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早朝ウォーキングを続けながら、夜明けが少しずつ遅くなっているのを実感しています。思えば地蔵盆も過ぎました。家の前でボール遊びに興じていた近所の子供たちの夏休みも、余すところあとわずか。

 町内のラジオ体操が再び始まっています。(ここの町会では、夏休みの始まりの一週間と、最後の一週間の朝にラジオ体操が行われています。私も参加)。皆さんにとって、今年の8月は如何でしたか。

 高校球児たちの熱い夏、炎天下の甲子園での戦いはこの日曜日に終わりました。また日本選手の堂々たる活躍が本当に嬉しかったリオのオリンピック、感動や励ましを受けた人も多いと思います。その余韻を残しつつ、これも終わりました。

 まだまだ暑さは続きますが、夏も最終ラウンドに入っています・・・。ちなみに23日(火)は、暦の上では暑さが一段落し、秋の気配を覚える「処暑」でした。暦は正直です。日中あんなにうるさかったクマゼミの声はいつのまにか聞こえなくなり、朝夕はヒグラシとツクツクボウシの声が静かに響き渡っています。空は入道雲から秋の雲に・・・。パソコンの手を休め、そんな晩夏の景色を窓越しに見つめながら、芭蕉の句が口をつきます。「夏草や 兵どもが 夢の跡」・・・。

 たまたまオンにしたインターネットラジオからは、こんな歌が流れてきました。「夏が過ぎ 風あざみ だれの憧れにさまよう 青空に残された 私の心は夏もよう・・・八月は 夢花火 私の心は夏もよう」・・・夏の終わりの寂しさが妙に心にしみます。それでも終わりがあるところには、必ず新たな始まりと希望があることに思いを馳せます。

 海外のメディアで好評を博していた閉会式の「Flag Handover Ceremony-Tokyo 2020」(引継ぎ式)、ネット動画で見てみました。音楽や演出、いろいろ工夫され、次の東京へとオリンピックの夢と希望をつなげることが示されています。SEE YOU IN TOKYO・・・。二度目の東京オリンピック、一度目の東京オリンピックを知る者としても新たな楽しみができました。

 さて目先の季節はいよいよ初秋、朝夕の風に新たな季節の息遣いを一杯に感じながら、心を高く上げ、思い切り足を前に踏み出し進み続けたいものです。


☆8月28日説教「解放の御業」要約:「『婦人よ、病気は治った』・・・この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていた・・・」(ルカ福音書13:12、16)。 主イエスは「婦人よ、病気は治った(解放された)」と言います。主はサタンに縛られている者を解放してくださる方として来られ、真の安息を私たちに与えて下さるのです。彼女において現された解放の御業は、私たちの内にも始まっています。
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# by aslan-simba | 2016-08-27 11:41 | Comments(0)

人生のメダリストに

 早朝ウォーキング、黙想と祈りの時を終え、すがすがしい気持ちで朝の食卓に。日本人選手の活躍を伝えるオリンピックのニュースが流れています。選手たちの研ぎ澄まされた演技、迫力のあるプレーに、表彰台に立つ美しい彼らと日章旗、また戦いに敗れても再起を誓うその姿に・・・本当に励まされます。

 多くの選手が幼い頃から厳しい練習を積み重ね、挫折や試練を乗り越えて今ある・・・。そんな彼らを支えて来たのが「大きな夢」であり、「将来へのヴィジョン」だったと、あらためて知らされ、「夢」と「幻」(ヴィジョン)の力に思いを馳せます。同時に彼らの気概に学ばされます。

 ふとペンテコステの聖句が脳裏を走りました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻(ヴィジョン)を見、老人は夢を見る」(使徒217、ヨエル31)と。 日常生活の不平不満ばかり語る人がいます(嬉しいこと、感謝すべきことも多々あると思うのですが)。ある種メディアの影響もあるのでしょうが・・・。ただ
そういった言葉は、自分のみならず、周囲の人の心をも暗くします。

 将来に不安しか覚えられないときは、聖霊を求めて、真剣にひたすら祈りたいと思います。聖霊に与るとき「老人は夢を見る」のです。 夢とは、明るい未来、将来の希望を想定したものです。私たちは、そのような開かれた未来と共に、充実した今を生きることができるのです。
年齢を重ね、心身に弱りを覚えつつも、過去ではなく、未来に向かって生きる勇気が得られるのです。

「人生のオリンピック」のフィールドで私たちは、
「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ121)、さらに「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の冠を受けるばかりです」(テモテ二478)と私たちも人生のメダリストになりましょう。御国の夢を最後まで信じて。主に委ねて。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ403031)。御言葉がこの身に成りますように。



☆8月21日説教「憐れみ」要約:

「バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた・・・『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください・・・』」(マルコ福音書104851

 神の憐れみを自らの身に経験したバルティマイ。この奇跡物語は「主よ、憐みたまえ(キリエ・エレイソン)」という祈りと共に伝えられている。私たちも今、同じ憐れみの中に生かされている事に思いを注ぎたい。

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# by aslan-simba | 2016-08-17 19:30 | Comments(0)

お盆、日本の夏

 八月、花火大会、蝉時雨、風にそよぐ風鈴の音色・・・日本の夏は風情がありますね。日本人に生まれて良かった・・・。

 さて大学も夏休みに入り一段落。のんびりと旅行、読書三昧、オリンピックのテレビ観戦などやりたいことは山ほどありますが、まだ無理。採点や成績付けそして秋学期の準備と大事な仕事が残っています。私の夏休みの宿題です。

 そんな宿題に追われながら、カレンダーに目をやると、そろそろお盆・・・。ご先祖様の帰宅を迎えるこのお盆の由来は、年の区切りや、農耕生活の折り目に行われていた祖霊を祀る日本古来の風習が起源で、それが6世紀に伝来した仏教の、冥界で苦しむ死者供養の儀礼と合体したのだそうです。

 ところで、半世紀以上も前ですが子供の頃に、母がお盆にキュウリの馬、ナスの牛など野菜を使った乗り物を作り、迎え提灯やお膳を準備していたのを覚えています。また一度だけ家の前で迎え火を焚いたこともありました。あれは祖母の新盆の年だったと思います。ただし東京のお盆は7月でしたが・・・。

 今の私の生活は、お盆とは直接的な関係はありませんが、先人たちとの関わりを覚えるこの日本の行事、大事にして欲しいものです。あるお坊さんが、こんなことを述べていました。「お盆は自分とご先祖様との命の繋がりを表します。ご先祖様から自分の命を見直す機会なのです」と。

 自分の命は自分だけのものではありません。脈々と流れる大きな命の流れの中に、今の自分があるのです。さらに、その命を育んで下さっている方がいる・・・。それを私たちは「神」と言い、あるいは「仏」というのでしょうか。そんなことにも思いを馳せ、お盆は静かに祈る時でもあるでしょう。

 なお奇しくも8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされています。またカトリック教会ではこの日を、主イエスの母マリアが、栄光に包まれて天へ上げられた記念日、「聖母被昇天の祝日」とします。私たちの救いが、聖母マリアの昇天をもって、そこに象徴的に表現されているのです。

 うだるような暑さが続いていますが、健康に留意し、良きお盆の時を過ごされますように。



☆8月15日の説教「神の国へ」要約:
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコによる福音書10:14‐15)
 神の国とは神の愛と恵みが支配する世界。そこに入ることができるのは、乳飲み子が親を呼び求めるようにただひたすら神御自身を求める人、神に感謝をもって身をゆだねる人、「神の国=神の支配」を無条件に受け入れる人なのです。
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# by aslan-simba | 2016-08-10 07:41 | Comments(0)

大予言の彼方に

 先日の夕刊に「昭和48年」の世相が載っていました。西暦1973年、この年は「連合赤軍幹部の獄中自殺」のニュース速報で年が明け、映画は「エクソシスト」、テレビでは宇宙人やUFOが話題となり、巷では世紀末に「恐怖の大王が降ってくる」という『大予言』がブームに・・・。「『1999年までしか生きられないんだ』と思った人も多かった」由。私も「その時は47歳か・・・」と何とはなしに思い巡らしたものです。

 また大学の授業で、オイルショックとエネルギー問題に言及した先生が、「これから先の日本の状況、私は極めてペシミスティク(悲観的)だ」と深刻な顔で語ったのに対し、10名ほどの小クラスだったので、私が「いよいよ末法の世でしょうか」と応答した記憶があります。

 何となく不安に彩られた年であり、時代状況でしたね。しかしあの年に限らず、今に至るまでいつの時も、あいかわらず「不安な時代」と喧伝されるのですが・・・。

 なお「末法の世」とは、仏法の推移を三時期に分けた場合の最後の滅びに至る時期。平安末期に流行った仏教的歴史観に依ります。いわば没落史観でしょうか、ある意味でキリスト教的終末観とも重なります。

 もっともあの頃、時代が転換期にあるとの認識はあったものの、日本の将来を決して悲観視していませんでした。若かったし、どこか自分自身にも自信があったようにも思います。やがて社会人になり、また牧師になって、そんな自信も打ち砕かれ、おまけに随分と心配性にもなりましたが・・・。

 それでもなお「明日は今日より良い日に」という願いを共に、現在の日々を過ごしています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5:4)との聖句を心に響かせ、なお輝かしい未来に思いを馳せ、今の時に生かされている・・・。

 ちなみに末法思想も、もちろんキリスト教の終末論も、終末の彼方には「救いの完成」があることを語っています。本来は「末法」も「終末」も悲観すべき事柄でなく、希望につながるものなのです。だから神さまに委ね、人生最後まで安んじて歩み続けられる・・・感謝。


☆8月7日説教「神の平和」要約:
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(ローマの信徒への手紙12:18)
 私たちが平和を祈るのは、この地上に平和のない現実があるからです。それは世界的な規模においても、身近な人間関係においてもそうでしょう。聖書はその根源である「悪」そのものを語り、私たちに十字架の主を指し示し、「善をもって悪に勝て」(21節)と述べるのです。
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# by aslan-simba | 2016-08-05 06:29 | Comments(0)

祈りつつ歩く朝

 梅雨の時節が終わり、いよいよ盛夏。道端で夏休みを迎えた近所の子供たちが、元気に遊んでいます。見上げれば青い空に白い入道雲、サルスベリの花々が、夏空に鮮やかなピンクのコントラストを描きます。 この夏、お盆の頃までは多忙な日が続きそうですが・・・それでも健康を支えられ、暑い京都の夏を今年も元気に過ごせること、有り難く思います。

 ところで、先日から早起きを始めました。午前4時半頃に気持ちよく目覚め、早朝ウォーキングを開始。家を出て一時間弱の道のり、蝉の声もまばらな、まだ明け染めぬ宇治郊外の街を、鳥たちの声に耳を傾けつつ歩きます。白い朝の光、ひんやりとした大気に包まれた自然、歩を進めながら思わず祈りへと導かれる自分に気づきます。創世記冒頭の御言葉を脳裏に走らせながら・・・。

 私は、創世記の天地創造の物語が好きです。朝の光の中でそれがあらためて示される・・・「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」(1:3)。神が呼びかけるのが「地」、この世界。それが「混沌」と「闇」(1:2)。そんな底なしの深みを暗黒が覆っているような虚無の世界。その「地」に創造主なる神が語りかける。「光あれ」と。そこから全く新しいことが始まるのです・・・。早朝の光に身を置くとき、私たちはこの創造物語を身をもって経験させて頂きます。

 ただ御言葉が告げる創造物語は単に「大昔の出来事」「原初の神話」というレベルのものではありません。この世界と人生の深い意味なのです。つまり、そこで言うこの世界と私たちの人生の本質、それは本来「混沌」であり「暗闇」に過ぎません。しかし、そこに神の御言葉、御業が介在する時、それが変革され、秩序が生まれ、意味がもたらされるのです。

 「光あれ」・・・。いつまでも混沌とした思いに囚われ、心の闇を抱えて不満を言いつのるのを止め、主を信じ、その御光に与って新たな日の一歩を踏み出したいものです。今日また新たに造られ、ここに生かされていることを覚える時、人生の未来に大いなる希望とヴィジョンが与えられます。 今年の夏も朝の光の中を、祈りつつ歩き、歩きつつ神の御言葉と御業を黙想する日々を過ごせること・・・感謝。


☆7月31日説教「信、望、愛」要約:
「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(テサロニケ一1:3)
 教会はただ単に人間同士の集まりではありません。神の救いの御業によって成る真の教会の指標として、パウロは「信仰」「希望」「愛」をあげているのです。
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# by aslan-simba | 2016-07-29 06:13 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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