快である。 山を下りながら、ふと思う。山頭火自身は別の思いを「青い山」という表現に込めていたのではないか、と。この句の直前に、「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た」『草木塔』と記されていた。いつも絶望を抱え、たえず死に場所を求めて歩き続けた孤高の人だから、「青い山」とは、「青山」(せいざん=自分の墓をつくる青々と茂った山)のことだったのかも知れない・・・。色々と思い巡らしつつ先を急ぎ、足下の確認が疎かになった・・・ドテン、「しまった」・・・転んだ私を、連れの犬は心配そうな眼差しで見つめ、顔をなめてくれた。胸があつくなる。 「大丈夫だよ」と立ち上がりながら、千日回峰という山歩きの行を達成した行者の言葉を思い起こした。「無理せず、急がず、はみださず、力まず、ひがまず、いばらない」・・・人生の山道を歩く極意もこれだろう。転ばぬ先の杖。ただ、万一転んだとしても、誠実に生きている限り、必ずそこに助けはあるはず。そう信じて今日も歩く。
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by aslan-simba | 2007-05-19 15:53 | Comments(1)

今日は母の日

「五月のそよ風をゼリーにしてもってきてください」。夭逝した詩人・立原道造が、最後の病床で婚約者に語った言葉。同じように「風薫る五月」が好きだった私の母を思い出す。 24年前の五月の連休、母は父と共にこちらに来ていた。九月に出産予定だった妻の安産を願い、「犬張子」をもって。普通なら来阪を機に、京都や奈良の寺院を必ず訪ねる母が、その時はどこにも行かずにただ、その祈りを届けるためだけに来たように思えた。 連休後しばらくして、父からの電話で、母が入院したことを知った。ちょうど母の日の頃だった。病気には全く縁のない人だったので、ただただ驚いた。そして、その一ヶ月後に他界。初夏の空の中へとすいこまれるように召されて行った。思えば、母の姿は大きかった。多くのことを教わり、また心配もかけた。 昨年末に97歳で天寿をまっとうした詩人・坂村真民も、亡くなるまで母親の有難さを語っていたという。「念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」。母の姿を思い起こしながら、坂村真民のこの詩を吟じる自分に気づく。亡き母の願い、詩人たちの思い、否、万物の祈りと一つに解け合い、神様に感謝する自分がここにある。大丈夫、「念ずれば、必ず花ひらく」との示しを受けつつ・・・。 今、優しい柔らかな風が通り過ぎる・・・芳ばしい季節の香りを振りまきながら。今日は母の日。
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by aslan-simba | 2007-05-13 07:40 | Comments(6)

八十八夜

やさしい日差しの中に若葉が輝く。八十八夜が巡ってきた。立春から数えて88日目、この夜を境に霜は降りなくなり、田植えや種まきの農作業が始まるという。春と初夏の端境期、三日後には立夏を迎える。 八十八夜といえば、何といっても茶摘、この時期に摘まれたお茶は極上の縁起物とされてきた。思えば私にも、その新茶を摘んだ体験がある。もっとも遠い昔の話、小学四年生のときだった。 その春、我が家は東京から、狭山茶の産地に出来た新興住宅街へ引っ越してきた。毎朝、茶畑を見つめながら五十分もかけて通う学校・・・さらには地元の風景、人々の姿、話す言葉、そのどれをとっても「のどか」に思えた。今の埼玉=東京県民の住処のイメージとはまったく違う。この時期には「お茶休み」があった。「お茶休み」といっても十時や三時の休憩ではない。学校が二日ほど休みになる「農繁期休み」なのである。農家の子供たちはそれぞれに自分の家で茶摘作業を手伝う。私も友達の家の手伝いをし、思いもよらず小遣いを貰った。人生最初のアルバイトだった。 そのお茶休みの前、先生がお茶の三大名産地は「静岡、京都の宇治、そしてここ狭山」と教えてくれた。宇治については十円玉の平等院の話もあった。今、その宇治に住む。お茶繋がりのご縁だろうか。そのせいか、緑茶が大好きである。宇治茶、静岡茶は勿論・・・ただ、何といっても狭山茶を最高だと思うのは、あの「お茶休み」の体験ゆえだろうか(ちなみに、お茶休みはその翌年からは無くなった)。
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by aslan-simba | 2007-05-02 09:50 | Comments(7)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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