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晩秋...素晴らしい世界

 朝夕の寒気が厳しく、学校へ行く際には、コートと襟巻が欠かせなくなりました。「立冬」が過ぎて二週間。暦は正直です。日中の太陽は低くなり、日没は日毎に早まっています。晩秋から冬への変わり目・・・。

 キャンパスへと向かう坂道、北風に舞う紅葉を見つめながら歩けば、一抹の寂しさと、過さった日々が脳裏を走ります。 ふと学生時代に覚えた「枯葉」の歌詞が口をつきます。「The falling leaves drift by my window. The autumn leaves of red and yellow.(紅や黄色に染まった秋の枯葉が窓辺を漂い)・・・」 。昔、覚えたものは不思議と忘れていません。最近の記憶力は多少にぶくなっていますが。

 そういえば、「枯葉」と合わせてこの時期に決まって思い出す英語の曲が、What a wonderful world!(この素晴らしい世界)。ルイ・アームストロングが、どこか温かみのあるしゃがれた声で歌ったジャズの名曲です。こんな牧歌的な歌詞に惹かれます。 「・・・
明るく祝福された昼間 暗く神聖な夜 なんとも素晴らしい世界だと思う。空に とてもきれいな虹が架かる 行き交う人々の顔にも・・・ 友達たちが互いに『元気かい』と交わす挨拶。それは『君のこと本当に思っているよ』と伝えている。 赤ん坊たちの泣き声が聞こえる。彼らの成長を見届けたい。この子達は私が今まで学んできた以上に、もっともっと多くのことを学んで行くだろう。なんと素晴らしい世界」。

 穏やかさ、優しさ、愛と平安・・・。そんな思いの満ち溢れるユートピアを夢見て描かれた曲だそうです。特に晩秋の歌ではありませんが、私には木漏れ日に輝く、この季節の光をそこに感じます。未来へと拓かれた約束の世界、御国の幸いを、垣間見るような気がするのです。

 じきに迎える冬。紅や黄金色に染まった木の葉がすべて散った後、今年もアドベントとなります。クリスマスは神の御言葉がこの世に宿り、滅びる以外ない人間を、その滅びから救い出し、永遠の高みへと導かれることを示しています。秋の大団円は、そんな喜びの季節への入り口・・・「
神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道311口語訳)と思います。その麗しさを心に刻み、新たな季節へと歩みを重ねたいものです。


1126日説教「信じること」要約:

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(ヨハネ黙示録714新改訳)

 人生の困難な中で、人は神さまの愛と真実を見失うことがあります。しかし神の真実は変わることはありません。やがて「患難から抜け出た者たち」として、神さまに涙を拭われて、はっきりとその事実を示される時が来るのです。

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by aslan-simba | 2017-11-20 19:05 | Comments(0)

親鸞聖人の福音

 毎年この時期に東京の菩提寺から、報恩講の案内が来る。報恩講とは「浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の祥月命日前後に、報恩謝徳の為に行われる法会」。ちなみに親鸞入滅は旧暦12621128日、新暦では翌年116日。真宗大谷派(お東)は旧暦、浄土真宗本願寺派(お西)は新暦で忌日を記念する。我が家の寺は大谷派ゆえ、毎年1123日に報恩講の法事を行っている。ただ一度も参加したことはない。

 今年も例年通り行けそうにないが、妙に親鸞のことが気にかかり、久しぶりに『歎異抄』をひもといた。この小著、今から七百数十年前、親鸞没後に弟子の唯円が記したもの。そこに親鸞の言葉と、その解釈がまとめられている。

 よく言われるが、宗教改革者ルターと親鸞の思想は実に似ている。20世紀最大の神学者カール・バルトも、その親近性に目を見張っている。ちなみに、このことに最初に気づいたのは16世紀に日本に来たカトリックの宣教師達だった。イエズス会のヴァ
リニャーノは言う。「これ〔浄土真宗〕はまさしくルターの説と同じである」(日本巡察記)と。阿弥陀如来の功徳を信じ、ひたすら念仏を唱えるだけで救われると説いた親鸞と、ルターの「信仰義認」との重なりを鋭く見抜いた宣教師たちの慧眼は見事。彼らは日本の宗教を真摯に学んでいた。

 なおこの親鸞とルター、時代的には300年の隔たりこそあるものの、若き日の苦悩、真剣な学び、後年に妻帯したことなど、その人生における共通点も多々見出せる。

 今回、『歎異抄』を読み直し、こんな言葉に思いを馳せた「
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」(阿弥陀様が長い間思いを巡らして立てられた本願をよく考えてみれば、この私、親鸞を御救いくださるためだった)。私の救いのため・・・。ルターも同様に、キリストの救いは「私のため」であったと強調している。「キリストは私のために死に、自らの義を私の義とし、私の罪を自らのものとなさった」(ロマ書講義)と。

 こんな讃美歌が口をつく。「主イエスの十字架、我が為なり」(讃美歌二編185)。親鸞を通し信仰を確認させられた思いだが、あまりにもプロテスタント的な浄土真宗・・・。 仏教は他の禅宗や真言宗等も実に興味深い。日本の先人たちの信仰からも心して学んで行きたいものだ。


1119日説教「キリストの黙示」要約:

「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に・・・栄光と力が世々限りなくありますように、  アーメン」(ヨハネの黙示録1:5―6)

ヨハネの黙示録は、1世紀末ローマ帝国内に広がった迫害最中に記された。そこに大事なことが告げられている。それは、今がどんなに辛い、過酷な現実下にあろうとも、主の愛の中に私たちがあることを忘れるなという事。心したい。



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by aslan-simba | 2017-11-13 20:34 | Comments(0)

火葬について・・・

 先日、知人のオーストラリア人の先生がこんな話をしていた(彼の奥さんは日本人)。「妻の母が亡くなり、その葬儀を親族一同が思いを一つに丁重に執り行った、そんな日本人の姿に感動した。ただ驚いたのは『骨上げ』。火葬(cremation)後に、遺灰を渡されるものとばかり思っていたが、そうではなく、出されたのは焼け焦げた仰々しい遺骨だった・・・。しかもそれを自分たちで骨上げまでせねばならないとは・・・」と。

 この遺骨を重視する火葬の習慣は、元々は仏教の採用した葬法。我が国にも仏教伝来と共に伝わった。しかし、火葬が一般化したのは、ごく最近のようだ。公衆衛生の観点からも火葬は推奨されたものの、昭和20年代においても、まだ半数近くが土葬だったという(現在はほぼ100%が火葬)。

 ところで古代ギリシアやローマでも火葬が行われていた。とりわけ地位ある市民や、貴族、上層階級、皇帝一族は火葬されたのである。あの暗殺されたユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザ)も、火葬にふされている。「カエサルの遺体を焼く火炎は、それを見る人々の胸にも燃えうつり、カエサルの葬式は、その死を哀しむ場ではなく、その死をもたらした者たちへの怒りと憎しみの場に一変したのであった」(塩野七生)と記される。

 このローマで、火葬が姿を消すのは4世紀。明らかにキリスト教の影響だった。既に3世紀にキリスト教徒は火葬を否定し、自分たちの共同墓地(カタコンベ)を造っていた。地下に空間を掘り、その内部に設置した回廊や部屋の壁を四角く切り込み、そこに遺体を安置。さらにはその墓地内中央に小さな礼拝堂を設けた。そこには「体の甦り」の希望と、逝去者との素朴な一体感を覚える彼らの信仰があったのだろう。ただし聖書に火葬を禁じる戒めのないことは付言したい。

 なお墓については、主イエスがファリサイ派批判の文脈で語った言葉を思い起こす。「・・・偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ」。外見や形を飾ることではなく、中身が重要ということだろう(マタイ23:27)。それは亡くなった先人たちへの、私たち感謝の思いもそうかも知れない。そういえば、来年1月が父親の13回忌であることに気がついた・・・。



☆11月12日説教「私のために」要約:
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」
(ヨハネ福音書11:50)
 キリストは愛によって十字架に向かわれた。それは人間的に見るならば愚かなことだろう。しかし、愛するということは、時にあえて愚かになることかも知れない。あえて損をするという選択を為し、キリストは十字架の道を選び、歩んだ・・・「私」を救うために。

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by aslan-simba | 2017-11-06 20:24 | Comments(0)

秋と黄色い蝶

  朝夕めっきり冷え込むようになった。何とはなしに哀愁を覚えるこの季節。 例年、この時期になると決まって思い起こすのが、リルケの「秋」(Herbst)という詩だ。

 「木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように 大空の遠い園生が枯れたように 木の葉は否定の身ぶりで落ちる  そして夜々には 重たい地球が あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる  われわれはみんな落ちる この手も落ちる ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ けれども ただひとり この落下を 限りなくやさしく その両手に支えてくれるものがある」(富士川英郎訳)。

 木の葉のように、やがては衰え、朽ちて落ちてゆくのが私たちの生・・・。それは「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」(蓮如)ということだろうか。しかし、そのような儚い存在である私たちを、その根底においてしっかりと支えてくれる手がある、とリルケは詠う。それは主の恵みの御手・・・主は両手で、まさに御腕をもって私たちを支えてくれるのである。 その主の御許に、召された方々のことに思いを馳せる深まり行く秋・・・。

 そういえば、これもこの時期に毎年決まって経験することがある。黄色い蝶を見かけることだ。去年もちょうどこの時期に、こう書いた。「目の前を黄色い蝶が舞い始めました。ありがたいことです。もうすぐ『聖徒の日』。蝶は『復活』のシンボル。アメリカの教会で、女性たちが胸に蝶のブローチをつけていたのを思い出します。40年も前の話ですが。また蝶は、さまざまな宗教や民間伝承でも、あの世とこの世を結ぶ存在。今、その蝶が天上の喜びを私たちに教えてくれているようです」(2016年11月2日)。

 今年もここ数日、何度も黄色い蝶を見た。私には、亡くなった人々が蝶になって、私たちのもとに来てくれているように思えるのだ。そこに、「今を大切に生きるように」と死の境を超えて、私たちを見守ってくれている先人たちの眼差しを感じるのである。彼らは私たちに「いにしえの神は難を避ける場所 とこしえの御腕がそれを支える」(申命記33:27)と伝えてくれているのではないだろうか。


☆11月5日聖徒の日礼拝「永遠に」要約:
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23:6)
 人生の残された日々に「何をなすか」は、私たちにとって大切な事でしょう。しかしそれ以上に大切なのが、何に心を向けて生きて行くかということです。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かって歩む時、私たちの限られた人生が永遠の意味を持つと思うのです。
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by aslan-simba | 2017-10-30 21:38 | Comments(0)

11月・・・教会のお彼岸

 選挙が終わった。そして台風も過ぎ去った。季節が急に一段と前に進んだようだ。朝夕は暖房が必要となった。気づけば10月も終わりに近づいている。

 迎える11月は、1日の「諸聖人の日」(プロテスタント教会は11月第一主日が「聖徒の日」)から始まる。教会伝統はこの月を「死者の月」ないし「終末の月」として捉え、教会暦における一年最後の月としてきた。逝去された人生の先輩達を追悼する、いうなればキリスト教におけるお彼岸の月ということだ。同時にまた、自ら自身のここまでの歩みを振り返る時でもあろう。

 こんな俳句が脳裏を走る。「ひととせは落ち葉の夢でありにけり」。かつて大原三千院の門前で茶屋を営み、庵をむすんでいた小塙(こはなわ)徳女が、飛花落葉(ひからくよう)を詠った句。そこに人の世の儚さが、歌われている。何とはなしに心に染みる句である。

 聖書も同様に語る。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」しかし、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40:7-8)と・・・。 神の言葉は常に変わらず永遠に残るが、人の生というものは無常であり、やがては終わり行く・・・。どんなに楽しいことも、喜びも、また嘆き、悲しみもいつかは消え果てる、と。

 ただし人は、その永遠なる神の言葉に、思いを寄せることができるのである。キリスト教哲学者パスカルは、「人間は一茎の葦にしか過ぎない。自然の中で最も弱いものである。しかし、それは考える葦である」と記した。「考える」とは、神について思うこと。つまり永遠である神に思い馳せることを意味する。さらに私たちは、信仰に与って、その永遠の神の御許へ入ることができるものと信じている・・・。ここにこそ私たちの信仰の醍醐味があるだろう。信仰者の人生とは、永遠に向けて歩を進める旅路なのである。

  旧約の詩人は詠った。「願わくは、我らにおのが日を数ふることを教へて、智慧の心を得しめたまへ」(詩篇90:12文語訳)と。私たちも人生の一日一日を大切に憶え、永遠を目指して、今を懸命に歩み続けようではないか。天上にある先達たちも、神共に在って、そんな私たちの足もとを見守り、支え、祈ってくれているものと思う・・・。 世にあって「一日一生」と心に刻み、「二度とない今日のいのち」を感謝をもって真摯に生き抜くものでありたいと願う。


☆10月29日説教「心を一つに」要約:
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17:21)
 主は祈られました。「すべての人を一つに」と。それは単に人間の間に分裂がないようにということではありません。共に「神」の家族として生きるようにという招きなのです。神は信仰者のみならず全てのものの神だからです。


 


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by aslan-simba | 2017-10-24 19:17 | Comments(0)

仮庵祭と日本の秋祭り

 秋の長雨・・・秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨というのでしょうか。降ったりやんだりの毎日。何とも言えぬ物憂い日々が続きます(湿度の高さのせいもあるでしょう)。同時に心底肌寒さを感じるようになりました。街行く人に、さすがに半袖姿は見かけなくなりました。つい先日まで、真夏を思わせるような太陽が輝いていたのが、うそのようです。

 ところで今朝、ヨハネ福音書の7章を読んでいたのですが、そこに登場する仮庵
祭(Sukkot)が、今年は104日~11日に祝われたことを、偶然ネットで知りました。この祭り、元来は果物やオリーブの収穫感謝祭だったのが、そこに出エジプトの際の荒野生活を想起するという歴史的意味が加わったのだそうです。なお仮庵とは、仮小屋、つまり荒野で生活したテントのことです。

「あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである」(レビ記234243)。今もこれを記念して、祭りの期間、自分の家の中庭やベランダにテントを張って過ごすユダヤ人は多いと聞きます。何か楽しそうですね・・・。過越祭が春、五旬祭が夏の祭りなら、仮庵祭は秋祭りということでしょう。

 さて日本もいよいよ秋祭りのシーズン。「この時期、郊外を車で走ると祭りの列に出会うことがある。刈り入れ時を迎えた田の、薄緑と黄色の稲の波に山車の朱色が映えて美しい。民俗学者の折口信夫は山車を、神が降って来るものと見ている(日本美)・・・」、ある人がそんな一文を新聞に寄せていましたが、読みながら胸が高鳴りました。 ちなみに「祭り」という語の由来は「<祀る>の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指す」あるいは「<待つ>を語源とする表現、すなわち神仏の到来を待つこと」などと言われます。

 イスラエルの人々が、古くからの自分たちの祭りの伝統を、経験と共に語り継いできたように、私たちも日本の祭りの歴史的意義と、先人たちの営みを将来へ語り伝えたいものです。 早く雨が上がり、爽やかな秋祭り日和になりますように・・・。



1022日説教「祝福の源」要約:

「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世記122

 「わたしはあなたを祝福する」と主が言われる。祝福はどこまでも、神から来るのであって、人からではありません。ですから、求められているのは、どこまでも神に信頼して、神と共に歩む人間となることなのです。




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by aslan-simba | 2017-10-16 17:33 | Comments(0)

 普段あまりテレビを見ることはないのですが、先月初めの土曜日、たまたま面白い連続ドラマを目にしました。クレージーキャッツの植木等さんを当時の付き人の目で描いた8回シリーズの物語です。何かやたら懐かしく、その時以来、見続けています。ストーリーの時代背景は昭和30年代後半・・・。ドラマの展開はともあれ、嬉しくなるのは「シャボン玉ホリデー」の再現シ―ンがしばしば登場することです。

 五十数年前の我が家の一家団欒に、日曜の晩の「シャボン玉ホリデー」は、欠かせませんでした。家族4人揃って夕食をとりながら、決まってこの番組をみたものです(合わせて6時~6時半までは「てなもんや三度笠」も・・・)。週日は仕事が忙しく、家で食事をすることの少ない父と、コントや音楽を楽しみながら、晩御飯を一緒できるのが何とも嬉しかった・・・。

 普段は無口だった父も、この時だけは妙に饒舌でした。「植木等という人は無責任な人間のようにやっているが、実はあの人、根は大真面目なんだよ。人を楽しませようと一生懸命仕事をしている訳さ」。「リーダーのハナ肇は、会社で言えば課長クラスかな。統率力があるな・・・」。父はどこか仕事人間だった自身と重ねて、番組出演者を見ているようでした(ちなみに「無責任」「統率力」などという言葉を覚えたのも、こんな時でした)。

 思えば、高度成長の只中の時代、父もそうでしたが、「目標に向かって頑張る」という気概が、社会全体に満ちていたように思います。それが昭和50年代半ばあたりから「個人の生活を楽しむ」という風潮に変わってきました。いずれにせよ、両者は共に将来への「夢」に裏付けられていました。しかしその後、バブルや不況を経験しつつ、その夢もしぼんで行ったように思います。ただ経済は循環します。ここ数年来、個人的には、以前に増し、良い時代になって来ているように思います。

 もちろん、今なお厳しい状況におかれている人もおられます。それでも、信仰に生きる者は、未来に大きな望みをもって、よしんば高齢者になろうとも常に夢をもって生きられると思うのです。「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3:1)。ふと植木等のこんな歌が脳裏を走りました。「・・・心配すんな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう・・・」、神様が「なんとかしてくださる」、否、最善を為してくださいます。だからもっと委ねて、もっと気楽に歩めればと願います。


☆10月15日説教「御子は」要約:
「御子は、見えない神の姿であり」(コロサイの信徒への手紙1:15)
「見えない神」、それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている表現です。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子イエス・キリストなのです。そのキリストの下に信仰に導かれて今、ここにある・・・感謝
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by aslan-simba | 2017-10-10 22:03 | Comments(0)

 毎年、十月の授業で繰り返されるやり取り。教師「1031日は何の記念日?」、学生「ハロウィーン」、教師「なるほど・・・もうひとつ知りませんか?」、学生「先生の誕生日?」。

 答えは宗教改革記念日(私の誕生日ではありません)。昨今のハロウィーンの盛り上がりで、宗教改革記念は押され気味。それはプロテスタント発祥の地ドイツでも同様の模様です。北ドイツでは、1031日にハロウィーン・キャンディーとしてマルティン・ルターの顔を描いた「ルター・ボンボン」を配る教会もあるとか(味はどうなのでしょう)。ただし今年は少し違います。ネットで見る範囲、ドイツでは宗教改革記念日が、かなりの話題となっています。なぜなら2017年は宗教改革500周年の年だからです。

 15171031日ウィッテンベルク城教会の扉に、ルターは免罪符(贖宥状)を批判した「95か条の提題」を掲げました。 中世以降、強大な力をもったカトリック教会のやり方には、かなりの行き過ぎが指摘されます。その一例が16世紀、サン・ピエトロ大聖堂改修資金の捻出のためになされた免罪符(贖宥状)の乱発、乱売でした。ちなみに、免罪符とは、それを買えば多くの善行を積んだものとされ、天国の救いが即座に約束されるというものです。

 ルターが経験したこんな逸話が伝えられています。彼が街中で昼間から泥酔し、道端に横たわっていた男に「そんなことをしていたら御心に適わない。自分が死んだ後のことを考えなさい」と注意すると、呂律の回らない舌で男は「これがあるから、大丈夫ですよ」と免罪符を見せた、と。ルターは「こんな男にも、御言葉を届かせる努力をせねば」と立ち上がったのです(徳善義和『マルティン・ルター』参照)。

 ルターは信仰の在り方を示し、「人が義とされるのは信仰のみによる」(ローマ328・ルター訳)を伝えました。私たちも宗教改革記念の月に、あらためて「信仰」の大切さに思いを馳せたいものです。

 信仰といえば、ある禅の老師がこう話されていました。「信仰」の「信」という語の「言」は、「言霊」すなわち「神仏の言葉」を指す。「亻」(にんべん)は「頭を垂れた人の姿」を示している。すなわち一切を「神仏の言葉」「神仏」に頭を垂れて委ねるのが信仰である、と。その通りです。私たちも御言葉に委ねて行きましょう。


108日説教「執り成し」要約:

「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」(フィレモンへの手紙17節) 

この書は、パウロが獄中から書き送ったフィレモン宛の短い私信です。他の書簡とは趣を異にし、そこに教理や信仰生活上の勧めは書かれていません。しかし、この書にはオネシモという解放奴隷をめぐり、神の救いの恵みが生き生きと働いた実例が記され、証しされています。是非、一気に通読してみてください。



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by aslan-simba | 2017-10-03 17:46 | Comments(0)

十五夜と祈り

 FMラジオの収録から始まった9月最後の週、学校の方も新学期が始まり、同時に所用も重なり、気忙しい毎日が続きました。

 さて来週以降の予定を確認すべく、ダイアリーと共に暦を見て気づいたのですが、今年は104日が、仲秋の名月、いわゆる十五夜・・・。古くから
「月づきに月観る月は多けれど 月観る月は この月の月」と詠われてきた美しい観月の日です。観月という言葉を使うと、以前にも書いたことがあるのですが、唐の詩人・李白の捉月台(そくげつだい)伝説を思い起こします。 ある月の美しい夜、李白は正装をして舟に乗る。舟上で取り巻きと月を愛でながら酒に興じた。その度が過ぎたのか?・・・水面に映る月を捉えようとして舟から落ち、帰らぬ人となったという話です。

 ところで、ものの本によると、日本人も古い時代からお月見を楽しんできたようです(縄文時代からとか!)。これを行事として取り入れたのは平安時代の貴族でした。唐の国の影響もあったのでしょう。それは満月を見ながら詩歌を詠むという趣向でした。

 一般庶民が名月を鑑賞するようになったのは、江戸時代になってからです。今日では、お供えはお団子とススキが定番ですが、江戸時代は収穫期の里芋を供え、十五夜を「芋名月(いもめいげつ)」と称した由。そのようなところからお月見は秋の収穫を神へ感謝する農耕行事といった色彩も加わりました。ですから、その月見は、捉月台伝説に示されるような酔狂の世界ではありません。月を愛でつつ、神への感謝の祈りという要素もあったのです。神さまは、私たちの先人たちの、そんな祈りもしっかりと聞き分けてくださって来られたのです・・・。

 美しい月を造ってくださった神さまに感謝します。そして豊かな収穫を恵み、私たちの命を育んでくださる主に、ますますの栄光がありますようにと心から祈ります。

「あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えられます。あなたがそのように地を備え、畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、芽生えたものを祝福してくださるからです」(詩編651011


101日説教「福音の前進」要約:

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(フィリピの信徒への手紙112

 我が身に降りかかった災難すら通して、神は福音を前進させてくださる。その事実と確信をパウロは力強く語ります。自由を奪われ、命さえ奪われる状況下でも、なおそこで喜びをもって生きるパウロの姿に励まされる思いです。

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by aslan-simba | 2017-09-29 06:51 | Comments(0)

 お彼岸の時期を迎えました。いよいよ本格的な秋・・・学校も秋学期の授業が始まります。ここしばらく夏のイスラエル旅行について書きましたが、この旅行体験は今後、授業や説教で生かしたいと思っています。

 実際、現地に足を運んだことで、気づかされたことは多々ありました。たとえばガリラヤ湖が海抜マイナス212mの場所にあったこと。随分と低い所にあるのです。死海が世界一の低地にあるのは知っていましたが(マイナス427m)・・・。なお淡水のガリラヤ湖はヨルダン川を通して塩湖の死海と繋がっています。この死海、1960年代からヨルダン川とその支流の水が工業や
農業用水として大量利用され始めた為、水位の低下と地盤沈下が起こり、深刻な環境問題になっている由。ちなみに現在の死海は二つの湖に分割された状態です・・・。聖書の時代に思いを馳せながらの今回の旅行でしたが、そんな風にイスラエルの「今」も垣間見ることができました。

 他にイスラエルの厳重なセキュリティがもたらす「安心感」(逆に日本人の安全意識の「のどかさ」が、本気で心配になるほどです)。また旧約律法が今日も、しっかり守られていました。金曜日の夕刻から土曜日の夕刻までの安息日(シャバット)遵守。さらには旧約の食物規定は今も大事にされ、たとえばハンバーガーにチーズをのせては食べないことも知りました(申命記1421参照)。今日、IT大国とも言われるイスラエルですが、旧来の宗教伝統がなお脈々と生きづいているのです。 数日前、現代イスラエルを描いたフランス映画のDVDを入手。「約束の旅路」と「もうひとりの息子」、参考になりました・・・。そんなわけで現代のイスラエルにも、一段と興味を増しています。

 ところで日本の話に変わりますが、神主さん、お坊さん、牧師さんの三人が仲良くパーソナリティを務める「8時だヨ 神様 仏様」というラジオ番組があります(FMあまがさき)。知る人ぞ知る放送で、しばしば新聞報道などでも取り上げられますが、実は、番組出演している牧師さんが、今回ご一緒した先生の一人でした。そのご縁で、旅行仲間の聖公会の司祭さんと共に、次週ゲスト出演をさせて頂くことになりました。これも「聖地巡礼」の功徳でしょうか!ありがたいことです。


924日説教「主に喜ばれ」要約:

「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント信徒への手紙二59
 「体をすみかとする」とは、地上の生、私たちの現実の人生のこと。そこには苦しみがあります。不当な仕打ちを耐えねばならないことや、罪との戦いもある。しかし主は見ていてくださいます。だからどんな時でも、天を仰いで歩もうではありませんか。「主に喜ばれる者」として。 




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by aslan-simba | 2017-09-20 09:15 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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