晩秋...素晴らしい世界

 朝夕の寒気が厳しく、学校へ行く際には、コートと襟巻が欠かせなくなりました。「立冬」が過ぎて二週間。暦は正直です。日中の太陽は低くなり、日没は日毎に早まっています。晩秋から冬への変わり目・・・。

 キャンパスへと向かう坂道、北風に舞う紅葉を見つめながら歩けば、一抹の寂しさと、過さった日々が脳裏を走ります。 ふと学生時代に覚えた「枯葉」の歌詞が口をつきます。「The falling leaves drift by my window. The autumn leaves of red and yellow.(紅や黄色に染まった秋の枯葉が窓辺を漂い)・・・」 。昔、覚えたものは不思議と忘れていません。最近の記憶力は多少にぶくなっていますが。

 そういえば、「枯葉」と合わせてこの時期に決まって思い出す英語の曲が、What a wonderful world!(この素晴らしい世界)。ルイ・アームストロングが、どこか温かみのあるしゃがれた声で歌ったジャズの名曲です。こんな牧歌的な歌詞に惹かれます。 「・・・
明るく祝福された昼間 暗く神聖な夜 なんとも素晴らしい世界だと思う。空に とてもきれいな虹が架かる 行き交う人々の顔にも・・・ 友達たちが互いに『元気かい』と交わす挨拶。それは『君のこと本当に思っているよ』と伝えている。 赤ん坊たちの泣き声が聞こえる。彼らの成長を見届けたい。この子達は私が今まで学んできた以上に、もっともっと多くのことを学んで行くだろう。なんと素晴らしい世界」。

 穏やかさ、優しさ、愛と平安・・・。そんな思いの満ち溢れるユートピアを夢見て描かれた曲だそうです。特に晩秋の歌ではありませんが、私には木漏れ日に輝く、この季節の光をそこに感じます。未来へと拓かれた約束の世界、御国の幸いを、垣間見るような気がするのです。

 じきに迎える冬。紅や黄金色に染まった木の葉がすべて散った後、今年もアドベントとなります。クリスマスは神の御言葉がこの世に宿り、滅びる以外ない人間を、その滅びから救い出し、永遠の高みへと導かれることを示しています。秋の大団円は、そんな喜びの季節への入り口・・・「
神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道311口語訳)と思います。その麗しさを心に刻み、新たな季節へと歩みを重ねたいものです。


1126日説教「信じること」要約:

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(ヨハネ黙示録714新改訳)

 人生の困難な中で、人は神さまの愛と真実を見失うことがあります。しかし神の真実は変わることはありません。やがて「患難から抜け出た者たち」として、神さまに涙を拭われて、はっきりとその事実を示される時が来るのです。

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# by aslan-simba | 2017-11-20 19:05 | Comments(0)

親鸞聖人の福音

 毎年この時期に東京の菩提寺から、報恩講の案内が来る。報恩講とは「浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の祥月命日前後に、報恩謝徳の為に行われる法会」。ちなみに親鸞入滅は旧暦12621128日、新暦では翌年116日。真宗大谷派(お東)は旧暦、浄土真宗本願寺派(お西)は新暦で忌日を記念する。我が家の寺は大谷派ゆえ、毎年1123日に報恩講の法事を行っている。ただ一度も参加したことはない。

 今年も例年通り行けそうにないが、妙に親鸞のことが気にかかり、久しぶりに『歎異抄』をひもといた。この小著、今から七百数十年前、親鸞没後に弟子の唯円が記したもの。そこに親鸞の言葉と、その解釈がまとめられている。

 よく言われるが、宗教改革者ルターと親鸞の思想は実に似ている。20世紀最大の神学者カール・バルトも、その親近性に目を見張っている。ちなみに、このことに最初に気づいたのは16世紀に日本に来たカトリックの宣教師達だった。イエズス会のヴァ
リニャーノは言う。「これ〔浄土真宗〕はまさしくルターの説と同じである」(日本巡察記)と。阿弥陀如来の功徳を信じ、ひたすら念仏を唱えるだけで救われると説いた親鸞と、ルターの「信仰義認」との重なりを鋭く見抜いた宣教師たちの慧眼は見事。彼らは日本の宗教を真摯に学んでいた。

 なおこの親鸞とルター、時代的には300年の隔たりこそあるものの、若き日の苦悩、真剣な学び、後年に妻帯したことなど、その人生における共通点も多々見出せる。

 今回、『歎異抄』を読み直し、こんな言葉に思いを馳せた「
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」(阿弥陀様が長い間思いを巡らして立てられた本願をよく考えてみれば、この私、親鸞を御救いくださるためだった)。私の救いのため・・・。ルターも同様に、キリストの救いは「私のため」であったと強調している。「キリストは私のために死に、自らの義を私の義とし、私の罪を自らのものとなさった」(ロマ書講義)と。

 こんな讃美歌が口をつく。「主イエスの十字架、我が為なり」(讃美歌二編185)。親鸞を通し信仰を確認させられた思いだが、あまりにもプロテスタント的な浄土真宗・・・。 仏教は他の禅宗や真言宗等も実に興味深い。日本の先人たちの信仰からも心して学んで行きたいものだ。


1119日説教「キリストの黙示」要約:

「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に・・・栄光と力が世々限りなくありますように、  アーメン」(ヨハネの黙示録1:5―6)

ヨハネの黙示録は、1世紀末ローマ帝国内に広がった迫害最中に記された。そこに大事なことが告げられている。それは、今がどんなに辛い、過酷な現実下にあろうとも、主の愛の中に私たちがあることを忘れるなという事。心したい。



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# by aslan-simba | 2017-11-13 20:34 | Comments(0)

火葬について・・・

 先日、知人のオーストラリア人の先生がこんな話をしていた(彼の奥さんは日本人)。「妻の母が亡くなり、その葬儀を親族一同が思いを一つに丁重に執り行った、そんな日本人の姿に感動した。ただ驚いたのは『骨上げ』。火葬(cremation)後に、遺灰を渡されるものとばかり思っていたが、そうではなく、出されたのは焼け焦げた仰々しい遺骨だった・・・。しかもそれを自分たちで骨上げまでせねばならないとは・・・」と。

 この遺骨を重視する火葬の習慣は、元々は仏教の採用した葬法。我が国にも仏教伝来と共に伝わった。しかし、火葬が一般化したのは、ごく最近のようだ。公衆衛生の観点からも火葬は推奨されたものの、昭和20年代においても、まだ半数近くが土葬だったという(現在はほぼ100%が火葬)。

 ところで古代ギリシアやローマでも火葬が行われていた。とりわけ地位ある市民や、貴族、上層階級、皇帝一族は火葬されたのである。あの暗殺されたユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザ)も、火葬にふされている。「カエサルの遺体を焼く火炎は、それを見る人々の胸にも燃えうつり、カエサルの葬式は、その死を哀しむ場ではなく、その死をもたらした者たちへの怒りと憎しみの場に一変したのであった」(塩野七生)と記される。

 このローマで、火葬が姿を消すのは4世紀。明らかにキリスト教の影響だった。既に3世紀にキリスト教徒は火葬を否定し、自分たちの共同墓地(カタコンベ)を造っていた。地下に空間を掘り、その内部に設置した回廊や部屋の壁を四角く切り込み、そこに遺体を安置。さらにはその墓地内中央に小さな礼拝堂を設けた。そこには「体の甦り」の希望と、逝去者との素朴な一体感を覚える彼らの信仰があったのだろう。ただし聖書に火葬を禁じる戒めのないことは付言したい。

 なお墓については、主イエスがファリサイ派批判の文脈で語った言葉を思い起こす。「・・・偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ」。外見や形を飾ることではなく、中身が重要ということだろう(マタイ23:27)。それは亡くなった先人たちへの、私たち感謝の思いもそうかも知れない。そういえば、来年1月が父親の13回忌であることに気がついた・・・。



☆11月12日説教「私のために」要約:
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」
(ヨハネ福音書11:50)
 キリストは愛によって十字架に向かわれた。それは人間的に見るならば愚かなことだろう。しかし、愛するということは、時にあえて愚かになることかも知れない。あえて損をするという選択を為し、キリストは十字架の道を選び、歩んだ・・・「私」を救うために。

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# by aslan-simba | 2017-11-06 20:24 | Comments(0)

秋と黄色い蝶

  朝夕めっきり冷え込むようになった。何とはなしに哀愁を覚えるこの季節。 例年、この時期になると決まって思い起こすのが、リルケの「秋」(Herbst)という詩だ。

 「木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように 大空の遠い園生が枯れたように 木の葉は否定の身ぶりで落ちる  そして夜々には 重たい地球が あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる  われわれはみんな落ちる この手も落ちる ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ けれども ただひとり この落下を 限りなくやさしく その両手に支えてくれるものがある」(富士川英郎訳)。

 木の葉のように、やがては衰え、朽ちて落ちてゆくのが私たちの生・・・。それは「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」(蓮如)ということだろうか。しかし、そのような儚い存在である私たちを、その根底においてしっかりと支えてくれる手がある、とリルケは詠う。それは主の恵みの御手・・・主は両手で、まさに御腕をもって私たちを支えてくれるのである。 その主の御許に、召された方々のことに思いを馳せる深まり行く秋・・・。

 そういえば、これもこの時期に毎年決まって経験することがある。黄色い蝶を見かけることだ。去年もちょうどこの時期に、こう書いた。「目の前を黄色い蝶が舞い始めました。ありがたいことです。もうすぐ『聖徒の日』。蝶は『復活』のシンボル。アメリカの教会で、女性たちが胸に蝶のブローチをつけていたのを思い出します。40年も前の話ですが。また蝶は、さまざまな宗教や民間伝承でも、あの世とこの世を結ぶ存在。今、その蝶が天上の喜びを私たちに教えてくれているようです」(2016年11月2日)。

 今年もここ数日、何度も黄色い蝶を見た。私には、亡くなった人々が蝶になって、私たちのもとに来てくれているように思えるのだ。そこに、「今を大切に生きるように」と死の境を超えて、私たちを見守ってくれている先人たちの眼差しを感じるのである。彼らは私たちに「いにしえの神は難を避ける場所 とこしえの御腕がそれを支える」(申命記33:27)と伝えてくれているのではないだろうか。


☆11月5日聖徒の日礼拝「永遠に」要約:
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23:6)
 人生の残された日々に「何をなすか」は、私たちにとって大切な事でしょう。しかしそれ以上に大切なのが、何に心を向けて生きて行くかということです。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かって歩む時、私たちの限られた人生が永遠の意味を持つと思うのです。
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# by aslan-simba | 2017-10-30 21:38 | Comments(0)

11月・・・教会のお彼岸

 選挙が終わった。そして台風も過ぎ去った。季節が急に一段と前に進んだようだ。朝夕は暖房が必要となった。気づけば10月も終わりに近づいている。

 迎える11月は、1日の「諸聖人の日」(プロテスタント教会は11月第一主日が「聖徒の日」)から始まる。教会伝統はこの月を「死者の月」ないし「終末の月」として捉え、教会暦における一年最後の月としてきた。逝去された人生の先輩達を追悼する、いうなればキリスト教におけるお彼岸の月ということだ。同時にまた、自ら自身のここまでの歩みを振り返る時でもあろう。

 こんな俳句が脳裏を走る。「ひととせは落ち葉の夢でありにけり」。かつて大原三千院の門前で茶屋を営み、庵をむすんでいた小塙(こはなわ)徳女が、飛花落葉(ひからくよう)を詠った句。そこに人の世の儚さが、歌われている。何とはなしに心に染みる句である。

 聖書も同様に語る。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」しかし、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40:7-8)と・・・。 神の言葉は常に変わらず永遠に残るが、人の生というものは無常であり、やがては終わり行く・・・。どんなに楽しいことも、喜びも、また嘆き、悲しみもいつかは消え果てる、と。

 ただし人は、その永遠なる神の言葉に、思いを寄せることができるのである。キリスト教哲学者パスカルは、「人間は一茎の葦にしか過ぎない。自然の中で最も弱いものである。しかし、それは考える葦である」と記した。「考える」とは、神について思うこと。つまり永遠である神に思い馳せることを意味する。さらに私たちは、信仰に与って、その永遠の神の御許へ入ることができるものと信じている・・・。ここにこそ私たちの信仰の醍醐味があるだろう。信仰者の人生とは、永遠に向けて歩を進める旅路なのである。

  旧約の詩人は詠った。「願わくは、我らにおのが日を数ふることを教へて、智慧の心を得しめたまへ」(詩篇90:12文語訳)と。私たちも人生の一日一日を大切に憶え、永遠を目指して、今を懸命に歩み続けようではないか。天上にある先達たちも、神共に在って、そんな私たちの足もとを見守り、支え、祈ってくれているものと思う・・・。 世にあって「一日一生」と心に刻み、「二度とない今日のいのち」を感謝をもって真摯に生き抜くものでありたいと願う。


☆10月29日説教「心を一つに」要約:
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17:21)
 主は祈られました。「すべての人を一つに」と。それは単に人間の間に分裂がないようにということではありません。共に「神」の家族として生きるようにという招きなのです。神は信仰者のみならず全てのものの神だからです。


 


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# by aslan-simba | 2017-10-24 19:17 | Comments(0)

〒612-8006 京都市伏見区桃山町大島86-29             京阪桃山南口より徒歩8分 ほっこりした教会、牧師の飼い犬です。
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