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待降節・・・魂の沈黙の時

 12月師走、一年最後の月。 教会のカレンダー(教会暦・典礼暦)は、それよりひと月早いペースで、アドベントの第一主日から新たな年間サイクルが始まります。

 アドベントはご存知のように、クリスマス(1225日)四週前の日曜から始まり、クリスマスイブの24日まで続く、降誕祭の準備と心構えの期間です。このアドベントの時を大半の日本の教会は「待降節」と呼んできました。キリストを、クリスマスを「待つ」時節ということでしょう。

 一方、ラテン語の「アドヴェントゥス」に由来する「アドベント」という言葉の意味は「待つ」ではなく、「到来」、「接近」、「出現」。「神の子の到来」「神の国の接近」「神の救いの出現」といった「主の来臨」の切迫感が、そこに示されているのです。聖公会がアドベントを「降臨節」と訳しているのは、そのためでしょう。 しかし、「待つ」ことを基調とした「待降節」という日本語表現に、私は実に深い意味合いを感じます。その言葉に、「迫り来る主」の到来に、切なる期待を寄せつつも、「静かに、黙して、祈り、待つ」という信頼の姿を覚えるからです。

 待つということ・・・人は未来に夢と望みをもって生きています。その根底に、願いをもって「待つ」という姿勢があります。 信仰者は来るべき主を待ち望んでいます。これほど大きな「願い」「望み」はないはずです。ただ、それは浮足立って待つことではありません。 その「待つ信仰」のあり方は詩編に、しばしば示されます。今朝読んだ62編にこうありました。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」(新改訳)、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」(新共同訳)

 厳しい現実の中にあっても、神さまに心底信頼し、自分のすべてを主に委ね、祈りつつ、待ち望む信仰者の姿が浮かんでまいります。その「魂の沈黙」を英語聖書は、「わたしの魂は、神の内にのみ安らぎを見出す(My soul finds rest in God alone.)」と記していました。 待つこと、それは、主の内に安らぎを見出すことなのです。「慌てず、焦らず、落ち着いて、信じ、待つ」ことを、この時期、特に大切にしたいものです。

123日待降節第一主日礼拝説教「目覚める時」要約:

「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています・・・主イエス・キリストを身にまといなさい・・・」(ローマの信徒への手紙131114参照)

 私たちは朝を待つ者として生きるよう招かれています。朝の日差しに、古い惨めな罪の臭う服は相応しくありません。キリストを着るべきなのです。

by aslan-simba | 2017-11-27 17:12 | Comments(0)

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