待つこと、祈ること

 晩秋から冬へと季節が一段進み、寒さも厳しくなってまいりました。早いもので今年も12月、師走です・・・。 

 今日は一日走り回るように仕事をしました。気づけば、とっぷりと日は暮れています。身をもって実感する一日の短さ・・・。 思うに物事、なかなかはかどりません。成果は簡単にでません。また、不安や多少の困難も相変わらず抱えたままです。時に自らの老化による限界を感じることもあります。

 それでも今、不思議と満たされた思いをもって、机に向かえている・・・。ありがたいことです。神さまの約束を「待つこと」、「祈ること」を心に刻みつつ、待降節の時を過ごせることに感謝。すべては御言葉を通して、教えられた賜物でしょう。

 聖書には神さまをどこまでも信頼し、忍耐をもって待つことの大切さが、繰り返し語られています。例えば詩編の聖句に「わたしの魂よ、沈黙して。ただ神に向かえ、神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心注ぎだせ。神はわたしの避けどころ」(詩編6269)とあります。

 私たちは、
どのような時にも神さまを信頼し、冷静に神様の約束の実現を待つことが願われています。勿論、それは必ずしも容易なことではない・・・。私たちは、せっかちに答えを求め、待つこと、忍耐すること、祈ることが出来なくなることもあるからです。しかし大事なのは、人生の困難や問題、不安は、すべてイエス・キリストのみあとに従う証と受け止め、神さまを「避けどころ」として祈り、待つのを止めないことです。

 もちろん「待つ」のは、待降節の時だけはありません。世にある限り、この人生 何歳になっても、また最晩年を迎えても、祈り、待つことが許されているのです。それは恵みです。それによって私たちは厳しい人生の現実にも耐えられるのです。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。・・・主を避けどころとする人を、主は救ってくださる」(詩編37140)。明日も待ちつつ、祈りつつ、走り回ります!


☆12月11日説教「目覚めよ」要約:

「・・・あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。・・・夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。・・・主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ131114)

 このアドヴェント、新たな思いをもって、身を正したいものです。キリストを身にまとい、主との交わりの生活の回復をしましょう。御言葉を心に刻み、新たな一歩を踏み出しましょう。



 


 

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# by aslan-simba | 2016-12-06 22:44 | Comments(0)

待ちつつ急ぎつつ

 待降節、アドヴェント(Advent)の原語であるラテン語アドヴェントゥス(Adventus)は、「到来」を意味する言葉。つまり待降節とは、二千年前の最初のクリスマスに思いを馳せるだけではなく、将来この世の終わり時に再び来られる栄光のキリストに思いを寄せ、待つことを覚える期間でもあるのです。

 この時期になると私は決まって、
19世紀ドイツのブルームハルト牧師を思い起こします。彼は生涯真摯に主を待ち続けた信仰者でした。「主が来られる日を待つ者は、この先もすべてが今と同じように続くものと考え、日々を無気力や怠惰のうちに過ごすのではなく、その終わりの日に向かって、急ぐかのように、その実現を信じて進むべきである・・・」(ペトロ二312に基づくブルームハルトの説教要旨)

 彼は若き牧師時代に、教会員で原因不明の痙攣と出血で、医者にも見離され苦しむ女性のために、癒しを祈り続け、二年を経て聖霊による癒しを経験しました。1843年のクリスマスの時です。それは正に「悪霊」との闘いの末にもたらされた力強い主の勝利でした。ただ、この出来事は当時の教会当局、神学者や牧師の間に大きな波紋を投げかけます。一方多くの人々が彼のもとに癒しを求めて訪れ、小さな教会堂の日曜礼拝は人が溢れ、外で彼の説教を聞く人の方が多かったという逸話ものこっています。

 さて、そんなブルームハルト、
いつも牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない新しい馬車を用意していました。それは主が来られる時、直ぐ駆けつけるためだ、と言っていたそうです。実に純真な信仰に生きた人ですね。

 再び来られる主の到来・・・「その日、その時」がいつかは、私たちには分かりません。しかしそれがいつ、いかなる時であっても、私たちは自らの最後を主に委ね、今の時を、信仰をもって希望に生きるようにと招かれています。共々に身を正して、アドヴェントの時を過ごしてまいりたいものです。

 ブルームハルト牧師の愛唱聖句「
神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」(ペトロ二31112口語訳)


☆12月4日説教「主を求めよ」要約:

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。・・・主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ書5567

 主は、私たちの近くにいてくださる。私たちが今、なすべきことは、主の豊かな憐れみとみ赦しを信じて、主のみ許に立ち帰ることなのである。

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# by aslan-simba | 2016-11-29 08:13 | Comments(0)

晩秋に老いを

秋から冬へと移り変わる11月下旬。深まり行く季節の光景を見つめながら、夕暮れ時にふと寂しさを覚えることがあります。その感覚は若い頃に感じたセンチメンタルな感傷とは、どこか異なります・・・。おそらくは季節の移り変わりを、自分の中で人生の歩みと重ねて見ているためでしょう。晩秋に老いを覚える・・・。


もっとも主観的には自分自身、あいかわらずヤングのつもりです。しかし、もう60歳代半ば・・・。 先日、運転免許の更新に行き、次回更新時には70歳になることに気づきました。(ペーパードライバーの私にとって、今回が最後の更新ということになるでしょうか・・・)。確かに近頃、視力や記憶力の衰えを感じます。体も以前より多少疲れやすくなりました。間違いなく寄る年波のせいでしょう。


イザヤ書は告げます。「肉なるものは皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい」(イザヤ406-7)。まさに「諸行無常」・・・。 春に萌え出で、夏に輝いた草木の自然は、直にその色を変え、やがては枯れて、冬を迎える・・・。ならば寒い冬に備えて、冬物の衣類や暖房器具を出して冬支度をするように、人生の冬へと向かうための具体的な心の準備も必要です。


ちょうど今、教会のカレンダーは、待降節(アドヴェント)の時期に入ります。それは私たちに救い主の到来の出来事(クリスマス)を告げ知らせ、キリスト来臨の心備えを呼びかける期間なのです。


ところでイザヤ書は御言葉を、こうも記します。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書4634新改訳)と。 ありたがいことです。


まずは主に委ねて、この先も安んじて歩める幸いをかみしめたいと思います・・・





1127日説教「人の子の到来」要約:

「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ福音書2136

 私たちの信仰は絶えず希望に繋がっています。人の子にまみえる時には、心から待ち望んでいた者として、御前に立ちたいものです。



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# by aslan-simba | 2016-11-22 21:02 | Comments(0)

晩秋の祈り

 高村光太郎の「秋の祈」という詩の一節から。「秋は喨々(りょうりょう)と空に鳴り 空は水色  鳥は飛び 魂いななき  清浄の水こころに流れ こころ眼をあけ 童子(どうじ)となる・・・」。

 「喨々」は明るく澄んだ音が響きわたるさまを言い表す表現。澄み渡たる秋空は真っ青、自らの心も清くされ、無垢な子供の心のようになって行くと詠っているのです。 さらに、この詩の最後の部分にはこうあります。「・・・
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまず)く いのる言葉を知らず ただわれは空を仰いでいのる 空は水色 秋は喨々と空に鳴る」と。

 今から四十数年前、11月のちょうど今頃。高校の修学旅行で、光太郎の「乙女の像」のある十和田湖畔を訪れました。あの時の美しい晩秋の光景が、昨日のことのように甦ってきます。そして感謝と祈りをもって芸術に取り組んだ詩人・彫刻家の歩みに思いを馳せます・・・。

 ところで1123日は勤労感謝の日。戦後に「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日」と規定された祝日ですが、元々は「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれ、五穀豊穣を天地の神に供えて感謝の祈りを捧げる日でした。国民の祝日の起源を辿るとそのように、先人たちの宗教性が垣間見えてまいります。

 祈る心と感謝の思い・・・それは古くから、この国の自然と共に日本人の精神性の深いところにあって、人々の心を養ってきたものでしょう。日々の安寧を祈り、与えられた恵みに感謝し、自分のことだけではなく、自分を支えてくれるすべての命に感謝する。一人では何もできない、至らない自分であるのを知るからこそ、祈りと感謝をもって、命のつながりを意識する行いが連綿と続いて来たのだと思います。この伝統を大切にするところに、私たちはキリストの信仰を与えられています。ありがたいことです。

 内村鑑三の墓碑銘をあらためて思います。I forJapan. Japan for the world. The world for Christ. And all for God.
(私は日本のために。日本は世界のために。世界はキリストのために。そして全ては神のために)・・・。



☆1120日説教「神にはできる」要約:

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ福音書1027

「神は何でもできる」・・・神は、私たちの罪を赦し、私たちを救うこともおできになる。この御言葉を語られた主イエスは、その神の御業を成し遂げて下さったのである。私たちはひたすら、その神の恵みに応えて生きる者でありたい。

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# by aslan-simba | 2016-11-16 19:32 | Comments(0)

授業を終え、学生が帰ったあとの夕刻の教室にしばし佇んで手を合わせる。夕暮れが寂しく感じられる季節、いつも以上に「祈り」を意識する。

 帰途へと向かう道の両端にはあかあかと夕陽に照らされた田畑が広がる。そんな中、ふとフランスの名画、
ミレーの『晩鐘』の絵を思い起こした。一日の労働を終えた、貧しい農家の夫婦が祈りを捧げている絵だ。

 調べてみると、この絵の原題は「
L'Angelus(アンジェラス)」と言い、「エンジェル(天使)」を意味する言葉で、朝、昼、夕の祈りの時を知らせる教会の鐘の音が、そう呼ばれていたのである。その鐘の音を聞くと、人々は手を休めてこのような祈りを唱えた。

「・・・神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」(カトリック教会の祈祷文参照)。

 これは「お告げの祈り」と呼ばれ、おとめマリアが、天使ガブリエルから受胎告知を受けたことを心に刻む祈りだという。描かれている二人のしぐさ・・・両手を重ね頭を深くたれる妻、帽子をもって頭を下げて祈る夫。彼らのこの祈りの中には、定められた祈祷の言葉をこえる、さまざまな願いが込められていたことだろう。そんな二人の敬虔な祈りの声と、アンジェラスの鐘の音が画面から響き渡ってくるようだ。さらには夫婦の互い対する熱い信頼と、神に委ねる確かな信仰も伝わってくるのである。

 あらためて思う。祈れることは本当に幸いなことである。どんなに今が厳しくとも、辛くとも、祈りは明日の希望をもたらしてくれる。祈りは私たちを、命の根源である神としっかり結び付けてくれるからである。 また祈りは天に帰られた人々との繋がりをも確かにしてくれる。ちなみにこのミレーの絵には、彼が幼い日に受けた祖母のあつい信仰の影響があるという。祖母はミレーに、亡くなった人々をも覚えて祈るようにと教えていたそうだ・・・。

 仕事を終えた今夜も、心して祈りたい。明日を信じて・・・。祈りは、主に在って生きる者も召された者も、過去も未来も、天と地をもその一切を結んでくれるのである。



1113日説教「神の姿」要約:

「御子は、見えない神の姿であり・・・」(コロサイの信徒への手紙115)

聖書によれば、人と神とは絶対的に異なる存在。神と人との間にはなんらの連続性もない。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子イエス・キリストなのだ。
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# by aslan-simba | 2016-11-10 21:36 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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