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 「ああエルサレム、エルサレム・・・」(マタイ2337口語訳)というと、まず思うのが「十字架の道行き」です。歩きました!

 主が十字架を負って歩いた道(ヴィア・ドロローサ・悲しみの道)を・・・。 エルサレム旧市街にあるこの道、起点はイスラーム教徒地区の小学校が建つピラト官邸跡から始まり、ゴルゴダの丘およびイエスの墓の跡地にある聖墳墓教会(キリスト教徒地区)へ続く約1キロの道程。途中、「留(station)」と称される、主が「十字架を負わされた場所」、「つまずいた場所」などの記念地が数メートルおきにあります。そんな仕方で11世紀の十字軍時代に整備された道とは知りつつも、やはり胸が高まります。ご一緒した陽気な先生方もこの時は神妙でした。

 今回まずラッキーだったのは、普段は入れない起点(1)に、入れたこと(小学校が休みだった為。こんな事はめったにない由)。それから一か所ごとの留に立ち止まり、祈りつつ、最後の11から14までの留に立つ聖墳墓教会へと辿りつきました。 私たちは混雑を避け、教会の裏手から入堂。薄暗い会堂の各所にロウソクの火が灯っています。何とも言えない神秘的な雰囲気です・・・。なおこの教会、カトリック、ギリシア正教、コプト正教など六教派がそれぞれに管理場所をもちますが、教派同士あまり仲がよろしくないとか。以前、聖職者たちがケンカしている場面をテレビで見た記憶が甦ります(そのため、教会入口の鍵は、今もイスラームの家族が管理)。主の十字架が立てられた跡を拝しながら思いました。だからこそ、十字架に心馳せるに相応しい「聖地」がここなのだ、と・・・。

 ところでエルサレムという街、旧市街を抜けると、黒服を着たハレディーと称されるユダヤ教超正統派の人々を頻繁に見かけます。特にその人たちが大勢集まる場所で、お祈りすることができました。嘆きの壁(西の壁)とダビデ王の墓所においてです。いずれもユダヤ教にとっては重要な聖地。祈っていて、実に不思議な感覚に捉われました。

 なおダビデ王の墓所では、黒服のハレディーが私のところに来て、私のことと、私の「祖国・日本」「家族」「愛する者たち=皆さま」のために祈ってくれました。お礼に寸志を差し出したところ、彼はそれを自らのポケットにではなく、そのまま墓所の公的献金箱に投函したのです。何とけなげな・・・本当に心洗われる思いがました。神さま、ありがとうございます・・・《つづく》


917日説教「深きかな」要約:

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか・・・」(ローマ1133

 パウロの深い賛美の言葉がここにあります。そうです。神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。そして、すべての人を救うために「富、知恵、知識」をもって今なお働いておられるのです。 その神の憐れみの中にある者として、感謝と賛美の思いをパウロと共にしたいと願います。

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by aslan-simba | 2017-09-11 14:10 | Comments(0)

 「イスラエルを訪れる外国人訪問者は年間350万人、その内、日本人は15千人足らず」と聞きます。日本人にとってイスラエルは、必ずしもメジャーな観光先ではありません。ただ世界の国は色々な問題を含めて、この場所に注目しています。


 何と言っても世界三大一神教の聖地がその首都エルサレムにあること。もっとも国際的には首都として認められていません(事実、エルサレムに大使館をもつのはエルサルバドル一国のみ)。さらに、複雑な「パレスチナ問題」がそこにあるからです。その問題対処の一環として、米国の仲介の下、1993年イスラエルとパレスチナの合意で出来たパレスチナ自治区、その後の交渉は暗礁に乗り上げているようですが・・・。


 さて今回、エリコ、ベツレヘムといったそのパレスチナ自治区にある場所も立ち寄りました。エリコは紀元前1万年前から人が住んだ痕跡のある世界最古の街と言われます。旧約聖書には「ナツメヤシの茂る町」と書かれます(申命記343他)。ここでアラブ人露天商のオジサンたちから、その名物ナツメヤシ菓子を買いました。これは美味しかったから良かったのですが、アラブ風の女性用シャツも強引に勧められました。断ったものの。「ジャパニーズ・ピープル・グッド・ピープル・・・」と哀願するオジサンの眼差しに、ついついほだされ、妻への土産にと買ってしまいました(案の定、日本では着ることのできないような物でした)。 またこの街には徴税人ザアカイが登った「いちじく桑の木」(ルカ194)が往時の姿のままに存在します(本当に本物なの?)。 なおエリコにはイスラエルと隔てる検問所はありましたが、高い分離壁はありませんでした。そのせいか、広々とした開放的なアラブの街の印象でした。


 高い分離壁と極めて厳重な検問所があったのはベツレヘムです。遠方にはユダヤ人入植地も見えます・・・。この辺りは、よく報道される辛い現実です。しかしこのような地でイエス・キリストが誕生されたのです。「光は暗闇の中に輝いている」と説教したいところですが、ベツレヘムの街は決して暗闇ではなく、明るく活気がありました。こぎれいな服装をした、体格のよい物売りの子供たちがそれを象徴するようでした。もちろん、彼らからもお土産を買いました。《つづく》



☆9月10日説教「愛に根差し」要約:

人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ319

 新島襄は、キリスト教とは「愛以てこれを貫く」教えと語ります。すなわち、計り知れないほどの愛そのものであるキリストが、私たちの心の中に住まわれ、そのキリストによって生かされところに我が信仰の核心があるのです。

 

 


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by aslan-simba | 2017-09-07 08:18 | Comments(0)

イスラエルへ行きました

 聖書を語る者として「一度はイスラエルに行かねば」と思いつつも、なかなか条件が整いませんでした。ところが先日、たまたまネットで牧師対象の「イスラエル体験ツアー8日間」を発見。「これだ」と閃き、参加を決めました。参加者は私を含め6名。皆さん面白い先生方で、仲良く「聖地巡礼」へ・・・。

 さて今回の旅、何と言っても思い出深い場所はガリラヤでした。宿泊したのは、ガリラヤ湖畔にあるキブツのホテル。キブツというと集団農場のイメージでしたが、ホテルやレストラン経営などを行っているところもあるのです。 緑に囲まれた広い区域にあるこのホテルは、ガリラヤ湖沿いまで敷地が広々と続き、プライベート・ビーチも完備しています。夜明け、ガリラヤ湖に輝くご来光を、ここから仰ぐことができました。かつて、この景色の中に主イエスがおられたことを思うと、妙に胸が熱くなります・・・合掌。

 ところで、ガリラヤ湖、ヘブライ語では、その形状から「ヤム・キネレット」(キネレトの海、
民数3411)、すなわち「竪琴の海」と言います。ちょうど「琵琶湖」みたいですね。ただ大きさは琵琶湖の三分の一以下。それでも実に雄大な海の如く感じられるのは、聖書を読み過ぎたゆえでしょうか。 なお近年、ガリラヤ湖水が工業用としても大量消費されるようになったことに加え、雨量も減ったため、水量減少が深刻な問題となりつつあるそうです。いつまでも豊かな水量を湛えた湖であるようにと願います・・・。

 ガリラヤ滞在中に、湖畔のカフェルナウムの村と、近郊に位置する祝福の山を訪れました。主が
「幸いなるかな」と八つの祝福を教えた、あの山上の説教の丘です。そこを少し降ると五千人に食事を与えた場所、さらに降るとペトロが召命を受けた所もありました。跡地にはいずれも、出来事を記念する瀟洒な教会が建っています。麗しい緑に囲まれた場所を祈りつつ行きました。

 ナザレも訪ねました。イエス様の時代は寒村だったと言われますが、現在はアラブ人キリスト教徒が多く住む、賑やかな町です。ここにある受胎告知教会。祭壇の下の洞窟はマリア様が天使から受胎告知を受けた場所・・・。

 以上のように、福音書の世界がリアルに迫ってくるガリラヤの日々でした。《つづく》


☆9月3日礼拝説教「光の子として」要約:

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい・・・」(エフェソの信徒への手紙51516

 「時をよく用いる」とは「神から与えられた機会を十分に生かしなさい」ということ。換言すれば、神の御心を行う生活のことです。そこで重要なのは「霊に満たされる」ことです。そのスタートは、主日礼拝から始まります・・・。

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by aslan-simba | 2017-09-01 13:33 | Comments(0)

怖い絵・・・

 「忙中に閑有り」。学校の仕事がやっと一段落した日に、妻と神戸まで「怖い絵展」へと出向いた。順調に電車を乗り継ぎ、予想より早くたどり着いた兵庫県立美術館。これは幸先が良いと思ったのだが、さにあらず。中に入ると大変な長蛇の列が続いていた。入場券を買うまでに50分、さらに展示会場に入るまで20分。誰も文句も言わず、黙々と並んでいる。これだけで十分に「怖い」・・・否、それだけ日本人の文化はレベルが高いのか。

 場内はもちろん満杯。ゆっくり鑑賞という訳には行かなかったが、「怖い絵」の中に、是非もう一度見に来たいと思う絵が少なからずあった。その一つが、ビアズリーのイラスト作品「踊り手の褒美」。戯曲『サロメ』(オスカー・ワイルド)の挿絵である。ちなみに「褒美」とは洗礼者ヨハネの首。ご存知のように、サロメが義父ヘロデ・アンティパス王に見事な踊りを披露し、その褒美としてもらったものがそれである。何と・・・。このグロテスクな出来事の根底にある人間の妬み、恨み、残忍性、さらには恐れ・・・何とも「怖い」(マルコ福音書61728参照)。なお福音書はサロメを「少女」、「(ヘロデ・アンティパスの妃)へロディアの娘」とのみ記している。

 ともあれ、辛い最後を迎えねばならなかった洗礼者ヨハネだが、いみじくも彼の命日は829日。この日、ギリシア正教やカトリック教会などは「洗礼者聖ヨハネの殉教記念日」として記念する。主イエスの前に、御子キリストを指さし、身を挺してその先駆けとなった旧約時代「最後の預言者」がいたことを心に刻みたい。

 「すべてを導かれる神よ、洗礼者聖ヨハネは、その誕生においても死においても、御子キリストの先駆けとなって道を備えました。真理と正義のために命を捧げた聖人にならい、私たちも力を尽くして福音の証となることができますように」(『聖人略伝』より)

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by aslan-simba | 2017-08-22 08:03 | Comments(0)

復旧の喜び

 あいかわらず暑い日が続いていますが、カレンダーの上ではすでに秋到来・・・。耳をすまし、目をこらし、五感を自然へと傾ければ、季節が少しずつ秋色に染まっていることに気づかされます。今朝は明け染めた空が紅く輝いていました。天空はすっかり秋模様。暦は本当に正直です。

 ちなみに今年の立秋(8月7日)は、激しい雨台風と共に訪れました。 この日、朝から忙しくしていました。電車の運行状況を気にかけつつ所用で外出、帰って来てからは居間で学生のレポート試験の採点作業に没頭。夜間、私の庵(プレハブ書斎)に設置されたパソコンが水を被り、まったく作動不可能になっていたことを知りました。本当に困りました・・・。パソコンの中に入っている仕事のデータを案じて愕然とする私を心配し、娘と妻が力を貸してくれました。娘は機器の修理を試み、妻は「祈ってから事を始めて」と語りました。しかし動く気配はまったく見えません。私の方は祈る前に、半ばあきらめていました。

 さて翌日の午後、パソコンが奇跡的に復旧したのです。これは正に神さまの憐みだと本気で思いました。こういうことってあるのです。こんな御言葉が脳裏を走りました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ68)。そして「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる」(マルコ1124)と・・・。

 まったくの私事の話で恐縮ですが、このパソコンの復旧という個人的な小さな出来事を通して、「新たな季節」の到来を「回復の喜び」をもって経験させて頂きました。感謝。 さて今年もお盆の時を過ぎ、つくつく法師の鳴き声を耳にする時期になりました。子供の頃、つくつく法師が鳴き出すと「夏休みももう終わりだ」と、予定していた自由勉強のできていない自分にあせりを感じたものです。あれから、半世紀以上にもなっているのに、あの頃の自分と本質的にはあまり変わっていません。「三つ子の魂 百までも」ですね。

 それでも今年の秋は、何か良い事が起こりそうな不思議な予感がします。


☆8月20日説教「解放の御業」要約:

「安息日に・・・群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(ルカ131017参照)

 安息日は本来、神の御業を覚え、感謝し、喜ぶ日なのです。だから安息日は礼拝の日ともなります。その日に、一人の女性が癒されました。人々は心からの喜びに満ちています。今日の礼拝も、神の御業を共に喜ぶ時となりますように。



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by aslan-simba | 2017-08-16 09:59 | Comments(0)

数珠の話

 関西では、お盆の時期に入りました。仏事には様々な作法やしきたりがありますが、そこで必ず使用されるのは数珠でしょう(宗旨によって珠数などは異なりますが)。実は、私はこれまでの人生において、数珠をもったことがありません。ただ数珠には興味があります。

 数珠の歴史は非常に古く、仏陀誕生以前からあったと言われます。元々は古代インドのバラモン教で使われた祈りを数えるもので、インドの古語、梵語(サンスクリット語)で「ジャパ・マーラー」と呼ばれました。「ジャパ」は「念じる」、「マーラー」は「輪」を意味します。つまり「念じる輪」、これが仏教に入り、数珠(ないし念誦)と呼ぶ法具となったのです。

 また、
このジャパ・マーラは、後にインドからイスラーム地域へと伝えられ、一部イスラーム教徒たちの瞑想のための補助手段として用いられました。「アラーは偉大なり(アラー・アクバル)」と唱える度に珠を一つずつ動かして使いました。 さらにイスラーム圏には、少数のキリスト教徒がいました。彼らによってこの数珠がキリスト世界にも伝わったと言われます。

 我々プロテスタントからすれば、数珠とキリスト教は結び付かないように見えますが、教派によっては、祈りを数える大切なものとして今も使っています。正教会(ロシア正教コンポスキニオン)がそうです。聖公会の一部でも使用されます。そしてご存知カトリック教会のロザリオ・・・。ロザリオという名称は、元々の「ジャパ・マーラー(念じる輪)」が誤訳されて「バラの輪」(ラテン語「ロザリウム」、ポルトガル語で「ロザリオ」)になったそうです。

 以上のように、インドのバラモン教(後のヒンドゥー教)発祥のものが、仏教の数珠となり東に伝わった。一方ではインドから西に行きイスラーム世界に入り、最終的には、ヨーロッパのキリスト教世界に入ってロザリオになったわけです。文字通り数珠つなぎですね。そこに不思議な導きを覚えます。

 さて今の時期、私たちの周りにも、
先祖や亡くなった家族を覚え、数珠をもって拝まれる人は多いと思います。私には、その祈りの究極の先には、憐みの主イエス・キリストが立っておられるように思えるのです(マタイ913参照)。 よきお盆休みをお過ごしください。


☆8月13日説教「十字架を誇る」要約:

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙614

 パウロは言います。主の十字架こそが彼の「誇りだ」と・・・。これは一般論ではありませんし、他の人に押しつける言葉でもありません。しかし、このパウロの確信にたじろぎます。ならば、皆さんにとっては「十字架」とは何でしょうか。

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by aslan-simba | 2017-08-10 13:32 | Comments(0)

 年齢のせいか。辺りが明るくなり、鳥がさえずり出すと、自然に目が覚めるようになりました。時計は5時少し前。起き上がって、今朝も妻とウォーキングへ向かいます。新たな一日の始まり・・・。

 外に出ると、明け染める白い朝の光の下、自然界の目覚めを覚えます。その中を「今日も良き一日でありますように」と祈りつつ、多くの方々のこと、教会のこと、学校のこと、この日本のことを思い巡らしながら歩きます・・・。 ふっと不安が頭をもたげ、足が重くなることもあります。けれども、そんな折には決まって御言葉が示されます。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」・・・今朝は、そんな出エジプト記の言葉(13:21-22)が脳裏を走りました。

 思えば、エジプトでの苦難からやっとの思いで解放されたイスラエルの民が、モーセに率いられ、次に足を踏み入れたのは楽園ではなく、茫漠とした荒野でした。同じようなことは、私たちも人生において経験する事かも知れません。「人生の荒野」の経験・・・。 しかし、「神が雲の柱、火の柱で導く」ということは、「神さまが、どこまでも私たちの後ろを守り、私たちの進み行く道を拓かれる」ということなのです。未来に不安がよぎり、進むことも、退くもできないと思われる時、必要なのは、どこまでも神さまを信頼して、今の「道」を真摯に歩み続けることではないでしょうか。

 今朝は早くから蝉時雨が続いています。7年間を土の中で過ごした蝉たちの地上での命は一週間。彼らはその今の時を精一杯に生きるのです。私たちも、まずは今日を精一杯生きたいと願います。私たちの道は、決して荒野にあるのではありません。主が共にあり、導いてくださる緑豊かな地を行くのです。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし」歩んで行きましょう。

 「今日もここに生かされ、有り難うございます。良き一日を過ごせるようお導きください」と、感謝し、祈りながら。


☆8月6日説教「主の招き」要約:「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人・・・を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(ルカ福音書14:13-14)
 招かれても全くお返しができない貧しい人、まさに神の御前における自分の姿だろう。そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされる。ただただ感謝。
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by aslan-simba | 2017-08-03 09:32 | Comments(0)

翼を張って

 いよいよ八月、夏本番。各地で連日のように、日中は35度を超えるうだる暑さが続きます。夜は夜で熱帯夜。なかなか寝付けません。

 今朝も早くに目が覚め、ひとつ早い電車に揺られ、駅に到着。そして蝉時雨の中を、汗をかきかき、キャンパスへの坂道を上りました。

 私の年齢になると、上り坂は結構厳しいものです。しかし「負けてはならない」と自らを励ましながら、足を早めます。 以前と違って疲れやすくなりました。最近では、足腰や目の疲れのためにサプリメントも利用します。 そんな今の自分をも見つめながら思わされるのですが、人間が「生きる」とは、二つの命の次元を生きることではないか、と・・・。 一つはもちろん、身体をもって命を生きることです。「生老病死」という言葉に象徴されるように、肉体はやがては老い、衰えて死んで行きます。私たちはそんな「動物」としての命の次元が基盤にあります。

 もう一つの次元は、そのような生を生きねばならない事実を自覚しつつ、なおそこに「生きる意味と使命」を見出す精神的な次元、敢えて言うなら、「人格」としての命の次元です。福音書の語る主イエス・キリストは、神への徹底した信頼をもって、この「人格」に生きました。キリストは私たちにも、生きる意味と使命があることを示されています。私たちがキリストと同じように、神さまへの徹底した信頼をもって「人格」を生きるならば、そこに奇跡が起こります。

 主イエスは体の不自由な人に「起きて歩きなさい」と癒されたように、現実をはるかに超えるかたちで、私たちに臨んでくださるのです。そこに希望があります。この先、老齢のゆえに本格的に衰えるような時が来ても、聖書は「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40:31)と約束しているからです。

 人生の最期の時には、天の御国へと翼を張って飛んで行ける奇跡が、この身に起きることを私は信じています。


☆7月30日説教「真の教会」要約:「父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和があなたがたにあるように」(テサロニケの信徒への手紙一1:1)
 教会を真に教会たらしめるのは、神の御業です。私たちもまた「父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会」として、「希望の忍耐」(3節参照)に生きられるよう祈り求めましょう。
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by aslan-simba | 2017-07-27 19:20 | Comments(0)

京都の七月に思う

 夏休みを前にした時期は、私にとって非常勤の仕事の繁忙期にあたります。それとちょうど重なるのが祇園祭のハイライト。地下鉄や電車の中で浴衣を着て祭りに赴く人々の姿が目につくようになりました。

豪華絢爛な装飾を施され、巡行する山鉾の姿を、この目で実際に見たいところですが、残念ながら今年も無理です・・・。

 なお、この祇園祭、歴史は古く、平安時代に京で疫病が流行した際の災厄除去の祈願が始まりとのこと。都の人々は、自分たちの問題のみならず、当時の日本全国の国数にちなんで66本の鉾を立て、日本全体の太平をも祈ったそうです。このような疫病退散、国家安泰を願う人々の祈りが、千数百年に渡って重ねられ今に至ることになります。

 その祭りの中心となる祭神は、素戔嗚尊 (すさのをのみこと)ですが、この神は牛頭天王(ごずてんのう)、武塔神(むとうしん)という別名でも呼ばれていました。それぞれに神道や仏教、道教等の影響が垣間見られます。さらには古代イスラエルの祭りとの類似性を指摘する人もいます。興味深いところです。「神は多くの名前をもつ」(God has many names)・・・神名は違えども、同じ一つの神がそこにあるということでしょうか。

 私は、その背後に聖書の示す一つの神の働きへと思いを馳せます。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなくなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(詩編1925)。また様々な名をもって語られる「神」を信仰する人々に対し使徒パウロが語った言葉を思い起こします。「・・・あらゆる点においてあなたがたが信仰あつい方であることを、わたしは認めます」(使徒言行録1721)と。

 なおこの古都の祇園御霊会(ごりょうえ)は、夏祭りの原型として日本の全国各地に拡がって行きました。人々の平安と国の安全無事を願い、神仏に礼を尽くすという、先人たちの祈りと感謝の思いが、日本人の精神性と宗教性を養ってきたのではないかと思うのです。 私たちはこのような日本の伝統を敬い、大切にすると共に、良き形でその思いをキリストの信仰へと接ぎ木して行きたいものです。


☆7月23日説教「勝利の信仰」要約:

「・・・人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(ヨハネの手紙一524

 私たちは神から生まれた者です。大いなるまことの「父」がいます。この父を愛し、何でも願いを語ることが許されています。また私たちには日々の歩みを導いてくださる御子イエス・キリストという「兄」がいます。だから心配ありません。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです・・・」(54)。感謝



 








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by aslan-simba | 2017-07-18 22:01 | Comments(0)

何のために

 忙しい仕事が一段落したのも束の間、私たちの周りには予期せぬことが次から次へと起こる。そんな現実に「神を問う」と共に「人間とは何か」、「何のために生きるのか」をあらためて考える。

 詩編に「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません」(90:10)、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたが、これに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが、思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は、消え去る影」(144:3∸4)とあった。このような言葉が「生きる意味」の問いをさらに深める。

 簡単に答えの出せる話ではないが、聖書が、人間はキリストに在って本来の姿へと新たに造りかえられた存在だとすることは覚えたい。「キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5:18)。だから私たちは何歳になっても、どんな困難を抱えても最後まで御国の希望に生きることができるのだ。

 仏教の教え(三帰依文)にも、こうある。「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん・・・」、鶴田義光訳では「この世に人間として生まれた深い意味と尊さに、今初めて気付くことができました。それはまさに仏法の教えを聞くためであったのだと、今ようやく仏法に出会えた喜びを素直にいただくことができました。 このどうしようもなく愚かで迷い続けるしかない身は、人間に生まれたこの一生涯において、もし救われることがなかったら、もう二度と救われるチャンスはないでしょう」と。仏を知るために、人間として生かされているというのだろう。

 私たちも、神を知るために今を「生かされている」のである。その神は、今日も私たちを背負っていて下さる・・・「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3-4)。
感謝

☆7月16日説教「命の約束」要約:

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ福音書524

 赦しの言葉がここに与えられています。人は誰でも神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。既に死から命に移っているというのです。


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by aslan-simba | 2017-07-11 16:57 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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