2014年 12月 05日
待降節の夕べに思う
つい先日まで目を楽しませてくれた銀杏の大木が、風に吹かれ、さかんに黄葉を落とし、足下に黄金色の絨毯が拡がっていました(JR新田駅前での光景)。
今日も所用で一日走り回りました。気づけば、とっぷりと日は暮れています。身をもって実感する日の短さ・・・それでも不思議に満たされ、温かい思いをもって、机に向かっています。太陽が低く、寒くて暗いこの時期に、私たちは明るい希望のしるしを待っているからでしょう。
待降節と訳されたラテン語「アドヴェントゥス」(英語などでいうアドヴェントの元の言葉)の原義は、「向かってくる」ということです。つまり、「輝く明けの明星であるキリスト」(黙示録22:16)は、私たちのもとへと近づいておられるということなのです。私たちはその「光」である主を、ひたすら待つ。それはクリスマスの時を待つと同時に、終末に来られる再臨のキリストを待つという事です。
終末のことを、何か劇画的な世界破局として捉えてはなりません。むしろ終末は、私たち自らの最後に関わること(すなわち、自らの死の問題)から考えるべきでしょう。ならば、私たちの誰もが均しく、その最後を迎えるのです。その終末のときに、私たちは栄光のキリストの御姿を間近に、自らの目で仰ぎ見ることが許されています。
もちろん「待つ」のは、この待降節の時だけはありません。世に在って生きる限り、私たちは祈りつつ、待ち続けます。そして、このことが、終末を越えた「天上の命」「永遠の命」へと導かれて行くのです。
私たちの人生 いくつ歳を重ねても、また最晩年を迎えても、なお喜びと期待をもって、この「待つ」ことができます。「待つべき方」を私たちは知っているからです。実にありがたいことではないでしょうか。
「・・・アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)と念じながら・・・待ちつつ、祈りつつ、明日も元気に走り回ります。
☆12月7日説教「神の決断」要約:
「これは、わたしが彼らと結ぶ契約である。・・・あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない」(21節)。
このアドヴェントにしっかりと心に刻みつけておきたい神さまの御言葉の一つです。神の霊と言葉は、とこしえに私たちを離れないとの約束。何という御恵み。ただただ感謝。