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「今日、あなたがたが神の声を聞くなら、荒れ野の試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ3:7)。 私たちは今日という日に、今ここで生きています。そこには、喜びや楽しみだけではなく、現実の悩み、苦しみ、悲しみもあります。それでも、心を頑なに閉ざすのではなく、神さまに向け大きく開いて行きましょう。 宗教改革者マルティン・ルターが語ったとされる、こんな言葉があります。「たとえ明日、世界が滅ぶとも、私は今日リンゴの木を植える」。ルターの生きた中世末期のヨーロッパ、さまざまなことがありました。まさに生と死が、日々背中合わせの時代だったと述べてよいでしょう。なかでも黒死病の力は大きかったと聞きます。全人口の半分が死に絶え、人々の平均寿命も二十代だったといいます。その恐ろしい病気が猛威をふるった時代状況にあっても、ルターは、今ここにある今日という日の恵みを覚え、全力を尽くしてその日々を生きました。彼の真摯な信仰と徹底した神への信頼が伺えます。 私たちも自らのリンゴの木を、今日またここに植えて行きましょう。小さな、些細なことでも、誠実に、しかし一歩一歩着実に押し進めて行く、そこに明日への希望も生まれてくるはずです。言葉を換えれば、明日という日が期待できるのは、今日という日の闘いがあればこそです。よしんば、この世での明日が来ない場合、私たちはあの十字架上の罪人と同じように「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)という主イエスの御言葉を聞くことができるのです。この今日という日、我が生死を超え、神さまがどこまでも共にいて下さる御恵みに感謝しつつ、雄々しく歩んでまいりましょう。
☆5月20日説教「エリヤとエリシャ」要約: 「・・・エリヤはエリシャに行った。『わたしがあなたの下から取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。』エリシャは、『あなたの霊の二つ文をわたしに受け継がせて下さい』と言った。」(列王記下2:9)。 預言者エリヤは、バアルの預言者とカルメル山で戦い、勝利を得た。しかし、王妃イゼベルの報復を恐れて身を隠す。そこにおいて神の力を受け、再び立ち上がり、後継者としてエリシャが与えられる。今日は、どのようにしてエリヤからエリシャに霊の賜物の継承がなされたかを見てみたいと思います。
若葉が初夏の日差しの中で輝いています。「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」・・・ドイツ語にも「麗しき五月」(Schönes Mai)という表現があります。やわらかな季節の道を行けば、吹く風も心地よく、新緑の木々の息づかいが、間近に感じられます。 ふと、こんな讃美歌が口をつきます。「みどりもふかき 若葉のさと ナザレの村よ 汝(な)がちまたを こころ清らに 行きかいつつ そだちたまいし 人を知るや」(讃美歌122、新聖歌98)。主イエス・キリストの生涯を歌ったものです。主はその「若葉の里」の美しい季節の中で人々に、「空の鳥」、「野の花」を指さしつつ、神さまの愛を教えられたのです。私たちに命を与えて下さった神さまは、私たちの必要なものをすべて知っておられる。だから主は、「思い悩むな」(マタイ6:31)、と。 四月に新社会人や大学の新入生となった若者たちが、新たな環境に適応できない悩みを抱えることを「五月病」と言いますが、今は、そんな不安の時期かも知れません。もっとも「思い煩いと心配」・・・これは幾つになっても、季節の関わりなしに、私たちの人生についてまわるものです。 そのような私たちに、イエスさまは、「あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(6:27)と言われ、私たちを励まされました。私たちは、人生のすべてを自分一人の力では到底背負いきれません。人間の力には限界があるのです。だから、神さまに存分にゆだねましょう。五月のやさしい自然を造られた神さまは、私たち一人一人を本当に良き方向へと導いて下さいます。
☆5月13日(母の日)説教「心の開眼」要約: 「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(エフェソの信徒への手紙1:18)。 私たちは神さまから、大いなる希望を与えられている。その希望とは、地上の生涯を終えた後に神の御国へと迎えられること、そして、今の生涯の日々を、神さまご自身の御力に与って生きて行けるという約束なのである。そのことを真摯に覚え、心の目を大きく開かれ、喜びをもって歩んで行きたいものだ。
「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。」(マタイ8:23―24)。 聖書の中に人生が見える。この記事からもそのように示された。思えば、私たちは世間という「海」のなかを、人生という「舟」に乗り、日々こぎ渡っているのである。いつも快晴で順風満帆であれば、問題はないが、大波小波に悩まされることもしばしばある。それでも、何とかそれをやり過ごしてきた。このままの航海がなんとか続けばと願う。しかし、「板こ一枚、下は地獄」、想定を越えるほどの激しい嵐や津波に襲われ、一網打尽の危機にさえ直面する。ちょうどガリラヤ湖の沖合で弟子たちが体験したように。 その時、主イエスは眠っているように思われた。「神の沈黙」・・・絶体絶命のピンチ、私たちならどうであろうか。ただただ手をこまねいて右往左往するのか、座して死を待つのか。 弟子たちはそうではなかった。彼らは主イエスを揺り動かして叫んだ。「主よ、助けてください」と(25節)。これは心から求める激しい「祈り」だ。人生の危機に瀕するとき、私たちに必要なのは、このような真剣な祈りであると敢えて言いたい。この神をも揺り動かすような熱い祈りこそが、人生の嵐を鎮めるからである。感謝なことに、私たちは本気で祈り、訴え、ゆだねるべき御方を知っている。これこそが信仰者冥利につきるのではないか。その御方が必ず救ってくださる。「何事につけても感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい、そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリヒ4:6―7)。
☆5月6日説教「泉に」要約: 「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(詩編84:6―7)。 人生の歩み、私たちは時に辛く厳しい「嘆きの谷」(新改訳・文語訳では「涙の谷」)を行かねばなりません。そのような不運を悲歎する人は少なからずいるでしょう。しかし、「嘆きの谷」を行かねばならない運命が不幸なのではありません。そうではなく。そこを「泉」にできないことこそが、問題なのです。私たちは「嘆きの谷」を、主に在って「泉」の湧くところにすることができる。神はそのように導いてくださるのです。
長い冬が終わり、桜の花の時が過ぎると、いよいよ春本番。野山が新緑に染まり、春の息吹を感じる季節を迎える。春爛漫、「山笑う」時節の到来である。 今、教会のカレンダーは復活節の光のなかにある。「命の季節」、まさに自然や大地が「神の新たな命の創造」=「復活のわざ」を示している。そこから私の思いは天地創造の物語へと導かれるである。 旧約聖書の第一頁は、「初めに、神は天地を創造された。・・・光あれ・・・」から始まる。創造物語によれば、このように世界、自然、動物、人間が造られたとされる。そして、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。そこから、「第七の日を神は祝福し、聖別された」のである。こうして創造物語の第一幕が閉じられる。ここで物語が完結していれば、創造物語は一編の麗しい「太古の神話」で終わっただろう。しかし聖書は、「真実」を告げる。人間の神からの離反・・・そこから世界は真実の光を失い、人間は罪に苦しみ、自然界にも混乱が起こる。結果的に人間は自らの手で、この世界に地獄を造り出すに至ったのである。 神はこれをそのままにはされなかった。神ご自身が御子をもって、歴史の中に人として降られ、十字架の贖いの死と復活によって我々を赦し、新たな命を約束し、天地創造の働きを完成されたのだった。 信仰とは、この「新たな命」を我が身に見出すことにある。さらにその命の息吹に生き生きと生かされ、喜びをもって生きることである。幸いなことに、私たちは神さまご自身に最後の日まで、そして永遠に、我が身をゆだねて歩んで行けるのである。雄々しく行こう、復活の春の日差しの中を、永遠の祝福の光に照らされながら・・・感謝。
☆4月29日説教「恐れることはない」要約: バビロン川の流れのほとり。第二イザヤと称される無名の預言者が、捕囚のユダヤの人々に御言葉を語りかけます。捕囚生活に疲れ果てた人々が抱くのは、あきらめと徒労の思いでした。そんな彼らに対して、第二イザヤは力強く告げます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」(イザヤ書41:10)。今、御言葉は時空を超えて21世紀の日本に生きる私たちの中にも響き渡っています。「恐れ」、「たじろぐ」ことはありません。神さまが共にいて下さり、私たちを救って下さるのですから。
先日、スティーヴ・ジョブズについての話を聞く機会があった。彼は米国スタンフォード大学の卒業式(2005年6月)で講演をし、「ハングリーであれ、愚直であれ (Stay Hungry, Stay Foolish.)」と語ったのである。これは、ジョブズ自身が七十年代に感銘を受けた本の背表紙にあった言葉だったという。講演で、彼は自らの波乱万丈の歩みを振り返える。そして、理想を高く掲げて、自分の信じるところに従い、未来に向かって歩むように、と卒業生たちを励まし、続いてこう語るのである。「ハングリーであれ、愚直であれ・・・私自身、いつもそうありたいと願っている。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい」と。今なお、彼のこの講演の言葉に元気づけられている若者は多いという。 私も、パソコンの動画でこの講演を確認しながら(そのような便利な時代に我々が今あるのも、ジョブズの影響力の一つだろうか)、言葉に不思議な力があることをあらためて思い知らされた。また、それは他ならぬジョブズ自身が、その言葉通りに、「ハングリー」と「愚直」に徹し続け、偉大な成功者となったことにも示されるのである。 ところで、 ”Stay Foolish”から、使徒パウロのこのような言葉を思い起こさせられた。「本当に知恵ある者となるために愚かな者になりなさい(You need to become a fool to be truly wise.)」(コリント一3:18)。ある意味、それはジョブズの言葉と重なるのではないだろうか。ともあれ、私はどこまでも、主に在って愚かであり、主に在って愚直でありたいと願う。そして共々に、力ある御言葉に与り続け、私たち皆が「救い」という言葉ではあらわすことのできない境地に、「大成功」に与ることを祈り続けたいのである。
☆4月22日説教「希望」要約: 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え・・・あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペトロの手紙一1:3、5参照) キリストの復活は、私たちの未来を拓く出来事でした。その御力に与る時、私たちは人生最後の一秒、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで生き生きと生きることができる。何と感謝なことでしょう。
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