秋霖と彼岸花

 ここしばらく湿った日が続きます。秋雨(あきさめ)は秋霖(しゅうりん)や「すすき梅雨」という風情のある言葉でも表現もしますが、湿度の高いのは苦手です。何とはなしに頭が重い・・・。そんな時には、こんな聖句に癒されます。

「シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び踊れ。主はあなたたちを救うために 秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる」(ヨエル書2:23)。そこに季節の雨への素朴な感謝が教えらます。秋雨に育まれる恵み、実りの秋。そう言うと、おいしい食べ物にまずは思いが行きますが、野の草花もそうでしょう。秋の七草の萩(はぎ)、薄(すすき)、撫子(なでしこ)、葛、女郎花(おみなし)、藤袴、桔梗。さらには秋を代表する高貴な菊・・・。

 またこの時期、道端でよく見かけるのが彼岸花。ある方の話によると、この花は日本で一番名前の多い花だそうです。曼珠沙華は知っていましたが、他に幽霊花、地獄花、かみそり花、火事花、しびれ花、とうろうばな、死に花、捨て子花・・・。何やらおどろおどろしい命名の多いこと。

 なお彼岸花は、花が咲いた後に葉が伸びて春に枯れます。葉と花を一緒に見ることがないところから「葉見ず花見ず」とも呼ばれ、さらにそこから「想思華」(そうしばな)という名も持つそうです。「葉は会えない花のために一杯に養分を蓄え、花は会えなかった葉の為に精一杯咲き誇る・・・そんな互いが互いを想いあっている華」という意味とか、何ともあじわい深い話です。この花に象徴される、そんなお彼岸の時期は終わりました。

 雨上がりの街に出ると秋の香りがほのかに漂ってきます。金木犀。 さらに次は、秋桜といわれるコスモスの季節になります。コスモスの原語はギリシア語で、世界、調和、秩序などを意味する言葉。花言葉も「調和、謙虚、乙女の良心」です。

 豊かな秋の花々。秋色の日本の風景をもっと楽しみたいものです。
Autumn is here!


102日説教「完成の日まで」要約:
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピの信徒への手紙16
 
 私たちは今、救いの完成へと至るプロセスの中を生きています。神の成し遂げてくださる御業を信じ、共に祈り求め続けましょう。目先のことだけに一喜一憂せず、感謝の思いをもって・・・。

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# by aslan-simba | 2016-09-29 09:18 | Comments(0)

日々に新たなり

台風一過・・・被害をうけられた方は今、大変な作業の只中におられると存じます。心よりお見舞い申し上げます。
さて9月も残すところあとわずか・・・、4月、復活祭の光の下に始まった今年度も半分の道のりが終わります。あっという間の六か月間。あらためて月日の経過の速さに驚嘆。こうして人は日々老いて行くのでしょうか。

 ふと高校生の時に暗唱した漢文が脳裏を走ります。「
少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず いまだ覚めず池塘春草(ちとうそうしゅん)の夢 階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)すでに秋声」、「人はすぐに年を取る。若い時は長くない。だから寸暇を惜しんで学びにつとめなさい。春が来たと思っていたのも束の間、すでに秋の声を聞いているのだから」ということでしょう。今さら気づいても・・・と思いつつも納得。

 ところで先日、道を歩いていたら、あるお寺の門前にこんな言葉が掲示されていました。「きのう分からなかったことが今日は分かる、年をとることの本当のよろこび」・・・。日々、年齢を増し加えつつも、そんな喜びを頂けるのです。若い頃の学校での学びは「成り難し」だったかもしれませんが、年をとっての人生という道場における学びは「成り易い」のかも知れません。そこに老いの楽しみがあります。また「今日」を生きる意味をも示されます。

 思うに、「昨日」が変えられない過去であり、「明日」が不確定な未来ならば、大切に生きられるのは「今日」という日のみです。また昨日まで気になっていることを改められるのも今日。いつかはせねばならぬと思っていた事も、今日から始められます。「日々新たなり」・・・。 だから主イエスは言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ634)と。「今日という日を精一杯生きなさい」ということです。

 なお聖書の信仰によれば、私たちの人生の終わりは十字架の愛と復活の恵みゆえに、「赦し」のくさびによって天国へと結びつけられています。有り難いことです。 だからこの先も続く「今日」という日々を大切に、最後の時まで安んじて歩み通したいものです。新たな10月、そして今年度の後半を希望のうちに迎えつつ・・・。



925日説教「必ず共に」要約:
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして・・・イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる・・・」(出エジプト記31112)
 
神はモーセの問いには直接は答えず、自らがモーセと「共にいる」とだけ宣言する。人生において何よりも重要なことは、自分が「何者であるか」よりも「主が共におられる」という事実だろう。

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# by aslan-simba | 2016-09-21 08:28 | Comments(0)

60 is the new 40

 朝のウォーキングや昼間の買い物に出るたびに思う。街には元気な高齢の人たちが本当に多い。団塊の世代の人たちに限らず、かなりのお年寄りも。中にはバギーを押し続けながら歩いている人もいれば、杖をつきながら気丈にウォーキングする人にも出会う。

 昨年の調査によると、日本の総人口に占める65歳以上
高齢者人口は26.7%の由。ヨーロッパの高齢国イタリア(22.4%)やドイツ(21.2%)を引き離す。また100歳以上の日本人も6万人を超えたという。ある米国の統計では、アメリカのセンテネリアン(100歳以上の人)7万人以上だそうだ。米国の総人口は日本の3倍弱だから、人口比で言えば、日本は米国をはるかに凌駕していることになる。我が国は文字通り世界一の長寿大国だろう。正直すごい。本来なら心底喜ぶべきところだが、一方で高齢者の抱える諸問題、医療や介護のみならず、独居問題など、少子高齢化とも相まっていろいろと指摘される。

 そんな仕方で高齢社会を客観的に(他人事のように)見つめながら、はっと気づかされた。自分自身もあと数か月すると、その日本の高齢者人口の仲間入りするのだ。何と不思議な。普段、学生と接するため、彼らのエネルギーを受けているのだろう。気分だけはまだまだ若い。少なくとも壮年・・・。

 もっとも、体力的には確かに以前より衰えてきた。また記憶力も多少落ちた。家を出る時、カギをかけたかどうか忘れて、少し行っては引き返すこともある。普段の会話でも固有名詞が出てこないことがあり、「あれ」とか「これ」という代名詞を多用するようになった・・・等々。それはそれで致し方ないだろう。

 そういえば、十年ほど前に亡くなった精神科医の斉藤茂太氏が、このような事を述べていた。「人生、年を取ったら100%を目指すのではなく、60歳になったら人生80%主義、80歳を過ぎたら60%主義でよしとせよ」と。 ところで最近、英文雑誌で、こんな表現を目にする。「60 is the new 40.(今の60歳は昔の40歳)」。これを覚え、まだまだ若い気持ちで歩みたいものだ。
ともあれ「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言1631)ことだけは忘れずに。


☆9月18日説教「澄んだ目」要約:
「・・・目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい・・・ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」  (ルカ福音書113436)
 ここでいう「ともし火」とは主の光。「澄んだ目」は、その「ともし火」に対して、素直に真実に向けられるべき私たちの目の事。ただ、厳しい人生の現実の中で、その私たちの目に濁りが生じ、ともし火が見えにくくなっているかも知れない。もう一度、澄んだ目を取り戻そう。神の愛の光を切に求めて・・・。




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# by aslan-simba | 2016-09-14 07:35 | Comments(0)

名月・・・もったいなし

 
秋、夕暮れが日ごとに早くなっているのを感じます。そして月が美しい季節。「くれがたの庭そうじ それがすむのをまっていたのか すぐうしろに は音もなく のっそりと出ていた」・・・そんな詩を思い起こしました。作者は明治末、大正期のキリスト教伝道者で詩人の山村慕鳥(やまむらぼちょう)。

 
「ああ、もったいなし もったいなし 妻よ びんぼうだからこそ こんないい月もみられる」、これも「月」を詠った彼の詩の一つです。何とはなしに、彼の伝道者生活が伺えます。 なお山村慕鳥という名は、詩の先生から貰った筆名で、そこに 「
静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」の意味が込められているそうです。まさに、その名のとおり、彼はのびやかに季節の自然とその風景を、喜びと感謝をもって詠っています。

 「
ああ もったいなし もったいなし  この手は どちらにあわせたものか  いま 日がはいる  うしろには 月が出て いる」。ミレーの名画「晩鐘」とも重なるような、一日の終わりの光景。今日も生かされてきたことへの感謝の思い。深い魂の感動をもって、天を仰ぎ、思わず「もったいなし」と手を合わせる。ありがたいほどの日の入りと月の出の光の下で・・・。彼の信仰が、垣間見えて来るようです。古くからの日本人の感性がそこに接ぎ木されています。私たちもそんな「もったいなし」の心を大切にしたいと思います・・・。

 思えば、遠い
昔から、私たちの祖先も月や太陽そして自然を、そのような思いをもって崇めて来ました。そして、そこに素朴な目で「神」を見出し、祈ってきたのです(お月見行事は、遣唐使によって伝えられたと言われますが、それより、はるか以前から日本人は月を崇めてきました)。

 聞いた話ですが、「お月見」の時に、
お供え物と共に「すすき」を供えるのは、すすきを稲穂に見立てた神への収穫感謝なのだそうです。「もったいなし」・・・。 私たちは今、中秋の入り口に立っています。朝夕に耳を澄ませば、虫たちの美しい音色に気づかされます。もうじき「中秋の名月」が巡ってきます。清々しい季節の恵みの中を、感謝と共に新たな希望をもって歩んでまいりましょう。

 
911日説教「幸いなる者」要約:
「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ福音書53)
この「貧しい」は、「物乞い」を表現する言葉です。つまり無一物・・・。また自分の心の中にも、寄り頼むべきもの、支えや誇りが何一つないという事です。本来、私たちは神の前に、そんな「心の貧しい者」なのです。それを認めて、「ひたすら神の憐みに寄りすがって生きよ」、主はそう命じられます。




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# by aslan-simba | 2016-09-06 16:26 | Comments(0)

9月の暦・・・良い予感

 新たな月、昼間の日差しは未だ強いものの、猛暑は陰りを見せ、朝夕の空はさわやかな季節を告げています。

 カレンダーを括りながら、ふと思います。「歴史に繰り返しはない」・・・天地創造以来、世界が終末へと動いているのなら。そして、その中にある私たちも、生まれてから死ぬまで、繰り返しのない時間軸を進んでいるのでしょう。

 ただ、そんな時間の流れの下でも、私たちを囲む自然環境は、ある一定の周期で繰り返しがなされているのも事実です。それを測るため、古人は天体や自然の移ろいを基礎に暦を作り、生活上の指針としました。その一周期の中に特別記念日、祭日等による区切りを設定したのです。この世界にはそんな幾通りもの暦があります。 昔の日本人は、大陸から伝わった月の満ち欠けによる太陰暦、旧暦を採用。そこに生じる1年周期のズレを修正して、四季区分設定の
ために1太陽年を24等分する二十四節気という手法を用いました。

 現在の私たちは太陽の公転に基づく太陽暦、新暦を用いていますが、この二十四節気は今の暦の中にもなお生きづいています。それによるとこの99日は「重陽の節句」「菊の節句」にあたります。
(33)や端午(55)の節句ほどメジャーではありませんが、かつてはこの99日の節句は、非常にめでたいものとされたそうです。というのは、易学上9は最高の陽数(奇数は陽で9は最も大きな陽。ちなみに偶数は陰)で、その9が二つ重なる日だからです。

 またこの節句のシンボルである菊は、邪気を払うとされ、菊鑑賞は縁起がよいと喜ばれたとのこと。但し、明治に採用された新暦では開花時期がずれるため、この日が一般では祝われなくなった由。 なお教会暦によると、その前日の98日が「聖母マリアの誕生日」です。カトリックや東方正教会では、今もこの日を大事にしています。伝承によると、マリアは信仰厚い年老いた夫妻のもとに生まれたそうです。

 さて、最高の節句とマリアさまの誕生日の存在に気づいた今年の9月、何か良いことがありそうな予感がします。今、新たな季節の
風もそよぎ始めました。


9月4日説教要約「主の招き」
「・・・宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(ルカ福音書14:13-14)
 厚意を受けても、感謝をもって受け取る以外に何もできない。それは神の御前における私たちのことです。御国へと招かれている幸い・・・ありがたいことです


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# by aslan-simba | 2016-09-01 14:09 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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