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心で見るもの

「心で見なくちゃ。ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」(サン・テグジュペリ『星の王子様』より)。 「物」は目に見える。それを粗末にしてはならない。同時に、その物に永遠を求めてもならない。それはやがては壊れて行くからである。諸行は無常。聖書が語る「偶像拒否」の意味も、そこに見出せるかもしれない。 私たちにとって最終的な頼りとなるのは、どこまでも目に見えるものではない。大切なのは「心の目」をもってこそ知ることのできる「もの」・・・言葉を換えれば、信頼に基づき存在があらわれ出てくる「もの」なのである。すなわち、「信じる心」が、その前提となるのではないだろうか。たとえば、「愛」がそうだろう。互いの信頼があるところにこそ、それは醸成される・・・。言うまでもないが、神さまの場合も同様だ。信仰という信頼があってはじめて、共にある主の存在を認め、主に委ねることができるのである。そこから神さまのご自愛にみちたお働きが、具体的に見えてくるわけだ。 先日、「見えないものを見た人たち―金子みすず、サン・テグジュペリ、そして新島襄―」と題するエッセイを読んだ(本井康博『錨を挙げて』より)。その三人に共通するのが「柔らかい心」と記される。興味深い。私たちも柔軟な心を大切に、「見えないものに目を注ぎ」続けようではないか(コリント信徒への手紙二4:18参照)。その時、そこに必ず道が拓かれるのである。感謝。


☆4月18日説教要約:
「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい・・・」。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神」と言った(ヨハネによる福音書20:27、28参照)。
目に見え、手で触れることのできるリアルな復活の主の御姿を、ヨハネは私たちに伝えます。1世紀の出来事です。二千年後の時代を生きる私たちは、そのような仕方で直に主にお会いすることはできません。しかし、今、主の御言葉がこのように心に響くのです。「今、あなたがたもトマスと同じようにわたしを心の底から『わが主、わが神』とよぶことができる。それが信じるということだ。わたしをそう求めることのできる人は、幸いである」と。「わが主、わが神」と呼ばわり生きるとき、私たちは大きな祝福を頂きます。霊なる主が共にあるからです。
by aslan-simba | 2010-04-17 07:53 | Comments(0)

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