2017年 02月 14日
老いの重荷は神の賜物
原始仏典にこんな言葉があります。「愚かな凡夫は、みずから老いゆくものであるにもかかわらず、他人が老衰したのを見て、悩み恥じ嫌悪している。わたしもまた、老いゆくものであるにもかかわらず・・・」(中村元『ゴータマ・ブッダ』参照)。お釈迦様が、老いを他人事として見つめた、自身の若い頃を回顧して語った言葉だそうです。誰もが若い時には、自らが老いることには、なかなか思いが及ばないものなのかも知れません。
聖書は、人の体を土の塵で造られたといいます。だから、その「自然の命の体」(コリント二15:44)は脆く、加齢とともに衰え、やがて朽ち果てるのは当然でしょう。しかし、そのような私たちが、「霊の体」に与かる全き救いの時が来ることも、聖書は教えてくれます。そこに確かな希望があります。この衰え行く肉体の彼方には御国の救いがあるのです。
以前、ホイヴェレスという神父が紹介した「最上の業」という詩に、こんな節がありました。「・・・老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。 まことの故郷へ行くために! 己をこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。 神は最後に一番よい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために!・・・」と。
「老いの重荷」は「神の賜物」として与えられているということ、有り難い話です。さらに私たちは、祈り、祈られる恵みの中に、いつまでも生かされて行くのです。 人生の最終段階において、たとえ何もできないようになったとしても、最後まで祈りを為すことだけはできる者でありたいと願います。
☆2月19日説教「主に倣う」要約:
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(ペトロの手紙一2:25)
魂の牧者であるキリストが、今日も御自身の御跡に続くよう私たちを招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」(20節)、「・・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)と。